第29話:減圧の釜と、荒地運搬の布石
境界林の特命技術工房では、朝から心地よい金属の研磨音と蒸気弁の立てる微かな排気音が響いていた。
作業台の中央に据え付けられたのは、重厚な黒鋼と鈍色に輝く耐圧真鍮で組み上げられた、球形の密閉容器――ハディードが鍛え上げた『密閉式減圧抽出釜』だった。 釜の側面には、内部を視認するための小さな丸い窓が備え付けられている。この世界の一般的な脆く濁ったガラスでは減圧の衝撃や熱で一瞬にして砕け散ってしまうため、リオが採取した白珪砂から【再配置】によって内部応力を完全に除去し、極限の耐熱・耐圧性能を持たせて削り出した特製の「マナ・シリカ耐熱ガラス」が嵌め込まれていた。
「リオ、釜の中の気圧を下げていくわよ。内部の空気を引き抜いて」
「はい! 【詳細把握】で釜内の気密を監視しながら……ピストンを引きます!」
イクミの指示のもと、リオは手動ポンプのレバーを一定のリズムで押し引きした。 ハディードが精密に削り出した黒鋼の逆止弁がカタカタと軽快な音を立て、釜の内部が急速に負圧へと傾いていく。
「気圧が下がると、液体の沸点が劇的に下がるの。本来なら百五十グラド近くまで熱しないと成分が溶け出さない森の薬草も、四十グラド前後のぬるま湯で一気に成分だけを気化・抽出できるわ。熱に弱い有効成分を一切壊さずにね」
イクミが解説する通り、マナ・シリカ耐熱窓の奥で、境界林で採取した薬草の煎じ液が低温のままポコポコと激しく泡立ち始めた。
気化した有効成分は、上部の銅製冷却管を通って急冷され、受け皿のフラスコへ透き通った翠色の原液となって一滴ずつ滴り落ちていく。
「……できた。不純物の焦げ付きも、薬効の熱劣化も完全にゼロだ。この方法なら、たとえば薬効があっても加工に耐えられなかった他の薬草にも新しい価値がつくかもしれないね」
リオが受け皿の原液を指先ですくい、【詳細把握】で成分を視通した。
王都の薬師ギルドが独占していた高級治癒薬を遥かに凌ぐ、超高純度の生薬エキスが完成していた。これ一本で、従来の粗悪な外傷薬十本分以上の再生力を発揮する。
「よし! これで街の診療所と警備隊の医療備蓄は自給できるわね。……次は、森の深部からの資材輸送問題よ」
イクミは作業台の端に、四つの大きな車輪と頑丈な骨組みを持つ大型車両の図面を広げた。
「旧銅鉱山や森の奥から、大量の鉱石や珪砂を運ぶのは今の荷馬車じゃ限界があるわ。何より、魔獣が徘徊する荒野や泥炭地を走れば、木製の車軸なんて一瞬でへし折れる」
「だから、魔導炉の熱出力を利用した『自走式の運搬輜重車』を作るんだね」
リオが図面を覗き込む。
「その通りよ。小型魔導炉の高圧排熱でタービンを回して車軸を駆動させるの。フレームにはハディードさんの黒鋼を使い、サスペンションにはしなやかな板バネを組み込むわ。熱源を隠す地中熱交換の遮熱技術を車体底面に敷けば、魔獣に気づかれずに荒地を高速で荷運びできるはずよ」
「ガハッ! 荷馬も使わねえで、魔導炉の力だけで鉄の荷車を走らせようってのか!」
工房の引き戸を開けて入ってきたハディードが、図面を見るなり豪快に赤髭を揺らした。
「そいつはたまげた仕掛けだ! これだけ頑丈な黒鋼フレームとバネなら、岩だらけの荒地で鉱石を満載してもビクともしねえぞ。よし、足回りの鋳造と車輪の軸受け、俺の鍛冶場で今日から取りかかるぞ!」
「ありがとうございます! 優先して基本骨格と駆動部の試作を進めましょう」
都市の自給自足と医療の確立、そして次なる物流と防衛を見据えた大型機関の開発が、着実な一歩を踏み出していた。
第29話をお読みいただきありがとうございました!
次回、第30話は、明日18:00に更新予定です!
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