第10話 なにかを自覚するのはいつだって突然
「んっ……」
近づくにつれて、鼻をくすぐる匂いが変化した。
潮の香りに混じった油の香り。
その匂いに引き寄せられるように、人の声も多くなっていく。
店内は思ったよりも混んでいて、カウンター前には列ができていて、私達もその最後尾に並んだ。
頭上には所狭しにメニューが並べられており、ざっくりとした文字と少し色褪せた写真で飾られたそれは、いかにも海の家といった感じ。
「みんな、なににする?」
振り返って問いかけると、すぐに返事がくる。
「私は焼きそばにしようかな」
「ラーメン!」
焼きそばにラーメン。
……重い。
さっきあれだけ動いたばかりで、それはちょっと入りそうにない。
美惚ちゃんは大丈夫なのだろうか?
大丈夫か、この子なら。
美惚ちゃんが食欲ないとか言い出したら、それこそ一大事だ。
たぶん、世界の終わりレベルの緊急事態だろう。
「千尋は?」
隣に視線を向ける。
千尋は眺めているメニューを軽く指さして。
「カレーライスにしようかな」
……重い。
焼きそば、ラーメン、カレー。
どれも美味しそうだし、海の家っぽくていい。
普通だったら、私もそのどれかを食べてたと思う。
でも、今は無理。
さっきの疲れが残ってて、胃が落ち着いてない。
呼吸はだいぶ落ち着いたけど、体の奥に重さのようなものがあるし。
「唯恋は?」
名前を呼ばれて、すぐには答えられなかった。
何か食べたほうがいいのはわかってる。
でも、こんな状態で重いものを食べる気は起きないし、無理して食べて気持ち悪くなるのも嫌だ。
だから──
「私は……かき氷でいいかな」
「え!」
私が口を開くと、すぐ目の前から驚きの声が飛んできた。
「唯恋それじゃ足りないよ。もっと食べなきゃだめだよ」
美惚ちゃんが、心配そうにこちらを見ている。
身を乗り出して、まっすぐな瞳を向けてくる。
心配してくれるんだ。
優しいな。
そんな彼女の手をそっと握り、口を開く。
「今、そんなに食べられそうじゃないから」
優しく微笑み、言葉を紡ぐ。
なんとなく、不調を悟られたくなかったんだと思う。
私が調子悪いとか言って、みんなに気を使わせてしまうのは嫌だし。
それに、無理をしたのは私だし。
千尋に張り合って、勝手にがんばっただけ。
全て私の自業自得。
だから、みんなに迷惑なんてかけたくない。
「お腹空いたらまたくればいいし」
「確かに!」
美惚ちゃんは、パッと表情を明るくさせ、大きく頷いた。
よかった。あっさり納得してくれて。
順番が回ってきて、注文を済ませる。
番号札を受け取って、店内を見回すとちょうど四人分空いている席があった。
そこへ向かい、腰を下ろす。
じんわりと体が沈み込み、しばらくここに座り続けたい。
そんな疲れを表に出さないように気をつけ、みんなとおしゃべりしていると、店員さんが私達の番号を呼ぶ。
「取りに行ってくるね」
千尋が立ち上がる。
「私も行くー!」
美惚ちゃんも続いて立ち上がり、ふたりでカウンターの方へ向かっていく。
「唯恋ちゃん、本当に大丈夫?」
柔らかい声が近くで落ちる。
その声に視線を移すと、茉陽瑠ちゃんが心配そうにこちらを見ている。
「うん、大丈夫」
軽く笑って答える。
「無理しないでね」
「ありがとう」
感謝を伝え、ゆっくりと息を吐く。
うん……。
呼吸は、だいぶ落ち着いてる。
「おまたせー!」
私達の静けさを弾くように、明るい声が響く。
その声と共に、テーブルの上に料理が並べられる。
焼きそばに、ラーメンに、カレー。
どれも色が濃くて、疲れた体に染み渡りそうだ。
「唯恋」
隣からの呼びかけに顔を向けると、千尋がかき氷を差し出している。
「はい」
「ありがとう」
それを受け取って、テーブルに置く。
かき氷は光を受けてキラキラと輝いている。
白い氷と赤いシロップ。
イチゴ味。
かわいくて、大好きな味。
かき氷にスプーンを差し込むと、シャリッと軽い音が聞こえた。
そのまま掬って口に運ぶ。
──冷たい!
思わず肩が少し跳ねた。
舌に触れた瞬間、ひんやりとした感覚が一気に広がって、体の奥に残っていた熱が、すっと引いていくのを感じる。
気持ちいい……。
堪らずもう一口。
今度はゆっくりと味わう。
シロップの甘さが口の中でじんわりと浸透していき、体が歓声を上げているのがわかる。
さっきまでの疲れが、嘘みたいに軽くなる。
おいしい……。
「相変わらず、美味しそうに食べるね」
隣から千尋の声が聞こえてくる。
「うん。おいしいよ」
視線をカキ氷から隣に移し、笑顔で答える。
「千尋もカレー美味しい?」
「ああ、美味しい」
千尋はスプーンでカレーをすくって、そのまま口に運ぶ。
特に急ぐ様子もなく、ゆっくりと咀嚼して、飲み込む。
その美味しさを表現するように、表情を少しだけ緩めて、軽く頷く。
それから、もう一度こちらに視線を向けて。
「それ、一口ちょうだい」
スプーンを持っているのとは逆の手で、私の手元を軽く指さす。
「いちご、気になる」
「……いいけど」
突然の申し出に、少し戸惑いながらスプーンを差し出す。
千尋はスプーンを受け取ると、半歩ほどこちらに近づいてくる。
──近い!
そう思って戸惑っているうちに、千尋はかき氷を掬って、そのまま口に含んだ。
「んっ、美味しいね」
千尋は頬を少し緩めそう言うと、こちらにスプーンを返してくる。
私はそれを受け取り、再びかき氷を食べようとして──
…………。
手が止まった。
──あれ。
これって。
このスプーンって。
さっき、千尋が……。
頭の中に、先程の光景が浮かび上がる。
かき氷を掬って。
そのまま口に運んで。
触れた、唇。
これって──
間接キス!
気づいた瞬間、体の奥が一気に熱くなった。
え! ちょっと待って。
キスって。
自然と呼び起こされる、あの日の記憶。
カラオケで、千尋に命令されたこと。
あの時は、頬だったけど。
これは……。
口で。
それって。
それって、もう……。
「唯恋?」
不意に、隣から名前を呼ばれる。
突然のことに驚き、体がビクンと跳ねる。
「えっ、ええ、な、なに?」
顔を上げると、千尋が不思議そうにこちらを見つめている。
「どうしたの? 食べないの?」
軽い口調で発せられる言葉に対して、必要以上に私の頭は動き出す。
やばい。
どうしよう。
絶対変に思われた。
何か言わないと。
テンパった思考のまま、大慌てで口を開く。
「え、うん。食べる。食べるよ」
そう言って、改めて視線を落とす。
スプーン。
さっき千尋が使ったもの。
ごくりと喉が音を鳴らす。
無意識に指先に力が込められる。
覚悟を決めて
──口を開く。
口の中に広がる、冷たさと甘さ。
変わらぬ清涼感と充足感を私に与えてくれる。
はずなのに、今は全然感じない。
ドクドクと心臓の音ばかりうるさい。
落ち着け。
落ち着け落ち着け。
「おいしいね」
なんとか声を振り絞って笑顔を向けると、千尋は少しだけ眉を寄せた。
けれど、すぐに視線をカレーへと戻し、食事を再開した。
セーフ……。
でも、ダメだ。
余計なことばかり浮かんで、止まらない。
多分、誤魔化せてるのは今だけで、すぐにボロが出る。
だから、ボロが出る前に行動しないと──。
そう思って、視線を落とし、かき氷を睨みつける。
それを強く握りしめ、持ち上げ──
「うりゃー」
ざわつく心を誤魔化すように、一気に掻き込んだ。
うう……頭痛い……。
でも頭痛のおかげで、さっきまでの焦りはいくらか落ち着いた気がする。
「ごちそうさま!」
ちょうどその時、正面から明るい声が聞こえてきた。
美惚ちゃんがラーメンの器を勢いよくテーブルに置く。
中は見事に空っぽで、スープの一滴も残っていない。
相変わらず、気持ちいいくらいの食べっぷりだ。
「ねえみんな、早く遊びに行こうよー!」
そう言って、立ち上がる美惚ちゃんは今にも駆けだしそうだ。
「私はまだ食べてるから」
「私も」
茉陽瑠ちゃんと千尋が落ち着いた声で答える。
「じゃあ、唯恋!」
美惚ちゃんの輝く視線が、まっすぐこちらに向けられる。
「う……」
どうしよう。
休んで疲れは少し取れたけど、完全には回復してない。
でもまあ、ここにいて千尋と顔を合わせるよりはいいかな。
ちらりと横を見ると、千尋と目が合った。
全てのパーツが整った美しい顔。
その中で、目立つ色をした柔らかそうな、あの唇が──
「うん。行こう」
沸き上がる思考に堪らず口を開くと、美惚ちゃんに腕を掴まれた。
そのままグイっと引き上げられ、立ち上がらされる。
「ちょ、ちょっと」
抵抗する間もなく外へ。
海の家とは違い、照り付ける日差しに一瞬目を細める。
その間も、美惚ちゃんの足が止まることなく、一直線に海へと駆けていく。
「元気だね~」
「そうだね」
のんびりとした声が後ろから聞こえてきた。
そっちに言葉を返すよりも早く、私の体を波が打ち付けた。
「冷たっ……!」
一気に体温を持っていかれて、さっきまでの熱が引いていく。
頭も、少しだけすっきりした気がする。
「ほら唯恋、こっちこっち!」
美惚ちゃんがひとりで深いところへと進んでいく。
「待って」
そう言って、後を追う。
腕を動かして、水を掻き分ける。
でも、全然前に進めない。
波の勢いが増したのか、美惚ちゃんとの距離が思ったよりも縮まらない。
「唯恋、遅ーい」
「今行く!」
声を張って、無理やり体を動かす。
力強く腕を動かせば、距離はすぐに詰まって、美惚ちゃんは目の前に。
「おまたせ」
私がそう言うと、美惚ちゃんはニコッと笑った。
「それじゃあ、また勝負しよう!」
「う、うん」
勝負……。
なにをするんだろう。
あまり大変なのじゃなければいいけど。
「それじゃあ、また競争しよう!」
美惚ちゃんが、沖の方を指さす。
「え⁉」
思わず声を漏らし、顔が少し歪んだ。
それは……。
一回目でもすごく辛かったのに、もう一回なんて。
「ねえ、早くやろう!」
テンション高く声をあげる美惚ちゃん。
その純粋に輝く瞳に、断る言葉が喉で詰まる。
まあ、いいか。
勝負って言っても本気でやらなければ、ほどほどに泳げばいいか。
「うん、やろう」
「やったー」
「わぁ!」
返事をすると、美惚ちゃんが勢いよく抱きついてきた。
強烈な抱擁に体が揺られ、踏ん張る間もなく水中に倒れ込んだ。
パシャッと大きな水音が上がり、顔を上げると美惚ちゃんの顔がすぐそばに。
「えへへ、ごめんね」
軽く笑いながら謝る美惚ちゃん。
私は軽く息を吐いて、濡れた前髪をかき上げると、その頭をぽんと撫でた。
「もう……気をつけてよ」
楽しそうな表情を浮かべる美惚ちゃんは、撫でられるのに満足すると、立ち上がりこちらに手を伸ばす。
その手を取り立ち上がると、美惚ちゃんが口を開く。
「それじゃあ、始めよう!」
前を見て、泳ぎ出す姿勢を取る。
私もそれに合わせて、少しだけ体を沈める。
「よーい、スタート」
美惚ちゃんが勢いよく飛び出した。
「はや……」
その背中は一瞬で遠ざかって、私との距離はどんどん開いていく。
一回目は千尋ばかり見ていて、あまり意識してなかったけど──。
やっぱり、美惚ちゃんって運動に関しては化け物なんだな。
そう言えば、一回目も千尋に勝ってたし。
……私も行くか。
軽く腕を動かし、前へと進み始める。
ひとかき。ひとかき。
腕の動きに対して、水は素直に反応し、定常的に泳ぐことが出来た。
無理をしていないから、呼吸も安定している。
これなら向こうまで行って、戻ってくるくらいは出来そうだ。
視線を上げると、先の方で美惚ちゃんが泳いでるのが見えた。
もうすぐテトラポッドに届きそうなその背中は、波を弾くように軽やかで、とても楽しそうだ。
やっぱり速いな……。
私はどのくらい泳いだのだろうか。
美惚ちゃんがあんな所にいるんだから、半分くらいは来てるんじゃないかな。
そんなことを考えていたら、足の奥に僅かな違和感が走った。
ピクッと、ほんの一瞬の引っ掛かり。
不思議に思いつつ、軽く足に力を込めた瞬間。
「っ──!」
鋭い痛みが、ふくらはぎを一気に締め上げた。
内側から、強く引き絞られるような感覚。
「いっ……!」
少し動かすだけで痛みが跳ね上がり、堪らず声が漏れる。
さっきまで普通に動いていたはずなのに、突然制御が利かなくなる。
──足、つった。
痛みに苦しんでいると、体が沈み始める。
慌てて腕を動かして水を掻くけれど、バランスが崩れてうまく力が伝わらない。
浮こうとしているのに、逆に沈んでいく。
「っ、は……!」
息を吸おうとしても、空気がうまく入ってこない。
胸の奥まで届かないまま、呼吸が浅く乱れる。
引きつった足は伸ばそうとするほど強く痛み、まるで固められたみたいに動かない。
なんとか、腕だけで体を支えようとするが、水を掴めていない感覚ばかりが残って、前にも上にも進むことが出来ない。
その間にも、口の中に水が入り込む。
「げほっ……」
むせて、息がさらに乱れる。
喉が焼けるように痛くて、まともに息もできないまま、視界がぐらりと揺れる。
さっきまであんなに近かった水面が、どうしてか遠く感じる。
手を伸ばせば届くはずなのに、何度腕を動かしても距離が縮まらない。
どうして……。
なんでこんなことに……。
さっきまで普通に泳げていたのに。
みんなと遊んで、走ったり、泳いだり普通に出来てたのに。
なんで急に。
体はうまく動かない。
沈んでいくのを止められない。
千尋と勝負したから……?
千尋の表情、余裕なところを崩してやろうとして。
上手くいかなくて。
それが嫌で、ムキになって。
無理して、張り合って。
疲れて。
休めばいいのに。
一人で変なこと考えて。
一緒にいるのが恥ずかしくなって。
逃げ出して。
溺れて。
──バカだ、私。
「は……っ……!」
息を吸おうとして、また水が入り込む。
肺が痛んで、思考がまとまらない。
ただ、苦しさだけが膨らんでいく。
怖い。
嫌だ。
まだ──。
後悔が湧き上がり、口を動かす。
助けて。
助けて
──千尋。
しかし、声を出そうとも、息が……できない……。
そのまま、抗うこともできずに、私の体はゆっくりと下へ引き込まれていった。
ああ、ダメだ。
……死ぬ。




