第15話 夏祭りに地獄はありますか?
──千尋のことは好きじゃない。
昨夜出した答えを頭の中でなぞる。
大丈夫。
普通にしてればいい。
それでいい。
そう言い聞かせて、スマホの画面を見る。
待ち合わせ時間までは、あと少し。
駅前は人通りも多く、すでに祭りの気配でざわついていて、浴衣の人もちらほらいる。
その中に紛れて私も佇む。
淡いピンク色の浴衣。
その中に小さな花を散らしたデザインにえんじ色の帯が、いつもより少しだけ大人っぽくしてくれている気がする。
慣れない浴衣は少し動きにくくて、帯の締め付けも落ち着かない。
なんとなく周囲を見渡していると、
「唯恋」
聞き慣れた声がすぐ近くで落ちた。
その声にビクリと肩を震わせ、振り返ると──
「……千尋」
見慣れているはずの顔なのに、言葉が詰まる。
時間が姿を消したように、呼吸すらその存在を忘れたような感覚が、ほんの一瞬訪れた。
夜空に溶けるような深い黒色の浴衣。
そこに輝く黄色の帯が満月のような存在感を放っていて、やけに目を引く。
──こんな色似合うんだ。
そんなことを思いながら送る視線は、縫い留められたように動かず、ただ千尋の美しさを刻むことしかできなかった。
普段よりも明るい色彩に目が離せなくなっていると、千尋はくすっと笑った。
「なにその反応」
慌てて目を逸らしても、もう遅い。
千尋が逃がしてくれるはずもなく、またいじられ──
「似合ってるね、浴衣」
ることはなく、素直な感想を言うだけだった。
「ありがとう……」
軽く返す。
けれど、少しだけ胸の奥がくすぐったい。
なんで。
なんでいじってこないの。
そんなこと考えていると、千尋は再び口を開く。
「そっちは」
「え?」
短く発された言葉に疑問を浮かべると、千尋は少しだけ小さな声で言葉を続けた。
「そっちは、なにか言うことないの?」
そう言われてハッとする。
「千尋も浴衣似合ってるよ。すごく綺麗で、思わず──」
言いかけて止まる。
見惚れていた、なんて言えるはずもない。
固まってしまった私に、千尋は軽く首を傾げる。
「思わず?」
「ううん、なんでもない。とにかく綺麗で素敵だなって」
手をブンブンと振りながら誤魔化すように言うと、千尋は笑って答えた。
「ありがとう。今日のために選んだから、唯恋にそう言ってもらって嬉しいよ」
予想外の言葉と笑顔を向けられて、私の体は再び固まって声が出なくなってしまった。
「じゃあ、行こうか」
「……うん」
千尋の声になんとか返事を絞り出す。
並んで歩く。
いつもと変わらない行動。
そのはずなのに──。
お祭りという特別な日だからか、隣にいるのがなんだか落ち着かない。
***
ぎこちない空気のまま歩いていると、周りには様々な屋台がずらりと並んでいる。
駅前で感じた以上の人混みで、その流れに混ざるようにして私達も屋台を見て回る。
「唯恋、なにか食べたいものある?」
「うーん……あ」
千尋に尋ねられて周りを見回していると、一軒の屋台が目についた。
小さな明かりに照らされたその屋台で、転がる小さなきつね色と立ち上る甘い香り。
「ベビーカステラ……」
ぽつりと零れた声に千尋がこちらを見る。
「気になる?」
「うん」
「じゃあ、行こうか」
千尋に促されて屋台へと足を向ける。
屋台には思ったよりも人が並んでいて、列の最後尾に並びながらなんとなく前を向いていた。
並んでも先程のぎこちない空気が解消されることはなく、どこか距離の測り方がわからなくなっていた。
なにか話した方がいい気がする。
それなのに、言葉が浮かばない……。
「……結構並んでるね」
なんとか絞り出した声は、普段よりも少しだけ固く不自然なものだった。
「そうだね。人気なのかね?」
千尋はいつも通りの調子で返してくる。
そのなんでもない返事に、なんだか心が落ち着いて少しだけ肩の力が抜けた。
前の人が受け取った袋から湯気がふわりと立ち上り、ぼんやりとそれを眺めていると、私達の順番が回ってきた。
「いらっしゃい!」
店主から威勢のいい声が放たれる。
「どうする?」
「えっと……二十個入りのを」
「了解」
短いやり取りの後、千尋が財布を出す。
「出すよ」
「別にいいよ。私が食べたいんだし」
「ううん。私も食べたいし、ここは出させて」
「でも……」
「なら、後でなんか奢ってよ」
店の人を待たせるわけにもいかず、それ以上言い返すことができなかった。
「……わかった」
小さく頷くと、千尋は満足そうに笑ってお金を払った。
紙袋に入れられたベビーカステラを受け取ると、ほんのりと温かさが手に伝わってきて、思わず袋の中を覗き込んだ。
その中から、ひとつ摘まみ上げる。
丸くて艶のある表面をほどほどに眺め、口の中へと運ぶ。
「熱っ!」
思ったよりもずっと熱くて、慌てて口を押える。
数歩遅れて、隣から笑い声が聞こえた。
「ふふっ」
「笑わないでよ!」
じんわりと熱が残る口元を気にしながら睨むと、千尋は楽しそうに目を細める。
「だって、子供みたいだったから」
「そんなことないし」
言い返すと千尋はさらに楽しそうに笑った。
「ほら、ちゃんと冷まして食べなよ」
「わかってるし……」
今度は慎重に、ふーっと息を吹きかけた。
そうしてからゆっくりと口に入れると、優しい甘さがふんわりと広がった。
「おいしい……」
思わず絶賛の言葉をこぼし、更にひとつ、ふたつと手を伸ばす。
止まることを忘れて袋へと手を伸ばしていると、
「ねえ」
隣から声をかけられた。
「一個ちょうだい」
「え?」
「まだ食べてない」
言われて千尋の手元を見る。
……確かに!
おいしさに夢中になって、千尋にあげることを忘れてた。
そもそも、千尋がお金を出してくれたのに、私だけで楽しんでいたって……。
「どうぞ……」
申し訳なさげに袋を差し出すと千尋がその中に手を入れ、ひとつ摘まみ上げ口元へと運ぶ。
「ありがとう」
そう言って、ベビーカステラを食べると少し表情を緩めて、
「ん、おいしい……」
小さく呟いた。
「でしょ」
自信ありげに返すと千尋は楽しげに笑った。
「なんで、唯恋が自信満々なの」
「だって、私が見つけたお店だし」
そう返すと千尋はさらに笑みを深めて、つられて私も笑みをこぼした。
気がつけば、さっきまでの変な緊張は薄れていた。
完全に消えたとは言えないけれど、息の詰まるようなぎこちなさはどこにもない。
袋からベビーカステラをもうひとつ取り出す。
軽く息を吹きかけて、口に入れる。
優しい甘さが胸の奥にしみるように、じんわりと広がっていく。
「次はどうする?」
千尋の声がさっきよりも近くで響く。
「そうだねー……」
考えるそぶりをしながら、屋台へと視線を向ける。
たこ焼き、お好み焼き、金魚すくい──色とりどりの屋台が並んでいて、どれも楽しそうに見える。
「あ、あれおいしそう」
そう言って、右に歩き出したら──
ドンと後ろから肩に強い衝撃が加わった。
「っ────」
勢いに押され、体がぐらりと傾く。
踏みとどまろうとするけれど、慣れない下駄で足元が上手く動かせない。
このままじゃ、倒れ──
「危ない!」
短い声と同時に腕を引かれた。
「……っ!」
気づけばすぐ近くに引き寄せられていた。
触れ合えるほどの近さに、思わず息を止める。
「ちゃんと前見てないと危ないよ」
その距離のまま言われて、心臓が一気に跳ねた。
「見てたし……」
反射的に言い返すけど、声がうまく出ない。
視線を逸らそうとしても、外せない。
さっきまで普通に話してたのに
──急に近すぎる距離。
「ほら」
千尋は少し体を引いて、
「またぶつかったら危ないから」
そう言うと、私の手を握って歩き始めた。
「ちょっと……」
「なに」
「離してよ」
たまらず声を上げる。
「ダメ。危ないし」
千尋は振り返り、私の目をしっかりと見つめる。
「それに、この人混みだと迷子になるかもしれない」
その言葉が揶揄っているものだと、普段ならすぐに判断できる。
前に迷子になったこと。
それをいじっているのだと。
でも今は、なぜだかその言葉に、私を笑うような意図はないのだと思った。
「…………」
言葉を返すことはできず、指先の体温だけが私達の仲を取り持つものになっていた。
……なにこれ。
ただ手を引かれているだけなのに、変に意識して……。
「唯恋」
呼ばれる声に顔を上げると、千尋の顔はすぐ近くで、
「顔赤いよ」
楽しそうに笑っていた。
「はっ⁉」
こいつ……。
親切心からの行動だと思ってたのに。
優しいんだと思ってしまったのに。
その笑顔。
やっぱり揶揄ってるんじゃん!
「なってないし!」
「なってるよ」
「なってない!」
強めに否定して、手を振り払う。
そうすると、少しだけ距離ができて、ようやく呼吸がしやすくなった。
千尋め、やっぱり私を揶揄って……。
じゃあさっきのは、まんまと千尋の掌の上だったってことなの!
……ムカつく。
そう思いながらも、さっきまでの感触が残っている気がして、手元に視線を落とす。
なんだか……落ち着かない……。
そんな不思議な感覚を振り払うように視線を上げ、人波に攫われるように並んで歩く。
さっきまでと同じ、隣同士の距離で。
「そう言えば唯恋、さっき美味しそうって言ってたのいいの?」
「あ! 忘れてた……」
千尋に言われて思いだした。
「ちなみに、なんだったの?」
「チョコバナナ」
店先に並んでいたチョコバナナ。
カラフルなトッピングが散りばめられていて、見た目もかわいくて、つい目が奪われた。
なのに、さっきはそれどころじゃなくて、すっかり頭から抜け落ちていた。
「チョコバナナかー……まあ、またすぐ見つかるでしょ」
軽く笑う千尋に、私も思わず笑って返す。
「確かに」




