第27話 新しく始める私
「今日?」
千尋が眉を寄せた。
「ダメだよ。唯恋は私と遊ぶんだし」
「だ、だよね」
千尋の言う通りだ。
先に約束していたのは千尋なんだから、店長には申し訳ないけど断らないと……。
──ブブッ。
再びスマホが震える。
『本当にごめん。急に体調悪くなっちゃった子が何人かいて、このままじゃお店回らなさそうなんだよ。助けて』
追加で店長から送られてくるメッセージ。
そのメッセージを読んで、断ろうと動いていた指が動きを止めた。
お店が回らない。
そこまで言われたら行かないとじゃない。
店長や先輩達が困ってるの、かわいそうだし……。
それに、千尋とはいつでも遊べるんだし。
そこまで考えたタイミングで──
「唯恋!」
千尋が、真剣な声で私を呼んだ。
その声に引っ張られるように、自然と顔が上がる。
「行かないよね」
少し心配そうな、まっすぐ向けられる目。
その瞳に、さっきまでじゃれ合っていた時の軽さはどこにもなかった。
「えっと……」
その真剣さから、思わず瞳を逸らす。
「店長さんも困ってそうだし……お店も大変みたいだし……」
「唯恋」
小さな私の声に被せるように名前を呼ばれる。
「この前のこと、ちゃんと覚えてるよね」
千尋の言葉に、あの夜の光景がよぎる。
「帰り、尾けられてたって言ってたじゃん」
「うん」
「それに……家の前まで来たことも……」
「……うん」
足音。
物陰からこちらを見つめる人影。
あの夜の恐怖が胸を冷やして、口から出る言葉は冷たく沈んだものだった。
「危ないってわかってるでしょ」
手を掴まれた。
指が喰い込むほど強く。
──逃がさない、という声が聞こえてくるほど。
「それなのに、なんで……」
千尋の声がわずかに落ちる。
言葉を続けようとして、一度飲み込むように息を吸った。
「私、今日迎えに行けないんだよ」
小さく、でもはっきりと告げられる。
「唯恋のこと守るって言ったのに……送り迎えするって言ったのに……」
そこで、また言葉が途切れる。
なにを言えばいいか、私に届く言葉を探すように視線を彷徨わせる。
「……約束したじゃん」
そのまま行き場を探して、でも見つからなくて、結局視線は下へと落ちた。
普段の、あの自信に満ちあふれた表情とはまるで違う。
今の千尋からは、余裕なんて欠片も感じられなかった。
「お願い……今日はやめよう……」
その言葉は深く胸の奥へと沈んでいった。
体を下へ引こうとするほど重く、息を吸うのも少し苦しくなる。
だからこそ、その言葉の意味をしっかりと理解することができた。
千尋が、どれだけ私のことを本気で心配してくれているのかも。
痛いくらいに伝わってきた。
だから、自然と頷きそうになる。
わかった、って素直に言いたくなる。
それでも、私は首を縦には振らなかった。
「私、唯恋に何かあったら嫌だ!」
落ちていた視線が、勢いよく持ち上げられた。
言葉と同じぐらい瞳はまっすぐに私を捉えていて、逸らすことができない。
──千尋の言っていることが正しいのはわかっている。
あんな怖い思い、二度としたくないし。
危ないんだから避けるべきだってことも、ちゃんとわかってる。
でも──。
「お願い……唯恋……」
「ごめんね。千尋」
──それだけは選びたくないんだ。
私の言葉を聞いた瞬間、千尋の瞳が大きく揺れた。
まるで死角から殴られたように、ぐらりと揺らいだ。
「え……」
思わず、声が漏れたようだった。
顔には薄暗い影が差して、私にも千尋の悲しさが伝わってくる。
──千尋にはそんな顔してほしくないな。
その表情を前にして、自然と言葉が浮かんできた。
──いつもみたいに余裕な顔していてほしいし。
──私を揶揄った時みたいに、楽しそうに笑ってほしいな。
だから私は、千尋の悲しさを晴らすように明るく言うのだ。
「千尋の言うこともわかるよ。私のこと心配してくれてるんだなってすごい伝わってきたし、嬉しかった」
私の言葉を聞いた千尋の瞳が、もう一度大きく揺れた。
その揺れは、激しい攻撃を受けたように──でも、さっきとは少し違うように感じられた。
「私も逆の立場だったら、絶対止めてると思うし。そんなとこ行くなーって抱き着いちゃうかも」
少し冗談めかして言ってみても、苦笑すら漏らさずに千尋はじっと私を見つめる。
「だから、ありがとう。私のこと、ちゃんと考えてくれて」
そう言って笑いかけると、千尋は小さく息を止めた。
「でもね……」
さっきまでの調子を少し落として語りかける。
「ずっと、千尋に頼りっぱなしじゃダメだなって思ってたの」
片手を胸に当て、過去を振り返りながらゆっくりと言葉を紡ぐ。
「千尋、いつもは私に意地悪してばかりなのに、いざというときは私のこと助けてくれるでしょ。あれ……すごく嬉しかったんだ」
少し息を吸いこんで、改めて笑ってみせる。
「でもね、それじゃ私のためにならないなーって」
千尋は、ただ黙って私の言葉を聞いてくれた。
一言一言、受け止めるように真剣な顔で。
「だから千尋に頼らずに、自分一人でできるようにならないとって、実は前から思ってたんだ」
私の本音。
千尋がそばにいるから。
こんなに頼もしい人が隣にいるから、いつも自然と頼ってしまっていた。
困った時も、当たり前みたいに手を伸ばしてた。
そこにいなくても、どこかにいるんじゃないかって。
そんな気がして。
今までの自分を思い出して、ひとつ息を整える。
揺れないように、自分の意思を固めていく。
「だから千尋」
短く、まっすぐと呼びかけて。
「今日を、私が成長する日にしてくれないかな」
私の意志を千尋に伝えた。
「でも……」
千尋は少し視線を逸らした後に、私を見つめ直して口を開く。
「それなら、別に今日じゃなくてもいいじゃん。成長するためなら、もっと安全な時に……また今度でもいいじゃん」
「ううん」
千尋の言葉に、私は首を横に振る。
「こういうのって、たぶん〝今〟じゃなきゃダメなんだよ」
千尋を見つめつつ、過去の自分に視線を向けて。
「怖いからって、理由を作って逃げたら、次も逃げちゃう気がするんだよ」
実際そうだ。
私は今まで逃げてばかりだったのだから。
その言葉が痛いほど胸に刺さる。
千尋の告白から逃げて、返事もせずに日々を過ごしてきた。
きっと千尋はたくさん考えてたんだと思う。
上手くいくかどうかわからないから、嬉しいことだけじゃなくて、不安なこともいろいろ考えて。
迷って、悩んで、それでも覚悟を決めて、気持ちを伝えてくれたのに。
──私はその覚悟からも逃げて。
逃げたくせに、千尋とは離れたくなくて。
今日だって、なにもなかったみたいに隣にいて。
都合のいいものだけを見て、それ以外からは目を背けて。
──それが間違っているってずっとわかってた。
それでも、逃げることを止められなかった。
なにかを決めるのが怖い。
間違えるのが怖い。
そんなふうに理由をつけて。
見ないふりして先送りにして。
逃げて、逃げて、逃げて逃げて逃げて。
逃げてるはずなのに。
──私は同じところで立ち止まり続けていた。
そんなこと、とっくに気づいてた。
でも変わる勇気もなくて。
また逃げることを選んで。
「だからね」
はっきりと言い切って、一度大きく息を吸いこむ。
「私、頑張りたいの!」
力強く、まっすぐと思いを伝えた。
その言葉を聞いて、千尋は考えるようにしばしの沈黙を落とした。
勢いよく言い放って上下する胸が落ち着き始めた頃に、千尋はふと視線を逸らして。
「はあー」
大きくため息をついた。
「ほんと、そういうとこずるいんだから……」
そう小さくこぼしてから。
「わかった。行っていいよ」
普段の声音で言うのだった。
「ほんとに!」
「うん。でも、本当になにかあったら連絡してね。これは約束」
「うん!」
千尋はいつもの調子に戻ったように見えた。
しかし、その視線は僅かに揺れていて、千尋の中での葛藤が感じられた。
「あ、えっと……千尋……それとね……」
「ん?」
突然恥ずかしそうに視線を泳がせ始めた私を見て、千尋は不思議そうに首を傾げた。
「えっと……」
一度覚悟を決めたんだ。
ここで逃げてどうする。
さっきの勢いそのままに、もう一度覚悟を決めればいい。
心の中で自分を奮い立たせ、振り絞った勇気で赤くなった顔を千尋に向けた。
「帰ってきたら、ちゃんと返事するから!」
もう逃げない。
そう決めたんだ。
千尋の気持ちからも、逃げない。
「だから、夜……少しだけ会えないかな?」
恥ずかしさを抑えて見つめる先で、千尋はピタリと動きを止めた。
「……えっ! それって……」
少し遅れて、千尋は目を丸くして聞き返した。
驚きと少しの期待をその目に映して、千尋は私を見つめる。
その後に続く言葉は、すぐには出てこなかった。
やがて、言葉の意味を味わうように、千尋は表情を緩ませて。
「うん。わかった」
小さく頷いた。
「時間作る。会えるように、必ず時間作る!」
抑えきれないように声を弾ませて、前のめりに近づいてくる。
その勢いに思わず目を瞬かせる。
それでも、すぐに笑みがこぼれた。
「ありがとう」
「うん」
笑顔で感謝を伝えると、千尋もやわらかく笑って返してくれる。
お互いに笑い合って。
見つめ合って。
言葉もなく、くすぐったい時間がしばし流れた。
「えっと……じゃあ私バイト行くから」
その恥ずかしさから逃れようと、くるりと背を向け歩き出そうとすると。
「わかった」
後ろから声がして、気づけば隣に千尋が並んで。
「なんでついてくるの!」
「ん? だって唯恋のこと送らなきゃだし?」
「それはいいって! 今日は成長のためにいらない!」
「それは帰りのことじゃないの?」
「うう……」
確かにそうだ。
当初、帰りに千尋がいないから危ないって話してたんだ。
つまり、その逆──行きは一緒に行けるということで、お互いにそれを当たり前のことだと思っていたんだ。
だから、特にそのことについて話したりはしていなかった。
話していなかったから……。
忘れてた!
千尋の思いを受け止めたり、自分の覚悟を伝えたりするので頭がいっぱいで、行きのことなんてすっかり記憶から抜け落ちていた!
頑張るって言ったから。
てっきり、行きもひとりだと思って……。
それに、ひとりで行くのなら、この恥ずかしさもどうにかできると思って……。
それなのに──。
「唯恋?」
隣にいる千尋は、私の気持ちなんて考えなくて、余裕な顔して首を傾げるんだ。
ああ、やっぱりこいつは……。
「行かないの?」
「行くよ!」
そうして私達は、ふたり並んで歩き出した。
バイト先までは、ほんの二十分ぐらい。
すぐ着くはずの距離なのに、今はやけに長く感じる。
気恥ずかしさを抱えたまま。
言葉はあまり続かずに。
ただ、足音だけが並ぶ。
ぎこちないふたりの時間。
それでも。
──こんな時間も悪くないと思えた。




