第11話 溺れる者は愛を知る
力が抜けた。
体が沈み、視界を水が覆う。
光は、遠くへ。
もう、ダメだ。
そう思いかけたその時。
──腕を強く掴まれた。
「──っ!」
一気に体が引き上げられる。
水面が近づき、光が戻ってきた。
「唯恋!」
聞き慣れた声が、すぐ近くで響いた。
「っ、げほっ……! げほっ、げほっ……!」
咳が止まらない。
吸おうとしても、うまく吸えなくて、代わりにまた咳が出る。
肺の奥がひりついて、咳をするたびに痛む。
「唯恋、しっかりして!」
大きな声がすぐ近くから聞こえてくる。
水に沈まないように、強い力で体が支えられる。
「はっ……、っ……」
必死に空気を取り込もうと、浅い呼吸が何度も繰り返される。
視界が揺れて、焦点が定まらない。
でも、目の前にある顔だけははっきり見える。
──千尋。
普段は余裕ばかり浮かべてるその顔が、今は歪んでいる。
眉を強く寄せて細まった目が、しっかりとこちらを見ている。
「大丈夫?」
低く抑えた声。
その声は震えていて。
「う……、っ……」
うまく言葉にならない。
代わりに、また咳が零れる。
「無理にしゃべらなくていいよ」
そう言いながら、千尋の手に少し力が込められる。
離さないように。
腕を引かれ、体が自然と千尋に寄る。
そのまま、抱きしめられる。
濡れた体同士が触れて、体温が伝わる。
心臓の音が、うるさいくらいに響いている。
私のか、千尋のか、わからないくらいに。
しばらくそのまま支えてもらっていたら、遠くから明るい声が飛んできた。
「おーい、ふたりともー」
派手な水しぶきを上げながら、美惚ちゃんがこちらに向かってくる。
「なにしてるの?」
目の前で止まり、首を傾げる。
「なんでもないよ」
千尋は短く答えると、そのまま視線を砂浜へ向けた。
「茉陽瑠が待ってるし、戻ろうか」
そう言って、私を支えたまま泳ぎ始める。
無理に引っ張るわけでもなく、でも沈ませない絶妙な力加減。
私はほとんど体を預けているのに、動きはまったく乱れない。
「大丈夫?」
ふと、すぐ近くで声が落ちる。
さっきよりもずっと軽い、いつもの調子。
「う、うん」
息はまだ少し苦しいけど、なんとか頷く。
「ならよかった」
それだけ言って、また前を向く。
「ふたりとも、なんで抱き合ってるの?」
横から覗き込むように美惚ちゃんが言う。
「え、えっと……」
言葉に詰まる私とは対照的に、千尋がさらっと答える。
「仲良しだからね」
意味わからないことを、当たり前みたいに。
「いいなー」
「美惚も茉陽瑠とやれば?」
軽くいなすように言うと、少しだけ私を引き寄せる。
波に流されないようになのか──離れないようになのか。
そんなことを話していたら、砂浜はすぐそこまで迫っていた。
足先がなにかに触れる。
ごつごつした石の感触。
「あ」
思わず声が漏れた。
立てる。
沈まない。
さっきまで、あんなに遠かったのに。
波に揺られながらも、足は確かに地面を踏んでいる。
その感触が、じわりと体の奥に広がっていく。
胸のあたりが、少しだけ熱い。
苦しさとは違う、別の感覚。
砂の上で足を進めると、少しだけ体が揺れた。
「おっと」
横から支えられて、なんとか転ばずには済んだ。
「まだふらついてるね」
「大丈夫……」
心配そうな千尋に強がってみせるけれど、足元は頼りない。
千尋も、私の強がりなんて見抜いてるというように、握っている手を離さなかった。
そのまま支えてもらいながら、ビニールシートへと戻る。
「おかえり」
茉陽瑠ちゃんがほっとしたように笑う。
その視線が、一瞬だけ私と千尋の手元に向けられた。
「唯恋ちゃん大丈夫?」
「うん。大丈夫だよ」
けれど本当に一瞬で、視線はすぐに私の顔へと移された。
心配させ過ぎないように、軽く笑って私は腰を下ろす。
「ねえ美惚」
隣で千尋が口を開く。
「茉陽瑠と遊びたいんじゃないの?」
それを聞いて、美惚ちゃんはキラキラと目を輝かせて、茉陽瑠ちゃんの手を掴む。
「そうだ! 茉陽瑠一緒に行こう!」
「ええっ⁉」
茉陽瑠ちゃんは少し困惑しながらも、手を引かれて海へと駆けて行った。
「本当に元気だね、美惚」
少し間を置いて、千尋が口を開いた。
「うん」
適当に返したつもりだったけど、自分の声が少しだけ上ずっていた。
胸の奥が、まだ落ち着かない。
さっきのことを、じわじわと思い出していた。
沈んでいく感覚。
息ができなかったこと。
それから……。
ちらりと隣を見る。
「千尋、よく気づいたね。私が溺れてるの」
そう声をかけると、千尋は小さく肩をすくめた。
「んー……たまたま目に入っただけ」
返事をする千尋の視線は前を向いたままで、こちらを見ることはなかった。
千尋が、今なにを見ているのかはわからない。
それでも、普段から私を見てくれていることはなんとなくわかった。
そうでなければ、この広い海で見つけられるはずがない。
そう思ったら、繋いでいる手に少しだけ力がこもっていた。
自分でも意識しないまま、自然と指先に力が入っていたらしい。
すると、ほんのわずかに握り返された気がした。
応えるように、少しだけ強く。
こんなふうに返してくれるとは思ってもいなかったから、無意識に息が詰まる。
引き寄せられるように、隣へ視線を向ける。
千尋はその視線を受けても、気づかないみたいに前を向いたまま。
その顔は、いつもみたいな余裕な顔で──




