第33話 覚悟を胸に、一歩⑤
「…………え?」
こぼれ落ちた声は、消え入りそうなほど小さく、掠れていた。
聞き返したというよりも、自分が今なにを聞いたのか確かめようとしているような声だった。
言葉の意味が、わからない。
それどころか、その言葉自体がこの世界にあることを受け入れられない、と言っているかのような様子で。
「……なんで?」
松下さんは、ぽつりと声を漏らした。
「なんでそんなこと……?」
その表情に笑みなんてとっくになくなっていて、視線だけが落ち着きなく揺れている。
「違うよ……」
小さく、自分に言い聞かせるように松下さんは呟いた。
「そんなことない」
そう言いながら、松下さんは首をゆっくりと横へ振り始めた。
一度。
また一度。
まるで、私の言葉を否定するように。
──いや。
目の前の現実そのものを否定するように、松下さんは首を振った。
「だって……」
掠れた声が続く。
「僕は、りこちゃんのことを心配して……」
そこで言葉が止まった。
続きを言おうとしているのに、うまく言葉が出てこないようで、喉がひゅっとなる音が聞こえた。
そして、なにかを探すように視線が揺れ続けて。
「危ないと思ったから……送ろうと思って……それだけで……」
言葉を重ねるたび、その声は少しずつ不安定に震えていく。
「だって僕は」
一歩。
無意識のように足を前に出した。
「りこちゃんのために──」
「来ないで!」
体の奥からせり上がってきた叫び。
短く放ったその一言は、夜の静けさを鋭く切り裂き、松下さんの足を止めるのには充分だった。
切り裂かれた静けさが形を取り戻し、ふたりの間に落ちる。
心許ない静寂の中で、松下さんの表情がピクリと揺れた。
口元が引きつる。
さっきまで行き場を探していた視線が、ゆっくりと私へ定まっていく。
その瞳の奥で、なにかが軋み始めた。
「違う……」
小さく漏れた声だった。
誰に聞かせるわけでもなく、ただぽつりと胸の奥からこぼれ落ちたような、か細い呟き。
その声は、夜風に攫われて、今にも消えてしまいそうなほど弱々しかった。
「違う……」
もう一度。
ゆっくりと首を振る。
まるで、自分の中に浮かんだ考えを追い払うように。
「違う……違う……」
言葉は止まらない。
小さくこぼれていたはずの声は、少しずつ早く、少しずつ大きくなっていく。
「違う、違う、違う違う違う違う違う違う……」
否定の言葉だけが何度も繰り返される。
最初は意味を持っていたはずの言葉が、何度も重ねられるうちにただの音へと変わっていく。
それでも、松下さんは止まらない。
──止まれない。
首を振るたびに髪が乱れ、呼吸は獣のように荒くなる。
瞳は見開かれ、焦点も合わないまま激しく揺れていた。
「違うッ‼」
耳をつんざくような叫び声に、思わず肩が跳ねる。
心臓が強く縮み上がり、反射的に足が一歩後ろへと下がった。
「そんなわけない! そんなことあるわけない! りこちゃんが!」
夜を無理やり引き裂くような叫び声が響き渡る。
松下さんは一度大きく息を吸い込み、震える瞳で私を見据えた。
「りこちゃんが、僕のことを拒絶するはずがない‼」
その叫びが響いた瞬間だった。
松下さんの体が、弾かれたように前へ飛び出す。
「ッ────!」
反応する暇なんてなかった。
目の前の景色が一瞬で近づいたと思った次の瞬間、両肩へ強い衝撃が走った。
「……ッ!」
大きな手が肩を掴み、そのまま乱暴に引き寄せられる。
肩へ食い込んだ指先が、制服越しでもはっきりとわかる。
──痛い。
思わず、息が詰まる。
離れようと身を引くけれど、その力に敵うことはなく、私の体はびくともしない。
「違う……」
目の前で、松下さんが何度も首を振っている。
掴む力はさらに強くなり、骨にまで鈍い痛みが響いた。
──振り払えない。
──逃げられない。
息がかかるほど近い距離に、全身が粟立つ。
怖い。怖い。怖い。
心臓が暴れ、呼吸は浅く乱れていく。
肩から伝わる痛みが、息を吸うたびに広がっていく。
──逃げなきゃ。
そう思うのに、体は強張り、思うように動いてくれない。
目の前で、松下さんが私を見つめている。
──いや、違う。
その瞳は私を正確に捉えておらず、必死になにかを繋ぎ止めようとしているようだった。
──怖い。
はずなのに、その瞳から目が逸らせない。
──苦しい。
目の前に迫る恐怖に、喉がどんどん締まっていく。
──痛い。
肩へ食い込む指先はまるで鈍器のように、私の体を傷つける。
──逃げたい。
今すぐこの手を振り払って、この人から離れて、なにもかも置いて走り出したい。
体中がそう叫んでいる。
──無理だ。
──逃げろ。
──このままじゃ無事でいられない。
──ひとりでなにができる。
──誰かに頼ればいい。
誰か……。
そうして頭に浮かぶのは、ひとりの幼馴染だった。
憎たらしいほど完璧で。
意地悪なくせに、どうしようもなく優しくて。
どんな時も、私の隣にいてくれた人。
その幼馴染の姿、声、香りまでもが頭に鮮明に浮かんでくる。
……千尋、助けて。




