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斯くして、彼女たちはアイドルになった。  作者: 黒髪
第1章 結成――まだ名もなき十一人

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第1話:十一人の始まり

「……どうしよう」

 都内某所に聳え立つ大きな高層ビルの一室で、雨月翼(あまつきつばさ)は誰にも届かない声をこぼした。

 中学一年生の十三歳。

 胸元には、大きな番号札が下がっている。

 その紙を見るたび、自分がここまで来てしまったという事実だけが、重く突きつけられる。

 ここは――。

 日本を代表する音楽事務所サニーグループエンタテインメント主催の、新規女性アイドルグループ第一期生オーディション会場。

 応募総数、約一万五千人。

 書類審査を通過した少女たちが、今この会場に集まっているのだ。

 翼は恐る恐る、周囲を見回した。

 右にいる子も左にいる子も可愛い。

 斜め前の子は綺麗だし、少し離れた場所には、モデルのように背の高い少女までいる。

 ――なんで私、一次審査通ったんだろう。

 家を出る前、母親は何度も「可愛い」と言ってくれた。服も一緒に選んだ。髪も、いつもより時間をかけて整えた。鏡を見たときには、ほんの少しだけ自信が持てた気がした。

 もしかしたら、本当にもしかしたら――。

 自分もアイドルになれるのかもしれない。

 そう思えたのは、家を出るまでだった。

「ねぇねぇ、何を歌う予定?」

「私、まだ迷ってる」

「ダンス審査って、どれくらいやるんだろうね」

 周囲から聞こえる会話の一つひとつが、翼の胸を締めつける。

 歌。ダンス。審査。

 これから自分が向き合わなければならないものばかりだった。しかも、すでに友達のように話している少女たちもいる。

 翼は、まだ誰とも話していない。

 こういう場所が、昔から苦手だった。知らない人が大勢いる場所では、いつの間にか輪ができる。その輪の外側に、気づけば自分だけが取り残されている。

 ――帰りたい。やっぱり自分には向いてない。

 まだ審査は始まっていない。受付へ行って、気分が悪くなったと言えば帰れるかもしれない。

「……ママからは怒られるかもしれないけど」

 嘘ではない。本当に、少し気分が悪い。それなら、問題はなかった。

 翼が鞄を持ち上げた、そのときだった。

「すみませーん! まだ間に合いますか!?」

 控え室の入口から大きな声が響き、一人の少女が息を切らして駆け込んできた。

「二次審査を受けに来ました! 電車を間違えちゃって!」

「受付時間内ですから、大丈夫ですよ」

「よかったぁ……!」

 少女は胸元を押さえ、その場で大きく息を吐いた。何人かが振り返ったが、当の本人はまるで気にする様子もない。受付のスタッフへ、迷いのない笑顔を向けている。

「お名前をお願いします」

「姫野桃花(ひめのももか)です!」

 姫野桃花。

 翼は、なんとなくその名前を覚えた。可愛い名前だと思った。本人も可愛い。髪型も服も、鞄に付いた小さなマスコットまで、どこか愛らしい。

 何より、楽しそうだった。これから審査を受けるとは思えないほどに。

 受付を終えた桃花は、控室をぐるりと見渡した。

「あ、ここ空いてる。隣、いい?」

「うん」

「ありがとう! 緊張するね!」

 もう話している。

 翼には、とても真似できそうにない。

 ――ああいう子が、アイドルになるのかな。

 そう思った。

 翼は再び鞄を抱え直す。やっぱり帰ろう。

 そう決めた直後、控え室の入口に、また一人の少女が現れた。

 今度は、誰も声を上げなかった。何かが起きたわけでもない。

 それなのに、翼は顔を上げていた。

「…………」

 目が、離せなかった。

 綺麗だった。最初に浮かんだのは、その一言だけ。

 白いブラウス。落ち着いた色のスカート。派手ではない髪型。濃く見えない化粧。それなのに、他の少女たちとは何かが決定的に違っていた。

 小さな顔。白い肌。すらりと伸びた手足。特徴を一つずつ確かめるより先に、綺麗だ、という感覚だけが先に届いた。息を呑むほどに。

「……すご」

 誰かの小さな声。

 翼も、同じことを思っていた。

 大人っぽい雰囲気の少女が受付へ向かう。

「白峰(しらみね)さんですね」

 スタッフの声が響いた。

 少女は番号札を受け取り、軽く頭を下げる。ただ、それだけだった。自分が注目されていることを気にする様子はない。むしろ、そうされることが当たり前であるかのように、静かに立っていた。

 翼は思った。

 ――この人、絶対受かる。

 歌を聴いたわけではない。踊っているところを見たわけでもない。性格だって、何も知らない。それでも、なぜか分かった。

 この人はアイドルになる。

 綺麗な衣装を着て、眩しい照明を浴び、ステージの真ん中に立つ。そんな姿が、あまりにも簡単に想像できてしまう。

 ――すごいな。

 翼は白峰を見つめたまま、ほんの一瞬だけ思う。

 ――私も、あんなふうになれたら。

「隣、座っていい?」

「――えっ?」

 突然声を掛けられ、翼は肩を震わせた。すぐ隣に一人の少女が立っていたのだ。

「あ、うん。どうぞ」

「ありがとう」

 少女は翼の隣に、静かに腰を下ろした。

 細い身体。長い髪。白峰とはまったく違う雰囲気だった。物静かで、どこか頼りなく見える。

 少女は座るなり、小さく息を吐いた。

「……帰りたい。もう無理かもしれん」

 翼は思わず横を向いた。

 少女は両手で顔を隠しながら、「自分には無理だ」「帰りたい」「嫌だ」とネガティブな言葉を並べている。冗談なのか本気なのか、翼には判断できない。

 だが――せっかくの機会かもしれない。

「じゃあ、帰る?」

 聞いてみると、少女は小さく首を振った。

「無理」

「なんで?」

「ここまで来た交通費がもったいない」

 翼は思わず笑った。

「そこ?」

「大事やん。あたし、兵庫から出てきたんやから」

 少女も、少しだけ口元を緩めた。その笑顔には、どこか寂しさが滲んでいた。

「名前、聞いていい?」

「黒瀬。黒瀬琴葉(くろせことは)」

「私は雨月翼」

「あまつき?」

「うん。雨に月って書いて、あまつき」

「珍しいね」

「よく言われる」

 黒瀬は少し考えるように、翼を見た。

「じゃあ、ツバサ」

「え?」

「ツバサって呼ぶ」

「いきなり?」

「嫌だった?」

「……別にいいけど」

「じゃあ、ツバサ。決定な」

 初対面なのに。

 それでも、不思議と嫌ではなかった。

 黒瀬が前を向く。その視線の先には、白峰がいた。

「……綺麗やね」

「うん!」

 翼は強く頷いた。

「絶対受かるよね」

「うん」

 黒瀬は白峰を見つめたまま、また小さく息を吐いた。

「やっぱり帰ればよかったかも」

「なんで?」

「あんな子と一緒に審査されるんやで?」

「でも――」

「私なんか、受かるわけないやん」

 黒瀬は、当然のことのようにそう言った。

「まだ審査してないよ?」

「しなくても分かるよ」

「分からないでしょ」

「分かるって」

 黒瀬は、少しだけ笑った。

「どうせ落ちるもん」

 翼には、何と返せばいいのか分からなかった。同じ白峰を見ているのに、感じ方はまるで違う。翼は少しだけ憧れた。黒瀬は、自分には無理だと思っているようだった。

「あー! 二人とも喧嘩してる!?」

 突然、大きな声が割り込んだ。姫野桃花だった。

 翼と黒瀬は、思わず顔を見合わせた。

「喧嘩じゃないよ、大丈夫」

 翼が慌てて否定したが、桃花は聞く耳を持たず、二人の間にひょいと座り込んだ。

「で、二人はどうして言い争ってたわけ?」

 翼が、事情を簡単に説明した。周りと比べて自分は可愛くない、と黒瀬が卑下していたこと。

 黒瀬のように、自信を失くしてしまう気持ちは、翼にも分かる気がした。それでも、桃花が返した言葉は、翼の予想とは違っていた。

「むしろ最高じゃん!」

「……何が?」

「一緒に受かったら、同じグループになれるかもしれないんだよ?」

 翼は桃花を見た。

 同じグループ。

 そんなことは、考えてもいなかった。

 白峰と。黒瀬と。この姫野桃花とも。

 自分が一緒にアイドルをする。

 そんな未来が、本当にあるのだろうか。

「みなさん、座席に座ってください」

 スタッフの声が響き、控室の空気が張り詰めた。

「これから二次審査を開始します! それではエントリーナンバー1番の方から別室へ移動しますので準備をお願いします」

 審査が、始まった。

     *

 歌唱審査。ダンス審査。そして面接。

 順番が進むほど、翼はここへ来たことを後悔した。歌では思うように声が出なかった。ダンスでは一度、振りを間違えた。

 絶対に落ちた。そう思った。

 その一方で、すごい人もいた。

 才賀奏(さいがかなで)。

 彼女が歌い始めた瞬間、空気が変わった。翼にも分かるほどだった。上手い。自分とは比べものにならない。審査を終えた参加者たちまで、

「才賀さん、すごくない?」

「もう歌手じゃん」

 と口々に話していた。

 白峰を見たときとは違う。白峰は、見た瞬間に人を惹きつけた。才賀奏は、声を聴いた瞬間に空気そのものを変えた。

 この人も受かる。翼はそう思った。

 そして最後に、翼は面接室の椅子に座っていた。目の前には、数人の審査員。緊張で喉が渇く。

 でも、大丈夫。面接対策はしてきた。母親と何度も練習した。志望動機。長所。短所。好きなアイドル。将来の夢。全部、答えられる。

「では、雨月さん」

「はい!」

「アイドルになりたい理由を教えてください」

 来た。

 翼は背筋を伸ばす。昨日、母親と何度も練習した答え。一言一句、覚えている。

「昔から歌ったり踊ったりすることが好きで、たくさんの人を笑顔にできるアイドルに憧れていたからです」

 言えた。完璧だった。家で練習したときと、まったく同じ。

 翼は、ようやく少しだけ息をついた。

「違うでしょ?」

「……え?」

 翼は顔を上げた。

 声を発したのは、端に座っていた男だった。翼でも知っている、有名なプロデューサー――春宮修一(はるみやしゅういち)。数々の歌手やアイドルを世に送り出し、今回の新グループを立ち上げた張本人でもある。

 その男が、まっすぐに翼を見ていた。

「今の、君の本当の志望理由じゃないでしょ?」

「…………」

 頭の中が、真っ白になった。

「誰かと考えた?」

「えっと……」

「お母さん?」

 翼は目を見開いた。

「……はい」

 男は、小さく笑った。

「よくできてる。だから、君の言葉じゃないって分かる」

 翼は、何も言えなくなった。

「歌ったり踊ったりするのが、昔から好き?」

「…………」

「アイドルに、ずっと憧れてた?」

 答えられない。

 嘘だった。歌は嫌いではない。けれど、特別好きだったわけでもない。ダンスなんて、ほとんどやったことがない。アイドルも、テレビで見れば知っている程度だった。

「上手に答えなくていいよ」

 男は、翼の資料を机に置いた。

「僕たちは、模範解答を選ぶために一万五千人も集めたわけじゃない」

 翼の指先が震える。

「知りたいのは、雨月翼がどういう子なのかだ」

 逃げたい。今すぐ、この面接室から出たい。

「もう一回聞くよ」

 男が翼を見る。

「君は、どうしてアイドルになりたいの?」

 翼は俯いた。言いたくない。こんなことを言えば、落とされる。絶対に。

「……学校に」

 それでも、声は出た。

「うん?」

「学校に……行きたくないからです」

 室内が、静まり返った。

 翼は自分の膝を見つめる。顔を上げられない。

「今、中学校にほとんど行ってなくて」

 もう、止められなかった。

「別に、いじめられてるわけじゃないです。先生が嫌いなわけでもなくて。ただ……学校に行くのが嫌で」

「どうして?」

「分かりません」

 それが、一番苦しかった。

「教室に入ると帰りたくなって。休み時間も、みんなが喋ってるところにいるのが嫌で。朝になると行きたくなくなって……」

 翼は手を強く握りしめた。

「それで、このオーディションを見つけました」

「アイドルになったら、学校へ行かなくて済むと思った?」

「……はい」

 最低の志望動機だと思った。一万五千人も応募している。本気でアイドルになりたい人が、大勢いる。姫野桃花のように、アイドルになることを楽しみにしている人もいる。才賀奏のような才能を持つ人もいる。白峰のように、アイドルになるために生まれてきたような人までいる。

 それなのに、自分は。

 学校へ行きたくないから。

「なるほどね」

 プロデューサーが言った。

「それが本当の理由か」

「……はい」

「いいじゃん」

 翼は顔を上げた。

「え?」

「さっきより、ずっといい」

「でも……」

「学校から逃げたい。それだって、立派な動機だよ」

「立派じゃないです」

「そう?」

 男は、少し笑った。

「人間が何かを始める理由なんて、案外そんなものだよ」

 翼には、まだ分からなかった。

「ただし」

 男の声が、少し低くなる。

「アイドルになったら、嫌なことはもっと増えるかもしれない」

 翼は黙った。

「歌いたくない日にも歌う。踊りたくない日にも踊る。笑いたくない日にも笑わなきゃいけない。自分より人気のある子が隣にいる。何万人から好きだと言われる代わりに、何万人から嫌いだと言われるかもしれない」

 翼の指先に、力がこもった。

「それでも?」

 男は翼を見つめた。

「また逃げる?」

 答えが浮かばなかった。

 ここで、

『絶対に逃げません』

 そう言えばいい。きっと、それが正解だ。

 けれど、さっきの答えと同じように、見抜かれる気がした。

「……分かりません」

 翼は答えた。

「逃げるかもしれません」

 審査員の一人が、わずかに顔を上げた。

「学校にも行けてないから……アイドルなら絶対逃げませんって言っても、嘘になると思います」

 プロデューサーは、何も言わなかった。

「でも……」

 翼は白峰を思い出した。控室へ入ってきた瞬間、目を奪われた。絶対に受かると思った。あんなふうになれたらと思った。

 黒瀬。どうせ落ちると言いながら、それでも帰らずに残っている少女。

 姫野桃花。一緒に受かったら同じグループになれると笑った少女。

 そして才賀奏。歌った瞬間、誰もが彼女を見た。

「ここに来るまでは……学校に行きたくないから、アイドルになろうと思ってました」

「今は?」

 翼は少し考えた。

「……受かりたいです」

 自分の口から出た言葉に、自分が一番驚いた。

「どうして?」

「今日、ここで会った人たちと……一緒にやってみたいから」

「アイドルを?」

「はい」

 翼は初めて、まっすぐに男を見た。

「私も、アイドルになってみたいです」

 男はしばらく黙っていた。やがて、手元の資料に何かを書き込む。

「ありがとう」

 翼は小さく頭を下げた。

「雨月さん」

「はい」

「最後に一つだけ」

 男が言った。

「逃げること自体は、悪いことじゃないよ」

 翼は男を見る。

「逃げた先で、何を見つけるかだから」

 その言葉の意味を、翼はまだ理解できなかった。

     *

 面接室を出る。扉が閉まった瞬間、翼は肺の奥に溜めていた息を、一気に吐き出した。

「はぁぁぁぁ……」

 絶対に落ちた。途中から、何を話したのかもよく覚えていない。母親には怒られるだろう。せっかく一緒に志望動機を考えたのに、全部台無しにしてしまった。

「ツバサ」

 声がした。顔を上げると、黒瀬がいた。

「どうだった?」

「終わった」

「私も」

「まだ受けてないでしょ?」

「未来の話」

「ネガティブすぎない?」

「だって無理だもん」

 黒瀬はそう言って笑った。やっぱり、少し寂しそうな笑顔だった。

「ツバサ!」

 さらに大きな声が響く。姫野桃花が、手を振っていた。

「こっちこっち!」

 翼は少し迷ってから、二人のところへ向かった。

 朝まで名前すら知らなかった少女たち。学校では、誰かの輪に入ることがあれほど怖かった。なのに今は、自分から歩いている。

「面接、何聞かれた?」

「志望動機」

「何て答えた?」

「……言いたくない」

「えー! なんで!」

「絶対言わない」

「気になる!」

「無理」

 桃花が笑う。黒瀬も、小さく笑う。翼も、つられて笑った。

 少し離れたところには、白峰がいる。まだ話したことはない。白峰は、翼の名前すら知らないだろう。

 それでも、翼は思った。

 ――受かりたい。

 今度は、はっきりとそう思った。

 学校へ行きたくなかった。だから、ここへ来た。最初は、それだけだった。

 けれど、逃げた先で。

 雨月翼は初めて、自分から残りたいと思える場所を見つけようとしていた。

     *     

 合格発表は、一週間後だった。

 雨月翼は、その一週間をほとんど覚えていない。学校には、相変わらず行けなかった。母親に「オーディションどうだった?」と聞かれるたび、「わからない」としか答えられなかった。

 わからない、というのは嘘ではなかった。面接の最後、自分が何を口走ったのか、今でもはっきりとは思い出せない。ただ、あの部屋を出たときの感覚だけは、身体のどこかに残っていた。

 ――受かりたい。

 初めて、そう思った瞬間があった。

 通知は、メールで届くことになっていた。発表当日の正午。翼はその十分前から、スマートフォンを両手で握りしめて自室の床に座っていた。

「翼、来た?」

 ドア越しに、母親の声がする。

「まだ」

「そう」

 足音が遠ざかる。気を遣わせているのが分かった。

 画面の時計が、11時59分から12時に変わる。

 通知は来ない。

 一分。二分。三分。

 まだ来ない。

 翼の指先が、じわりと冷たくなっていく。

 ――落ちた。

 そう思いかけたとき、画面が光った。

『【第一期生オーディション】合格通知』

 息が止まった。

 開くのが怖い。けれど、開かなければ何も始まらない。

 翼は震える指で、通知をタップした。

     *

 文面は短かった。

 合格。

 その二文字だけで、翼はしばらく画面を見つめたまま動けなかった。

 実感が、追いつかない。

 嬉しい、のだと思う。でも、それよりも先に浮かんだのは、別の感情だった。

 ――本当に、私でよかったのかな。

 白峰のような子がいた。才賀奏のような子もいた。一万五千人の中から選ばれた自分に、その資格があるとは、まだ思えなかった。

「翼!?」

 部屋の外から、母親の声が響く。よほど大きな音を立ててしまったらしい。ドアが開いた。

「どうだった……?」

 母親の顔は、緊張で強張っていた。

 翼は、スマートフォンの画面をそのまま差し出した。

 母親が文字を読む。数秒の沈黙のあと、母親の目が潤んだ。

「……よかった」

 その一言だけで、涙が溢れていた。

 翼は、その顔を見て、ようやく実感した。

 自分は今日から、アイドルになる。

     *

 初めての顔合わせは、都内のスタジオで行われた。

 白い壁、鏡張りの床。控室とは違う、どこか緊張感のある空間だった。

 スタッフに案内され、翼が中へ入ると、すでに何人かの少女が集まっていた。

「あ、ツバサだ!」

 真っ先に声を上げたのは、姫野桃花だった。相変わらず、誰よりも早く距離を詰めてくる。

「桃花……受かったんだ」

「当たり前じゃん!」

 桃花は翼の両手を握って、その場で飛び跳ねた。

「ツバサも受かったんだね! よかった、本当によかった!」

 翼も、自然と頬が緩む。

「才賀さんは?」

 周囲を見渡すと、少し離れた場所に才賀奏の姿があった。静かに立ち、他のメンバーの様子を眺めている。目が合うと、小さく会釈をされた。翼も、ぎこちなく頭を下げ返す。

 まだ、あの歌声の余韻が耳に残っていた。

「黒瀬は……」

 探していると、部屋の隅から、聞き覚えのある声がした。

「ツバサ」

「黒瀬!」

 翼は駆け寄った。黒瀬は相変わらず、どこか気だるげな表情をしている。

「受かってるとは思わなかった」

「私も」

「ほんとに?」

「うん。落ちたと思ってた」

「じゃあ、なんで来たの」

「一応、通知だけ確認しようと思って」

「……嘘でしょ」

 黒瀬は、少しだけ口の端を上げた。

「嬉しかった、ちょっとだけ」

 その「ちょっとだけ」に、翼は安心した。黒瀬らしい言い方だと思った。

     *

「揃いましたね」

 スタッフの声で、部屋の空気が変わった。

 全員が、正面を向く。

 翼は、初めて室内をきちんと見渡した。

 白峰。黒瀬。姫野桃花。才賀奏。

 そして、まだ名前を知らない少女たちが、他に七人。

 誰もが、翼と同じ番号札をつけていた。

 ――同じ場所に、受かった。

 実感が、じわりと広がっていく。

 まだ、誰の名前も知らない。

 それでも翼は、その全員を見渡しながら思った。

 ――この十一人で、やっていくんだ。

「本日をもって、皆さんが第一期生として正式に決定しました」

 スタッフの声が響く。

 拍手が起きた。誰からともなく、自然に。

 翼も、両手を叩いた。

 隣で、黒瀬が小さく笑っている。反対側では、桃花が満面の笑みで飛び跳ねていた。少し離れた場所では、才賀奏が静かに頭を下げている。

 そして、白峰は。

 誰よりも静かに、けれどまっすぐに前を見ていた。

 ――やっぱり、この人は違う。

 翼は、そう思った。

     *

 拍手が収まった頃、スタッフが一枚の紙を配り始めた。

「それと、皆さんに大事なお知らせがあります」

 全員が、また顔を上げる。

「デビューに向けたレッスンが本格的に始まるにあたって、来月から、都内の寮での共同生活をお願いすることになります」

「寮……ですか?」

 誰かが、戸惑った声を上げた。

「はい。レッスンのスケジュールが不規則になりますし、皆さんには、できるだけ早くグループとしてのチームワークを身につけてもらいたいので」

 翼は、思わず隣の黒瀬を見た。

「寮生活……」

「うん」

「家族と離れて、ってこと?」

「たぶん」

 黒瀬の声にも、戸惑いが滲んでいた。

「もちろん、無理強いするものではありません。ご家庭の事情がある方は、個別に相談してください」

 スタッフの言葉に、部屋の空気が、少しだけ揺れた。

 翼は、母親の顔を思い浮かべた。

 毎朝、学校に行けない自分を、それでも見送ってくれた人。

 その母のもとを離れて、知らない少女たちと一つ屋根の下で暮らす。

 想像すると、不安の方が大きかった。

 それでも――。

 翼は、もう一度、十一人を見渡した。

 白峰。黒瀬。姫野桃花。才賀奏。まだ名前を知らない、他の七人。

 この人たちと、同じ場所で毎日を過ごす。

 そう考えると、不思議と、悪くない気もした。

「一緒に住むの、私は賛成!」

 真っ先に声を上げたのは、桃花だった。

「だって、もっと仲良くなれるじゃん」

「桃花は呑気だね」

 黒瀬が、小さく呟く。

「呑気じゃないよ! 真剣に考えて言ってる!」

「はいはい」

 軽いやり取りに、周囲から小さな笑い声が漏れた。

 張り詰めていた空気が、ほんの少しだけ緩む。

 翼は、その光景を見ながら、そっと息を吐いた。

 ――これから、この十一人と暮らすんだ。

 まだ実感は湧かない。それでも、不安と同じくらいの大きさで、何かを期待している自分がいることに、翼は気づいていた。

     *

 これから何が始まるのか、まだ何も分かっていない。

 それでも、確かなことが一つだけあった。

 この十一人は、今日から一つのグループになる。

 雨月翼は、十一人の中の一人として、初めての一歩を踏み出そうとしていた。


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