第22話 近づく距離①
八月三十一日。
夏休み最終日。
机の上には教科書とノート、問題集が広がっている、が。
ページをめくれば白紙ばかり。
「千尋~助けて~」
隣に座る千尋は呆れた顔でこちらを見つめる。
「なんで、こんなになるまで放っておいたの?」
「だって……夏休み、いろんなことがあって忙しかったから……」
間違ったことは言ってない。
海に行ったり、アルバイトを始めたり、夏祭りに行ったり。
──恋に悩んだり。
そんな夏休みだったから、宿題がつい後回しになってしまった。
「はぁ……」
私の言い訳に、千尋は深くため息を吐く。
「まあいいや。ほら、ここからやるよ」
そう言って千尋は問題を指差し、慣れたように説明を始める。
「ここは、この公式を使えばすぐに出来るから」
「うん……」
頷いてシャーペンを動かす。
千尋の説明は丁寧で、私が止まるたびにひとつひとつやり方を教えてくれる。
そうやって進めていると、段々とペンの進みが遅くなる。
筆記音よりも千尋の声の方が多くなってきている。
その言葉を受けても、なんだか頭に入ってこない。
耳に届いてるはずの言葉が、そのまま通り抜けていくみたいだった。
「唯恋?」
「え⁉」
「聞いてる?」
「う、うん! 聞いてる!」
慌てて返事をするが、ノートの上の式は途中で止まったまま。
「ほんとに?」
千尋が不思議そうに首を傾げて、少しだけ近づいてくる。
覗き込むように、まっすぐ顔を見つめられる。
「ちょっとボーっとしてただけだよ」
軽く笑ってみせたけど、千尋はなお不思議そうな顔をしている。
「なんか変だよ、今日の唯恋」
「え……」
はっきりと言われて、声が漏れる。
「そんなこと……」
否定しかけて言葉が止まる。
そんなことない、と言い切ることができなかった。
視線が宙へと浮かんでいき、部屋の中をぐるりと見渡す。
なにもない。
いつもと同じ、私の部屋。
明るい日の差し込むベッドに目を向ければ、並んだぬいぐるみと目が合った。
「この前、変なことがあってね……」
気づけば口は動いて、自然と言葉を紡いでいた。
「帰り道で……なんか、足音がついてくるみたいな……」
じんわりとあの時の感覚が蘇ってくる。
「私が歩くと音がして……止まると、足音も止まって……」
説明していると、背中にぞくりとした違和感が走る。
ゆっくりと、誰かの指先が背中を撫でた気がして──だんだんと体が縮こまっていく。
「でも、振り返っても誰もいなくて……」
部屋の中には私の声が落ちているはずなのに、妙にシンと静まっている。
「気のせいだと思うんだけどね……」
付け足すように言ったのは、そう思いたいからなのかもしれない。
「それ……」
千尋がぽつりと口を開く。
「気のせいじゃないんじゃない」
「え?」
思わず顔を上げれば、私を見つめる千尋と目が合う。
「それ、本当に誰かいたんじゃない」
はっきり告げられると、恐怖心が一段と強くなった。
あの日。
本当に誰かいたんだとしたら……。
「怖かったよね……」
優しい声色を千尋が投げかけてくる。
「うん……」
小さな呟きを返すと、千尋は私のすぐ隣へとやって来て。
「唯恋は私が守るからね」
まっすぐとした声だった。
好きだと告白された人にこんなこと言われたら、恥ずかしくて顔が真っ赤になる。
でも今はそうはならず、それよりも恐怖心の方が上回っており、素直に嬉しかった。
「ありがとう」
その言葉を聞くと、千尋は穏やかに頬を緩めた。
「しばらく、外出するときは一緒にいよう」
千尋は言う。
「学校に行く時も、帰る時も。バイトの時も。遊びに行くときも、ずっと一緒」
「それは……」
迷惑じゃないか、と遠慮しようとする口を千尋は無理やり黙らせる。
「もう決まりだから」
有無を言わさぬ声でそう言い切ってから、軽く笑った。
「ってことで、明日は迎えに来るからね」
「うん」
自然と頭を下げていた。
千尋と一緒。
その言葉で不思議と安心感が湧いてくる。
もう、明確なことがひとつある。
──私が千尋に好意を抱いていること。
しかし、この気持ちが恋なのかはわからない。
親友としての気持ちかもしれないし、幼馴染として長い付き合いだから家族のような気持ちなのかもしれない。
その答えが、一緒にいればわかるのかもしれない。
そう思った時。
──カタン。
と窓が音を鳴らした。
「…………?」
思わずそちらを見るが──なにもない。
「どうしたの?」
「いや……なんか……」
言いかけて言葉を止める。
気のせいだ。
きっと聞き間違いだ。
「なんでもない……」
そう思い、小さく首を振る。
千尋は私を見つめていたけれど、しばらくしてなにも言わずに頷いた。
「ほら、宿題やろう」
空気を戻すように軽い声を上げる。
シャーペンを握り問題に目を向け、解き進める。
考えて、解いて。
わからないところは、千尋に教えてもらって。
そんなふうに、次から次へとシャーペンを動かしていく。
ああ、千尋がいてくれて本当によかった。
千尋がいなかったら、この量の宿題も、帰り道の話も、ひとりで抱えきることはできなかっただろう。
問題を解きながらぼんやりと思う。
──千尋、ありがとう。
その温かな気持ちとは裏腹に、頭の隅にはどうしても離れてくれないものがあった。
窓の……。




