第2話:できる子とできない子
レッスンが始まったのは、結成発表から三日後だった。
その朝、翼は、いつもより早く目が覚めた。
「お弁当、多めに作ったから」
台所に立つ母親が、いつもと変わらない口調でそう言った。それでも、いつもより少しだけ、声が硬い気がした。
「そんなにいらないよ」
「初日だから。頑張ってきなさい」
母親は、そう言って、翼の背中を軽く押した。
玄関を出る前、翼は少しだけ振り返った。母親は、いつものように、玄関先で見送ってくれていた。学校に行けなかった日も、こうして見送ってくれていた人。
その姿を、翼は目に焼きつけてから、家を出た。
スタジオに集まった十一人を待っていたのは、拍手でも祝福でもない。ボイストレーナーとダンスインストラクター、そして今後グループを指導していくスタッフたちの、値踏みするような視線だった。
「今日から皆さんには、デビューに向けたレッスンを始めてもらいます」
インストラクターの声には、抑揚がなかった。
「言っておきますが、十一人全員がデビューできる保証はありません」
空気が、一瞬で張り詰めた。
翼は思わず、隣に立つ黒瀬を見た。黒瀬は表情を変えないまま、まっすぐ前を向いている。
「本当に……?」
「聞いてなかった?」
黒瀬が、小声で返した。
「聞いてない」
「言われてたと思うけど」
「そんな怖い言い方じゃなかった」
「怖い言い方でも同じことだよ」
黒瀬の声には、諦めのようなものが滲んでいた。
「まずはダンスから。基礎の確認をします」
インストラクターの合図で、全員が鏡張りのスタジオに横一列に並んだ。
スピーカーから、まだ仮の音源が流れ始める。歌詞のない、リズムだけのシンプルなトラックだった。
「右手を上げて、二拍、四拍でターン。それを八回繰り返します」
言葉で聞くと簡単そうなのに、実際に身体を動かすと、腕の角度、足の運び、視線の向き――すべてを同時に合わせなければならないことに、翼はすぐに気づいた。
翼は、自分の右に白峰がいることに気づいた。
左には、才賀奏。
その向こうに、黒瀬。
十一人が並ぶと、否応なく比較される。
振り付けの基礎、ステップの一つひとつ。インストラクターの手本を見ながら、全員が同時に動く。
翼は、一つ動きを間違えた。
「そこ、逆」
短い指摘。翼は慌てて足元を確認する。
二回目も、間違えた。
「雨月さん、もう一度だけ見せてください」
インストラクターに名指しされ、翼の心臓が跳ねた。周囲の視線が、一斉に集まる。
もう一度、同じ動きを繰り返す。今度は、なんとか形にはなったが、ぎこちなさは隠しきれなかった。
「悪くないです。あとは、回数を重ねれば」
その一言に、翼は小さく安堵した。それでも、注目された数秒間の緊張は、しばらく身体に残っていた。
三回目で、ようやく合わせられた。
顔を上げると、白峰は既に完璧に動いていた。一度も止まらず、一度も間違えず、まるで最初から知っていたかのように。
その隣では、桃花が、間違えるたびに舌をぺろりと出して笑っていた。悔しくないはずはないのに、その表情には、不思議と余裕があった。
「桃花、平気そうだね」
翼が小声で言うと、桃花は片目をつぶってみせた。
「間違えるの、慣れてるから」
「慣れていいものじゃないと思うけど」
「へこんでたら、次の振り付け覚えられないでしょ」
その切り替えの早さに、翼は、素直に感心した。
翼は、そっと隣を見た。
黒瀬も、間違えていた。何度も。
「……下手だね、私」
休憩中、黒瀬がぽつりと呟いた。
「私もだよ」
「ツバサはまだいい方」
「そんなことない」
「白峰さん見た? 一回も間違えてない」
翼も、同じことを思っていた。
「奏ちゃんも上手いし」
才賀奏は、ダンスも決して下手ではなかった。歌ほどの圧倒的な差はないが、基礎はしっかりしている。
「私、何のために選ばれたんだろう」
黒瀬の声は、独り言のように小さかった。
翼は、何も言えなかった。同じ疑問を、自分も抱えていたからだ。
ダンスレッスンの終わり際、インストラクターが、全員を集めて言った。
「今日の段階で、正直に言います。デビューできるレベルにいる人と、そうでない人には、かなり差があります」
名前は、誰も呼ばれなかった。
それでも、その一言は、翼の胸に、鋭く突き刺さった。
誰も、自分が「そうでない」側だとは言われていない。それなのに、誰もが、自分がどちら側なのか、なんとなく分かっていた。
翼は、白峰の完璧な動きを思い出した。
――私は、たぶん、できない側だ。
その確信が、静かに、けれど確かに、翼の中に根を下ろした。
黒瀬の方を見ると、黒瀬もまた、同じことを思っているようだった。
もし黒瀬にも何かがあるのだとしたら――。
――じゃあ、私には、何があるんだろう。
その問いは、まだ答えの見えない、小さな不安として、翼の中に残り続けた。
*
昼休み、翼は初めて他のメンバーとまともに話す機会を得た。
「レッスン、きつくない?」
声をかけてきたのは、神楽美咲だった。結成の日から、自然と場をまとめていた少女だ。
「きついです……」
「私もだよ。全然ついていけない」
意外な言葉だった。落ち着いた雰囲気からは、そんな苦労を感じさせなかったからだ。
「でも、なんかまとめないとって思っちゃって」
「まとめるって?」
「みんな不安そうだったから。誰かが声かけないと、って」
翼は、少しだけ納得した。この人は、リーダーになりそうだと直感的に思った。
少し離れた場所では、二階堂理沙が教科書を広げていた。
「休み時間まで勉強してるの?」
翼が尋ねると、理沙は少し照れくさそうに顔を上げた。
「うん……時間がないから」
「大変そう」
「大変。でも、両方諦めたくなくて」
その言葉には、迷いがなかった。
少し離れた場所には、才賀奏が一人、静かに座っていた。誰かと話すでもなく、ただ窓の外を見つめている。
「才賀さんは、休み時間、いつも一人なの?」
翼が声をかけると、才賀奏は少し驚いたように顔を上げた。
「……声、温存してる」
「え?」
「休み時間まで喋ってると、喉が疲れるから。歌う時間を、大事にしたくて」
その徹底ぶりに、翼は少し圧倒された。
「そこまで考えてるんだ」
「考えないと、この中では埋もれると思うから」
才賀奏は、それだけ言うと、また窓の外に視線を戻した。
その横顔には、翼が思っていたよりもずっと、静かな緊張感が漂っていた。
十一人。まだ名前も知らない相手もいる。それでも、少しずつ輪郭が見え始めていた。
――誰が、何が得意で。誰が、何を抱えているのか。
昼食は、スタジオに併設された簡素な休憩室で、各自バラバラに済ませることになっていた。それでも、自然と何人かが一つのテーブルに集まっていた。
「みんな、初日からこんなに疲れるものなの?」
桃花が、コンビニのおにぎりを頬張りながら言う。
「これが普通なのか、今日だけきついのか、まだ分からない」
理沙が、冷静に返す。
「たぶん、これから、もっときつくなると思う」
美咲が、苦笑いしながら付け加えた。
「そんな……」
桃花が、大げさに肩を落とす仕草を見せると、テーブルに小さな笑いが広がった。
翼は、その輪の中に、自分もいることに、少しだけ驚いていた。
学校では、こんなふうに誰かと机を囲むことすら、久しくなかった。
*
午後のボイストレーニングでは、立場が逆転した。
「才賀さん、もう一度お願いします」
才賀奏が歌い出すと、レッスン室の空気が変わった。トレーナーですら、一瞬だけ言葉を失っていた。
「……素晴らしいですね」
「ありがとうございます」
才賀奏は、表情を変えずに頭を下げた。
次に指名されたのは、白峰だった。
歌声自体は、才賀奏ほど圧倒的ではない。けれど、声の出し方、表情、視線の運び方――全てが計算されているかのように整っていた。
「上手ですね。表現力がある」
「ありがとうございます」
白峰の返事は短かった。感情の起伏が、ほとんど見えない。
桃花の番になると、空気が少しだけ和んだ。
桃花の歌声は、決して技術的に優れているわけではなかった。それでも、聴いていて自然と笑顔になるような、明るさがあった。
「楽しそうに歌いますね」
「はい! 歌うの好きなので!」
桃花の元気な返事に、トレーナーも思わず口元を緩めた。
翼の番が来た。
緊張で、声が震える。音程は外れないよう気をつけたが、表現どころではなかった。
「……もう少し、伸び伸び歌ってみましょうか」
トレーナーの言葉に、翼は小さく頷いた。悔しさよりも先に、恥ずかしさが込み上げた。
最後に、黒瀬の番が来た。
黒瀬は、小さな声で歌い始めた。
最初、翼は正直、期待していなかった。
けれど。
一小節を過ぎたあたりから、その声に、何かが宿り始めた。
技術的には、決して上手いわけではない。音程も、ときどき不安定になる。
それでも――。
「……」
トレーナーが、黙って聴いていた。
歌い終えたあと、しばらく沈黙が続いた。
「もう一度、聴かせてもらっていい?」
黒瀬は、戸惑ったように頷いた。
二度目の歌声。
翼は、なぜか胸の奥が締めつけられるのを感じた。
上手いとか、下手とか。そういう基準とは、少し違う場所にある何かだった。
黒瀬の声には、寂しさが滲んでいた。それが、不思議と耳に残る。
「……黒瀬さん、良い声してますね」
トレーナーが言った。
「え……」
黒瀬自身が、一番驚いているようだった。
「技術はこれからだけど、伝わってくるものがある」
黒瀬は、何と返せばいいか分からない様子で、視線を彷徨わせていた。
周囲の何人かも、驚いたように黒瀬を見ていた。桃花は、口元を両手で押さえて、小さく「すごい」と呟いている。才賀奏だけは、静かに、けれど確かに頷いていた。まるで、最初からその声の価値を知っていたかのように。
翼は、その横顔を見つめた。
――下手だと思ってたのに。
誰よりも「どうせ落ちる」「どうせ無理」と言い続けていた黒瀬が、その日、初めて誰かに認められた。
*
夕方近く、レッスンの合間の休憩で、翼は自動販売機の前で美咲と一緒になった。
「今日、黒瀬さん、すごかったね」
美咲が、飲み物を選びながら言った。
「うん。私も驚いた」
「本人が一番驚いてたと思うけど」
美咲は、小さく笑った。
「こういうの、見てると思うんだよね」
「何が?」
「最初から目立つ子もいれば、後から気づかれる子もいる。どっちが優れてるとか、そういうことじゃなくて」
美咲の言葉には、翼が考えたこともなかった視点があった。
「じゃあ、私は?」
思わず、そんな言葉が口から出た。
「翼は、まだこれから、じゃない?」
その答えは、慰めではなく、ただの事実として聞こえた。
翼は、それを素直に受け止めることにした。
*
レッスンを終え、着替え室へ向かう廊下で、黒瀬が翼の隣に並んだ。
「……びっくりした」
「私も」
「なんであんなこと言われたんだろう」
「良い声だからでしょ」
「そんなわけないじゃん」
黒瀬は、いつものように否定した。けれど、その口調には、わずかに戸惑いが混じっていた。
翼は、その変化に気づいていた。
「黒瀬」
「何」
「ちゃんと聞こえてたよ、今の。すごく良かった」
黒瀬は、しばらく黙っていた。
「……ありがと」
小さな声だった。
いつもの「どうせ」ではなかった。
翼は、その一言だけで、今日という日が少しだけ報われた気がした。
*
その日の帰り道、翼は電車の窓に映る自分の顔を、ぼんやりと眺めていた。
初日から、うまくいかないことばかりだった。ダンスは何度も間違えたし、歌は「伸び伸び」とは程遠かった。
それでも、心のどこかに、小さな灯りのようなものが点っていた。
家に着くと、母親が玄関まで迎えに来た。
「どうだった?」
「……疲れた」
「そう」
母親は、それ以上何も聞かなかった。ただ、翼の頭をそっと撫でた。
「明日も、頑張れそう?」
翼は、少し考えてから、頷いた。
「うん。頑張る」
その返事に、自分でも驚いた。学校に行けなかった頃には、絶対に出てこなかった言葉だった。
自室のベッドに入ってからも、翼は、今日一日の出来事を、何度も頭の中で繰り返していた。
白峰の完璧な動き。才賀奏の圧倒的な歌。黒瀬の、誰も知らなかった声。
自分には、まだ何もない。
それでも、悔しさよりも先に、不思議な高揚感があった。
こんなに誰かのことを、一日中考えたのは、初めてだった。
まだ何も始まっていない。全員がデビューできる保証もない。
それでも、この十一人の中に、それぞれの光がある。
白峰には、華がある。
奏には、歌がある。
黒瀬には、声があった。
じゃあ、私には、何があるんだろう。
雨月翼は、自分に何があるのか、まだ分からなかった。
それでも、この場所に残りたいという気持ちだけは、確かなものになっていた。




