第32話 覚悟を胸に、一歩④
時間が経って、荒れ狂っていた呼吸が少しずつ落ち着いていく。
突然腕を握られたことで真っ白になっていた私の頭も、次第に機能を取り戻し始めた。
そうだ。
さっき気づいたじゃないか。
この人は私を見ていない。
見ているのは〝松下さんの中の私〟だけ。
松下さんについての気づきを頭の中で復唱し、目の前の状況と照らし合わせる。
……ああ、やっぱりその通りだ。
松下さんの目線は、確かに私を見ている。
そのはずなのに、どうしても目が合っている気がしない。
気づきはやがて確信へと変わり、私の震えを少しだけ和らげてくれた。
「ほら」
そんな私の変化に気づかないまま、松下さんはまた一歩距離を詰めてきた。
「ほら、もう大丈夫だから──」
「違う……」
声をあげた。
震えていて、掠れていて、今にも消えてしまいそうなほど小さな声。
それでも、確かに私は声をあげた。
松下さんの足が止まる。
「……え?」
松下さんの表情から笑顔がすっと消え、困惑とも驚きともつかない表情のまま、しばらく私を見つめる。
「違うって、なにが?」
首を傾げながら私を見つめるその瞳は、行き場を探すように揺れていた。
しばらく考え込むような沈黙が落ちる。
やがて、その揺れていた視線がピタリと止まった。
「ああ」
松下さんは、なにか思い当たったように小さく声を漏らす。
その表情はみるみる穏やかさを取り戻し、さっきまで消えていた笑顔がゆっくりと戻っていく。
「そういうことか」
松下さんは安心したように息をついて、少し照れ臭そうに笑った。
「ごめんね。急に送るなんて言われても困るよね。僕、そこまで考えられてなかったよ」
申し訳なさそうに頭を掻きながら、松下さんは続けて口を開く。
「ちゃんと先に聞いたほうがよかったよね。それなら、りこちゃんもこんなにびっくりしないで済んだのにね」
その言葉を聞いた瞬間、全身がひどく冷たくなった。
──違う。
そうじゃない。
またしても、この人は勘違いしている。
私が怖かったのは、確認されなかったことじゃない。
突然手を掴まれたこと。
勝手についてきたこと。
家の前で待ち伏せしていたこと。
私の気持ちを確かめることもなく、送ることを当たり前だと思っていること。
その全部が怖かったんだ。
「次からはちゃんと聞くからね」
松下さんは、安心させるように優しく笑う。
「だから──」
「違う」
声は、まだ震えたままだった。
恐怖を打ち消すことはできず、恐れを内包したまま。
それでも、さっきより少しだけ強く、私は自分の言葉を口にした。
「そうじゃない」
私の言葉に、松下さんは目を瞬かせた。
笑顔が消える。
けれど、それは怒ったからじゃない。
不意に知らない言語で話しかけられたように、戸惑いだけがその表情を満たしていく。
「……そうじゃない?」
小さく問い返す。
首をゆっくりと傾けながら私を見つめるその瞳は、また行き場を探すように揺れ始める。
松下さんは私から視線を外さないまま、小さく何度か瞬きを繰り返した。
考えているんだ。
私の言葉の意味を、一生懸命理解しようとしているんだ。
そして──
「ああ」
なにかを思いついたように声を漏らした。
揺れていた瞳が止まり、表情が少しずつ和らいでいく。
安心したように、一度深く頷いて。
「りこちゃん、僕に気を遣ってるんだね」
申し訳なさそうに笑った。
「僕に迷惑になるとか考えちゃったんだね。大丈夫だよ。僕、時間に余裕あるし、迷惑なんてことはないよ」
──違う。
──違う。
──違う、違う、違う。
どうして。
どうしてそうなるの。
私の言いたかったことは。
勇気を振り絞って、口にした言葉は。
そんなふうに受け取って欲しかったわけじゃない。
怖かった。
ただ、それだけ。
怖くて、苦しくて、逃げたくて。
その気持ちを、やっと口にしたのに。
この人は、また私の言葉を自分の都合のいい形へと作り変えて……。
「だから」
柔らかな声が耳に纏わりつく。
「無理しなくていいんだよ」
その優しい声が心の底へゆっくりと沈んでいく。
……ああ。
もう、伝わらないんだ。
なにを言っても。
どれだけ勇気を出しても。
この人は、私の言葉じゃなくて、自分が信じたい〝りこ〟の言葉しか聞こえないんだ。
説明してもダメなんだ。
わかってもらおうなんて思っちゃいけなかったんだ。
そう考えたら、なにかを諦める音が自分の中から聞こえてきた。
もう、伝わることを願うのはやめよう。
──ちゃんと、伝えなくちゃダメなんだ。
呼吸は浅く乱れ、息を吸おうとするたびに胸の奥が苦しく締め付けられる。
声は何度も喉元まで込み上げてきているのに、そのたびに恐怖が押し返していく。
体は最後まで、その一言を拒み続けていた。
──それでも。
もう一度だけ、息を吸う。
怖くても。
それでも私は──。
「もう……」
逃げないって決めたから。
「もう、私に近づかないでください」
その一言で、時間が止まった。
松下さんの笑顔が、ぴたりと動かなくなった。
瞬きもしない。
呼吸さえ忘れてしまったように、私を見つめたまま固まってしまった。




