第30話 覚悟を胸に、一歩②
……なんで?
なんで松下さんの声が?
どうしてここに?
いつから私の後ろに?
疑問が次々と浮かび上がり、私の頭を埋め尽くす。
あの足音は……。
ずっと聞こえていた、あれは……。
まさか……。
浮かび上がる疑問はバラバラだったはずなのに、少しずつ繋がっていき、やがてひとつの答えを導き出した。
私をつけていたのは──。
胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
振り返りたくない。
もし、その答えが本当だったら……。
もし、本当に後ろにいるのが松下さんなのだとしたら……。
そんなことを思っているからか、頭にはお店での松下さんが浮かんでくる。
「今日も来てくれて嬉しいです」
私がそう言って笑いかければ、松下さんも嬉しそうに笑って。
私がミスしたときは「大丈夫ですよ」なんて言って許してくれた。
失敗ばかりしていた私を責めることなんて一度もなかった。
優しくて、穏やかで、誰に対しても丁寧で。
そんな松下さんの姿ばかりが思い浮かぶ。
違う。
そんな人じゃない。
松下さんは、私を怖がらせるような人じゃない。
そう思いたい。
そうじゃないと信じたい。
なのに──。
背後から聞こえた声が、その願いをゆっくりと壊していく。
あの声は、間違いなく松下さんだった。
本当に間違いなく。
聞き間違えるはずなんてない。
いつもお店で聞いていた──何度も名前を呼ばれて、何度も優しくしてもらった──穏やかな松下さんの声そのものだった。
優しかった記憶と、背後から迫る現実。
そのふたつが、頭の中で無理やり重なっていく。
どうすればいいの?
なにが正しいの?
頭の中はとっくにぐちゃぐちゃで、もうなにを信じていいのかもわからない。
私が知っている松下さんは、本当に松下さんだったのか?
それとも、今後ろにいる松下さんこそが本当の姿なのか?
わからない。
なにも、わからない。
このまま目を逸らしていたい。
前だけを見て、この場から早く立ち去ってしまいたい。
なにも見なければ、全部勘違いだったと思いこんでいられるのだから……。
そんな考えが頭をよぎるが、私はそれを否定する。
……ダメだ。
そんなことをしちゃ、絶対ダメだ。
約束したじゃないか。
逃げないって。
頑張るって決めたじゃないか。
そう約束したのに、また逃げるのか。
そんなことをして、千尋になんて言うんだ。
せっかく、私を信じてくれたのに。
こうして、私にがんばるチャンスをくれたのに。
それなのに、私は逃げるのか。
そんなの、絶対ダメだろ。
ありえないだろ。
そんなの、千尋を裏切ることになるし。
第一、私自身に嘘をつくことになる。
あの時の覚悟は嘘なのか。
千尋に言ったことは嘘だったのか。
──そんなはずはない。
あの時の言葉は本当だ。
本当の、私の覚悟だ。
だから、この恐怖からも逃げるなんてありえないだろう。
逃げずに、確かめないとダメだろう。
この声の正体を。
そして、記憶の中の松下さんを。
震える手を強く握りしめる。
心臓は今にも破裂しそうなほどに激しく脈打ち、その音が耳の奥で何度も響いた。
深く息を吸う。
肺の奥まで冷たい空気が入り込み、少しだけ落ち着けた気がする。
大丈夫。
私は逃げない。
そう心の中で自分に言い聞かせながら、震える足に力を込めて。
──私はゆっくりと振り返った。




