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かわいい子には地獄見せろ  作者: 鶴ヶ友護


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第34話 覚悟を胸に、一歩⑥

 ……千尋、助けて。


 素直にそう言えたら、どれだけ楽だろうか。

 そう言えない理由──。

 千尋との約束。

『今日を、私が成長する日にしてくれないかな』

 ──そう言ったから。

 これを決めたのは、誰でもない、私自身だ。

 ここで逃げたら、あの時の覚悟を裏切ることになる。

 千尋との約束を裏切ることになる。

 そんなやつが。

 ──気持ちを伝えて良いのだろうか。

 あんなに偉そうに言っておいて、一番大事な約束を守れない。

 そんな私が。

 ──千尋に、好きって言っていいわけがないだろ。

 小さく、息を吸った。

 震える喉を無理やりこじ開けて、枯れそうになる声をどうにか繋ぎ止めるために。

「聞いてください……」

 発した声は硬く、消え入りそうなほど微かなものだった。

 けれど、その一言はしっかりと松下さんへ届いた。

 肩へ食い込んでいた指先の痛みが、ほんの少しだけ和らぐ。

 離されるわけじゃない。

 逃げられるほど甘くもない。

 それでも、さっきまでとは確実に違う。

「……え」

 松下さんの口から声が漏れる。

 揺れていた瞳が、一瞬だけ止まった。

 私の言葉から勝手な意味を見出した様子もなく、ただ純粋に言葉の意味を受け取ってくれたようだった。

 今しかない。

 この一瞬しか。

 私はもう一度、小さく息を吸う。

「最後まで、聞いてください」

 私の言葉を聞いて、松下さんはなにも言わない。

 揺れる瞳で、ただ私を見つめている。

「お願いです」

 震える体に鞭を打つ。

 逸らしたくなる視線を、まっすぐ松下さんに向ける。

「私のことを勝手に決めないでください」

「え……」

 松下さんの目が大きく揺れた。

 それどころか、体ごとぐらりと傾く。

「ぼ、僕は……」

「聞いてください」

 震える声で、松下さんの言葉を遮る。

 こんなこと、さっきまでの私なら絶対にできなかった。

 ──怖い。

 その気持ちを抱きながらも、止まることはなく、

「私は一度も送ってほしいなんて言ってません」

 言葉は続く。

「でも……」

「怖かったです」

 松下さんは再びなにかを言おうとするけれど、私の声に押し負けて口をつぐむ。

 その反応を待つこともなく、私は再び口を開く。

「帰り道も……家の前も……全部……」

 胸が苦しくなる。

 思い出したくもない景色が頭をよぎる。

 恐怖を植え付けた足音も、恐怖の形を明確にした視線も。

 全部、鮮明によみがえる。

 それでも。

 ──今は目を逸らさない。

「私、ずっと怖かった」

「ち、違う……」

「違わない」

 私の言葉に松下さんは否定するけれど、自信が感じられないほど震えた声だった。

「松下さんは、そんなつもりじゃなかったのかもしれません」

 息継ぎのように一度息を吸い込んで、細くなる喉を無理やりこじ開ける。

「でも。そんなつもりじゃなくても……私は怖かった!」

 私の叫びが夜に爆ぜた、その瞬間。

 松下さんの表情から感情という感情が消えた。

 怒りでも、悲しみでもない。

 ただ、なにかが音もなく切り替わったように、その瞳から色が抜け落ちた。

「違う……」

 低く漏れた声は、不思議なほどに静かだった。

 けれどその静けさが、叫び声よりもずっと恐ろしい雰囲気を(まと)っていた。

「そんな顔しないで!」

 肩を掴んだ手に、ぐっと力が込められる。

「ッ……!」

 骨が軋むような痛みが走り、思わず顔をしかめるとその反応を見た松下さんは焦ったように首を振った。

「違う違う、そうじゃない」

 私の肩を乱暴に揺さぶる。

 揺さぶられるたびに視界がぶれ、息が乱れる。

「そんな顔じゃない。りこちゃんは、そんな顔しない」

 松下さんは必死だった。

 本当に、心の底から困り果てたような様子で、目の前の現実をどうにか元に戻そうとしているようだった。

「笑って、ほら!」

 肩を掴む指先が震え、またしても激しく揺さぶられる。

「いつもみたいに笑ってよ!」

 ──痛い。

 ──苦しい。

 ──怖い。

 私がそう思っても、松下さんはそれに気づかない。

「戻れよ……」

 掠れた声が耳元へ落ちる。

「早く戻れよ!」

 そう叫び声をあげて、松下さんは右手を肩から離し、自分のポケットへと突っ込んだ。

 そこから取り出されたのは──折りたたみ式のナイフだった。

 折り曲げられていたナイフが広がり、刃先がこちらへ向けられる。

 容易に人を傷つけられるそれに、喉がひゅっと狭まり、息の仕方がわからなくなる。

 逃げなきゃって思うのに、足が動かない。

 そんな私を見て、松下さんの目が変わった。

 より鋭く、より深く。

 私が動けないことを確かめるように。

 刃先は次第に私の顔に近づいてくる。

 その動きの間も、私はナイフから視線を外すことができなかった。

「傷つけられたくなかったら、早く戻れよ! いつものりこちゃんに戻れよ!」

 松下さんの叫び声と鋭い刃先は私の恐怖を増幅させるには充分だった。

 ──ダメだ。

 ──殺される。

 声を荒げようとも、掠れた息しか出てこない。

 指先は痺れ、体は言うことを聞かない。

「ほら、早く」

 ──嫌だ。

 ──死にたくない。

 頬のすぐそばにある刃先は、ゆっくりと下げられ、腹部へと移動していく。

「早くしろよ!」

 顔から移動した刃先は、感触を伝えるように、制服の上から軽く押し当てられる。

 ──嫌。

 ──やめて。

 ──殺さないで。

 ──傷つけないで。

 

 ──嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。嫌。


 恐怖に呑まれた体は動かない──はずだった。

「嫌!」

 湧き上がる恐怖が破裂したように、突然体が動き出した。

 気づけば腕が振り上げられ、足も勝手に後ろを目指して、体が逃げようと動いていた。

 なにがどう動いたのか、自分でも正確に理解することができない。

 それほど勝手に、体は恐怖を前に動いたのだ。

 ただ、その動きは私だけではなかった。

 私の動きに反応して松下さんの体も動いた。

 なにがどう動いたのかは、またしてもわからない。

 漠然と松下さんが動いたことを感じ取った次の瞬間、腹部に違和感が走った。

「え?」

 その違和感につられて視線を落とすと。

 ──ナイフが、私のお腹に刺さっていた。

「うわあああ!」

 私にナイフが刺さっていることに、松下さんは驚き、叫び声をあげて慌てて手を引いた。

「いッ!」

 その動きに合わせてナイフが私の体から抜けると、どろりとした血液がこぼれ出てきた。

「な、なんで、なんで……」

 目の前で起こる惨状に絶望の表情を浮かべる松下さんの手から力が抜け、するりとナイフが落ちる。

「い、いやああああああ!」

 松下さんは、再び叫び声をあげると、私に背を向けておぼつかない足取りで走り去っていった。

「うう……」

 取り残された私から、苦痛の声が漏れる。

 ──嫌だ。

 ──死にたくない。

 地面に落ちる血液が告げる現実を否定したくなる。が、それは難しい。

 私を恐怖させるそれは、みるみるうちに広がっていく。


 いや……なんで……。


 まだ……。


 千尋…………。


 …………ごめん。


 その思いを最後に、私の意識は別れを告げた。

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