第29話 覚悟を胸に、一歩①
住宅街。
何度も歩いたはずの道が、夜になるだけでまるで知らない場所みたいに感じる。
街灯と月明かりが照らす道。
光は確かに夜闇を退けている。
それでも、一歩先ですら心許なく思えてしまう。
人通りはほとんどない。
ここにまで歩いてきてすれ違ったのは、たった二人だけ。
夜道の静けさのせいだろうか。
私の足音がやけに大きく聞こえる。
張り詰めたような静けさに気を張っていると。
──ワン!
「!」
突如響いた犬の鳴き声に、ビクリと肩が大きく跳ねる。
「はあはあ……っ」
ドキドキと激しく動く心臓を抑えるように胸に手を当て、息を整えながら振り返る。
そこには、男性とリードに繋がれたチワワが一匹。
「よかった……」
思わず漏れ出る安堵と共に力が抜ける。
怖かったぁ……。
もう……犬ぅぅ……急に大きい声出さないでよ……。
苦笑しながらも前を向き、再び歩き出す。
歩きはする……が、一度高鳴った心臓は、そう簡単に落ち着いてくれるわけもなく。
──ガサ。
「ひぃっ! ……なんだ木かぁ~」
──カラン。
「ひゃっ! ……なんだ空き缶かぁ~」
こんな感じでちょっとした物音にも体を震わせてばかり。
「もう……」
自分でも笑ってしまうくらいに、神経が張り詰めている。
少しの物音にも足が止まって、ちょっとした影にも心臓が跳ねる。
それでも──。
確かに進めている。
一歩、また一歩と、確実に家に近づいている。
歩いて、歩いて、ビクついて。
そうしてしばらく歩いて、ふと思う。
どれくらい時間が経ったんだろう。
気を張って、用心深く進んで。
そちらに意識が向きすぎていたのか、時間の感覚がとっくになくなっていた。
これまでの道のり。
数十分と言われても納得してしまうし、数時間といわれても納得してしまう。
それほど時間に意識を向けずにここまで来た。
「あっ……」
目の前に見覚えのある看板を見つけて、思わず声が漏れる。
飛び出し注意の看板。
あの看板があるってことは、家までもう少しだ。
もう少し。
もう少しで帰れるんだ。
そんなことを思って、小さく息を吐いたその時だった。
──コツ。
背後から足音が聞こえてきた。
「!」
たまらずビクリと体が跳ねる。
聞き間違えるはずもない。
あの日、何度も聞いた恐怖の音。
振り返ればいい。
そうすれば、音の正体を確かめられる。
第三者ならそう思えるのだろう。
私自身、この時でなければそう考えるかもしれない。
だが、どうしても。
──体が後ろに動くことはなかった。
ただ前だけを見つめ歩き続けることしか、今の私にはできなかった。
歩く、歩く。
──コツ、コツ。
歩く。
──コツ。
私と呼吸を合わせるように、足音は鳴る。
一歩。
また一歩。
足音は近づいてくる。
歩調は同じ。
おそらく、私よりも歩幅が広いのだろう。
──コツ、コツ。
足音は少しずつ距離を詰めてきて。
──今にも、背中に届きそうなほどに。
……違う。
気のせいだ。
そう思いたい。
……そう思わないと。
前へなんて進めない……。
喉がひりつく。
呼吸は浅く、速く。
震える手を抑え込むように握りしめて、私は歩き続けた。
一歩。
また一歩。
そうして、無理やり前へと足を進めていると。
──ピタ。
「……っ」
不意に足音が止んだ。
瞬間的な静寂が落ちる。
さっきまで確かに聞こえていた音。
不快に感じていたその音が急に消えたことで、かえって耳鳴りがしてくる。
……いなくなった。
そんな希望が、一瞬だけ頭をよぎる。
「りこちゃん」
すると、すぐ後ろから声がした。
その一言で私の全身は完全に凍り付いた。
……今、なんて言った。
聞き間違いだろうか。
そうだ。
聞き間違いだ。
そうに違いない。
そうに決まっている。
だって。
そうでなければ──。
心臓がどくりと大きく跳ねる。
体は強張り、息が……止まる。
足も、指先ひとつも動かない。
本当はわかっている。
聞き間違いではないと。
何度も。
何度もお店で聞いてきた声だったから。
私を……その名前で。
その声で呼ぶのは……。
「いやぁ、今日は大変だったね」
背後から聞こえてきたのは、松下さんの声だった。




