第9話 勝負は常に本気で
そのあとも、しばらくみんなで海を楽しんだ。
美惚ちゃんは相変わらず元気で、茉陽瑠ちゃんは優しくて、とっても楽しかった。
……楽しかったけど。
千尋にはドキッとさせようと頑張ったけど、全部空振り。
今日のための努力は無駄だったのかなって、少しへこみかけた。
それに、千尋の表情を変えることが出来ないから、息止めとか棒倒しとかビーチフラッグとか、せめて他の勝負で勝とうとしたのに、負けてばかり。
ほんと、なんなのこいつ。
そんなこんなあって、絶賛敗北少女の私は次の勝負を目の前にしている。
「それじゃあ、次は泳ぎで勝負しよう!」
美惚ちゃんはそう言って、沖合に設置されたテトラポッドを指さす。
「え! あんなとこまで!」
遠いな。
100mくらいあるんじゃないか。
泳ぎで100m、経験したことないから不安だけど
──千尋に負けたくない。
「やるよ」
私が勢いよく参加を表明すると、隣の千尋も口を開く。
「私もやる」
こちらを見て、挑発するように笑みを浮かべる。
余裕そうなその顔。
さっきまでの勝負も、ずっとそんな感じだった。
なにをしても崩れない。
負けることなんて想像できないみたいな顔。
──ムカつく。
余裕ぶってるその顔、絶対崩してやる。
そう思うと、ますますやる気が湧いてきた。
「茉陽瑠は?」
美惚ちゃんが聞くと、茉陽瑠ちゃんは申し訳なさそうな表情を浮かべる。
「私はいいかな。向こうまで泳げる自信ないし」
顔を横に振り、不参加を申し出る。
まあ、そうだよね。
私もあんなとこまで泳いだことなくて、ちょっと不安だし。
「それじゃあ、3人で勝負だね」
隣から煽るような声色が落ちてくる。
「今度こそ、負けないからね」
それに対し、根拠のない自信と共にためらいのない声をあげる。
「それじゃあ、茉陽瑠が審判ってことで、ふたりとも準備はいい?」
「うん」
「ああ」
返事をし、私達は海の中へと足を進める。
胸が浸かるほどの深さまで歩き、振り返る。
「それじゃあ、茉陽瑠ちゃんスタートの合図よろしく」
「うん」
手を振って伝えると、茉陽瑠ちゃんも手を振り返してくれた。
「いくよー!」
やわらかな声が響く。
視線を前のテトラポッドに向け、息を吸い込む。
「よーい」
体を少し沈め、足に力を込める。
「どん!」
合図と同時に地面を蹴る。
飛ぶように、力強く。
それにあわせて、腕を動かす。
大きく、ひとかき、ひとかき、確実に。
前へ。
隣に千尋、その向こうに美惚ちゃん。
スタートして少し、ほぼ横並びの展開。
悪くない。
ちゃんと進んでる。
大丈夫。
落ち着いて。
確実に。
半分ほどまで来て、ちらっと横を見れば千尋はすぐ隣。
同じペース。
同じ距離。
──いける。
負けていないことを感じた瞬間、状況が一変した。
千尋の体が、僅かだが前に出た。
……え。
目の錯覚だと思った。
でも、次見た時には、その差ははっきりしていた。
半身分、千尋が前にいる。
──まずい。
負けじと腕に力を込める。
さっきよりも強く、速く。
しかし、差は縮まらない。
なんで……。
速くしてるのに。
追いつけるはずなのに。
もっと。
もっとはやくしなきゃ。
ここで、速くできなきゃ。
──負ける。
大きく腕を振り抜く。
叩きつけるように強く打ち込み、無理やり水をかく。
速く。
とにかく速く。
リズムなんてもう無茶苦茶で、口には水が入って、お世辞にも綺麗とは言えないフォーム。
それでも、気持ちだけで食らいつく。
やがて、千尋との距離は少し縮まり、先ほどの半分ほどの差に。
いける。
追いつける。
──と思った瞬間、千尋の動きが止まった。
なんだ?
浮かんだ疑問は、すぐに消えた。
手に硬い感触が伝わる。
その感触を確かめるように顔を上げると、目の前にはテトラポッド。
負けた……。
敗北を実感するよりも早く、隣から声が弾けた。
「私の勝ちだね」
こちらを見て笑う千尋。
その笑顔は余裕たっぷりで、呼吸もほとんど乱れていない。
なにそれ……。
こんなに必死にやったのに。
この顔を崩せなかった。
また負けた。
悔しい……。
「ふたりとも早いねー」
明るい声が少し遠くから響く。
顔を向けると、美惚ちゃんがこちらを見て笑っていた。
「そういう美惚が、一番速かったでしょ」
「まあね」
いつもみたいなふたりの明るい会話も、今は全然入ってこなかった。
「はぁ……、はぁ……」
息が荒く、喉がひりつく。
さっきまで動かせていたはずの腕が、今は持ち上げることすら嫌になる。
思ったより、きつい。
初めての距離で、無理にペースを上げたせいだ。
苦しい……。
この状態で、砂浜まで戻らなきゃいけないか。
さっきと同じペースは無理だ。
もう少し休んでから、ゆっくり戻ろう。
そう思って、体の力を抜き、波に身を任せる。
浮かんでいるだけで、少し楽になる。
波の動きに合わせて、呼吸を整える。
吸って。
吐いて。
……よし。
もう少ししたら、ゆっくり戻ろう。
そう考えたその時──
「それじゃあ、戻りも勝負ね!」
「えっ⁉」
思わず、驚いた声が出た。
聞いてない。
戻りもってなにそれ。
今の状態で?
無理。
さっきので、ほとんど使い切ってる。
ここからまた全力勝負とか、冗談じゃ──
「それじゃあ、よーい」
戸惑う私をよそに、美惚ちゃんが右手を大きく上げる。
待って。
ほんとにやるの?
せめて、もう少し──
「スタート!」
勢いよく右手が振り下ろされた。
「っ!」
美惚ちゃんと千尋が水を蹴る。
大きな水しぶきを上げ、勢いよく前に出るふたり。
その速さに、思わず目を見開く。
置いていかれる……。
「待って」
焦りから声をあげるが、届くことはなかった。
ふたりとの距離は、あっという間に離れていき、テトラポッドには私ひとりだけ。
やばい。
このままじゃ、本当に置いてかれる。
そう思って、必死に体を動かす。
歯を食いしばり、腕を動かす。
けれど、水がうまくつかめない。
かいているはずなのに、進んでる感じが全然しない。
腕が重い。
自分の体じゃないみたいで、上手く伸ばすことができない。
呼吸がずれる。
吸うタイミングもあやふやで、水が喉の中に入り込む。
「っ、げほ……」
むせる。
けど、止まれない。
止まったら置いてかれる。
一人にされる。
こんな沖合で、ひとりになんてなりたくない。
必死に腕を回す。
フォームなんてどうでもいい。
とにかく前へ。
かく。
かく。
かく。
どれだけ進んだのかも、もうよくわからない。
ただ、目の前の水をかいて、前に出ることだけを考えていた。
ようやく、足がなにかに触れた。
石……。
気づけば、浅瀬まで来ていたようで、立ち上がり砂浜まで歩き出た。
──着いた。
そう思った瞬間、全身から力が抜け、砂浜に倒れ込んだ。
「はぁ……、はぁ……、はぁ……、はぁ……」
胸が苦しい。
呼吸をいくらしても、酸素が足りない。
腕も、足もじんわりと重い。
始まる前の余裕なんて、もうどこにもない。
やばい……。
あんな無茶するんじゃなかった。
「唯恋、お疲れ」
すぐ傍から声が落ちてくる。
視界を少し動かすと、しゃがみ込んだ千尋の姿を捉えた。
こちらを見つめる千尋の表情は余裕たっぷり。
それどころか、どこか楽しんでいるようにさえ見える。
なに、その顔……。
ムカつく……。
こっちは必死だったのに、そんな顔……。
「ぅる……さい……」
息も絶え絶えに、憎まれ口を叩く。
けれど、千尋はそれすらも面白いと、小さく笑い声をあげる。
「唯恋ちゃん、大丈夫?」
今度は別の方向から、茉陽瑠ちゃんの優しい声。
眉を下げて、本気で心配してくれてるのが伝わってくる。
「う……うん……」
彼女の優しさに、無理して強がってみるけれど、全然大丈夫じゃない。
体は思ったように動かないし、呼吸もまともに出来ない。
本当は、このままここで寝転がっていたいけれど、そんな様子はかわいくない。
かわいくない所は、誰にも見せたくない。
「唯恋ちゃん、休憩しよう」
そう言って、柔らかな手が伸ばされる。
立ち上がるのも辛いけれど、その手を握り意地で立ち上がる。
「ありがとう」
お礼を振り絞り、歩き出す。
一歩、足を前に出すと、体がぐらっと傾いていく。
「危ない」
それを千尋が受け止めてくれて、なんとか倒れずに済んだ。
「ありがと……」
ぼそりとお礼を呟き、千尋の腕を借りながら、私達のビニールシートのところへ向かう。
「唯恋おかえり」
情けない足取りで、なんとかビニールシートにたどり着くと、先に戻っていた美惚ちゃんがペットボトルに口をつけながら笑う。
「うん」
軽く返事をし、自分のペットボトルを手に取る。
硬いキャップを開け、口をつけて水を流し込む。
ぬるい。
でも、それが逆に乾いた喉に優しくて、ゆっくりと潤いを広げる。
……生き返る。
ペットボトルを傾けたまま、ぼんやりと上を見ると強い日差しに眩しさを覚えた。
来たときは、日差しさえも心地よかったのに、今はただ眩しいだけ。
それどころか、眩しすぎて少し鬱陶しいくらい。
休みたい。
なにもせず、ただぼーっとしていたい。
この疲れた体を、そのまま放り出してしまいたい。
けれどその思いは、千尋の声にかき消されてしまった。
「それじゃあ、何か食べようか」
千尋は腰に手を当て、遠くを見つめる。
その視線を追いかけてみると、少し離れた場所に一軒の海の家がある。
カラフルな旗が揺れ、人の出入りも盛んなようだ。
ご飯……。
そう言えば何も食べていなかった。
千尋に勝つことで頭がいっぱいで、食事のことはすっかり忘れていた。
「ごくり……」
喉が大きな音を上げるのを感じる。
確かに、休む前になにか食べておいたほうがいいかもな。
「うん。食べよう」
そう返事をして、みんなで海の家へと向かう。




