第31話 覚悟を胸に、一歩③
振り返った視線の先で、松下さんはいつもと変わらない笑顔を浮かべていた。
「よかった」
松下さんは、ほっとしたように呟くと、続けざまに口を開く。
「呼んでも全然振り返らないから、どうしたのかと思ったよ」
その口調も。
その笑顔も。
お店で見ていた松下さんそのまま。
……だからこそ。
この場に似合わない、あまりにも普段通りの様子だからこそ──余計に怖い。
「それでりこちゃん。今日は本当に大変だったね」
変わらない穏やかな声音のまま、松下さんはもう一度私に語りかける。
「お客さんも多かったし、ずっと働きっぱなしだったでしょ?」
…………。
「店長さんも、他のメイドさんも大変そうだったよね」
…………。
「でも、その中でもりこちゃんが一番頑張ってたね。見てて本当にすごいなって思っちゃった」
松下さんは嬉しそうに語るが、私は困惑するばかりで、返す言葉は出てこない。
「だから、お疲れさまってちゃんと言いたくてさ」
照れくさそうな表情を浮かべて、松下さんはぽりぽりと頬を掻く。
「終わるまで待ってたんだ」
…………は?
「いやー、頑張ってる姿見たら労ってあげないとなって思ってね。りこちゃんも嫌でしょ、がんばったのに誰からもお疲れさまって言われないの」
……なに、それ?
「それに、こんな時間に女の子がひとりで帰るのも危ないしね。途中で何かあったら大変だから、送って行かないとだよね」
悪気なんてまるで感じられない。
むしろ、本気で心配しているような優しい口ぶり。
だけど、その優しさが──今の私には、ただただ恐ろしく思えた。
「あれ?」
そうして恐怖に呑まれそうになっていると、松下さんの楽しそうな笑顔が少しだけ曇った。
「どうしたの? 顔色悪いよ。大丈夫?」
松下さんは不思議そうに首を傾げ、心配そうな声を私へと投げかけてくる。
その声を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
……どうして。
どうして、そんな顔ができるんだ。
どうして、そんな声で話しかけられるんだ。
お店で見る松下さんとなにも変わらない穏やかな様子。
私のことを気遣ってくれる、いつもの松下さん。
なのに……。
そんな人が、私の後をつけていた。
その事実だけが頭の中で、何度も、何度も繰り返される。
──怖い。
名前を付けることのできない恐怖が全身を廻る。
だが、私がその恐怖に負けることはなかった。
一度覚悟を決めたんだ。
もう一度、覚悟を決めることぐらいなんてことない。
「……どうして」
強気にそう思っていても、出てきた声は震えていて、弱々しいものだった。
それでも、声を止めることはない。
一度息を吸い込んで、再び口を開く。
「どうして……ここに、いるんですか?」
松下さんは私の言葉を聞いて一瞬だけ目を丸くすると、すぐに柔らかく表情を緩めた。
「え? だから言ったじゃない。終わるまで待ってたんだよ」
松下さんは軽く笑い声をあげながら、そんなことを言う。
まるで当たり前のことを言うような口調が、私の胸の奥に冷たく沈む。
……やっぱり。
気のせいなんかじゃなかった。
あの足音も。
この恐怖も。
全部、本当だった。
それなのに、松下さんは悪びれる様子なんて少しもない。
私を怖がらせようなんて、まるで思ってない。
ただ送ろうと思った。
本当にそれだけなんだ。
……なんで。
どうして、それでいいと思えるんだろう。
どうして、私が怖がることを考えもしないんだろう。
お店で見ていた松下さんが頭をよぎる。
失敗しても笑って許してくれて。
そんな優しい人だった。
その優しさに嘘はなくて、ただの親切心からくるものだった。
だからこそ、わからない。
優しい人のはずなのに。
どうして、その優しさがこんなにも私を苦しめるのだろうか。
その答えを探そうとして、ようやくひとつの気づきが生じた。
……違うんだ。
松下さんが見てるのは、本当の私じゃないんだ。
見ているのは〝松下さんの中の私〟なんだ。
私がどう思うかを考えるのではなく、『私ならきっと喜ぶ』と自分の中で決めて、私を見ているんだ。
だから、私が怖がるなんてことは一度も考えられなくて、こんなことができてしまうんだ。
胸の奥に張り付いていた恐怖がほんの少しだけ形を変えた。
──怖い。
でも、それだけじゃない。
──苦しい。
──悲しい。
そして少しだけ──寂しかった。
こんなに優しい人が、こんなふうにしか人と関われないなんて。
そんなことを考えて小さく息を吐く。
……でも。
だからといって、恐怖がなかったことになるわけではない。
音に怯えることも、後ろを振り返るのが怖かったことも、全部本当だ。
たとえ松下さんを理解することができたとしても──私は、この人を怖いと思ってしまう。
だから、もうこのままじゃダメだ。
優しい人だからこそ、誤魔化さずにちゃんと伝えないと。
私の気持ちを、私の恐怖を。
そうしなければ、なにも変わらないのだから。
たとえこの場でなにもなくても、きっと松下さんは理由を見つけて、また私の前に現れる。
だからこそ言わないと。
自分の気持ちを。
逃げずに、はっきりと。
「松下さ──」
そう思って口を開いた、その瞬間だった。
「それじゃあ、行こうか」
ごく自然な口調でそう言って、松下さんは私の手首を掴んだ。
「────ッ!」
一瞬、なにが起きたのかわからなかった。
不明な状況を理解しようと、視線だけが自分の腕へと落ちる。
松下さんの手。
男の人の手。
私よりもずっと大きくて。
熱くて。
その温もりが、じわりと皮膚に伝わってくる。
──触れられた。
その事実を理解した瞬間に、頭の中が真っ白になった。
息は詰まり、心臓が割れそうなほど激しく跳ねる。
全身の血が一気に逆流したような感覚に襲われ、さっきまで必死に積み上げていた覚悟も、言葉も、理性も、全部吹き飛んでしまう。
怖い。
違う。そんな生ぬるいものじゃない。
触れられた場所から得体のしれない嫌悪感が全身へと駆け巡っていく。
逃げたい。
離れたい。
そう思ったからか、体は勝手に動いていた。
「いやああああああああああッ‼」
叫び声が喉を突き破る。
考えるよりも早く、私は力いっぱいに腕を振り払い、松下さんの手を弾き飛ばした。
「はぁ……っ、はぁっ……」
肩を大きく上下させ、数歩後ずさり、松下さんを睨みつけた。
掴まれた右手はまだ震えていて、触れられた感触だけが気持ち悪いほど鮮明に残っていた。
「……え?」
松下さんは短い言葉を漏らし、呆然と立ち尽くしていた。
怒っているわけでもなく、単純になにが起こったのかわからない。
そんな顔だった。
「……なんで?」
ぽつりと、不思議そうに呟く。
「なんで振り払うの?」
責めるような意図などない、純粋な疑問の声。
ただただ理解できないという顔が私を見つめる。
「僕……送ろうとしただけなのに……」
すると、松下さんは困ったように少し笑う。
「夜、ひとりじゃ危ないでしょ?」
「…………」
「だから一緒に帰ろうって……」
困惑したように細められた瞳が、ぐにゃりと歪んでいて──とても怖い。
「ねえ、りこちゃん」
再び、一歩距離を詰めてくる。
後ずさろうとしても、なぜだか足が動かない。
この期に及んで、私の足は恐怖に呑まれてしまったのか、地面に縫い付けられたように動きやしない。
「そんな顔しないでよ。僕はりこちゃんの味方だからさ」
松下さんは、優しく笑ってそう言った。が、私には──その笑顔は、もう人のものには見えなかった。
「大丈夫だよ」
松下さんは、私を安心させるように穏やかな声を続ける。
「急に手を掴んだからびっくりしちゃったんだよね」
「…………」
「ごめん、ごめん。でも、本当に送ろうと思っただけなんだ」
──違う。
胸の奥で小さくその言葉が零れる。
びっくりしただけじゃない。
怖いのだ。
驚いたことは間違いない。
だけど、それ以上に得体のしれない恐怖が、私の体に纏わりついて離れてくれない。
「疲れてるんだよね」
松下さんは、私の返事を待つことなく言葉を重ねていく。
「それでこんなに震えちゃって。少し落ち着けば大丈夫だからね」
──違う。
──違うのに。
どうして、この人には伝わらないんだ。
私が怖がっていることも、苦しんでいることも。
全部、目の前にあるのに。




