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透明な壁  作者: はまゆう


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第六回 健吾篇 ― 冷めた朝の続き

どこへ行くかは、決めていなかった。

バッグを提げて歩き出したとき、足が向いたのは駅だった。駅に着いて、改札の前に立って、俺はしばらく動けなかった。どの路線に乗ればいいのか、わからなかった。行き先がなければ、切符も買えない。

結局、俺はいちばん近いホームに降りて、来た電車に乗った。

どこ行きかも、確認しなかった。


電車が走り出した。

窓の外に、朝の街が流れた。通勤途中のサラリーマン。小学生の集団登校。犬を連れて歩く老人。世界は何も知らない顔をして、次の時間へ進んでいた。

俺だけが、止まっていた。

口の中に、まだ苦みが残っていた。

胃の中身を全部出したのに、苦みだけは残った。それがこの三年間の味だと思った。全部吐き出しても、消えないものがある。体はそれを知っていた。頭より先に、体が知っていた。


終点まで乗った。

どこかの郊外の駅だった。見覚えのない駅名だった。改札を出ると、小さなロータリーがあって、タクシーが一台止まっていた。コンビニが一軒。あとは住宅街が続いていた。

ベンチに座った。

バッグを膝の上に置いて、空を見た。

秋の空だった。高くて、青くて、雲が一つもなかった。こんな日に家を出た、と思った。こんな空の下で、俺は麻衣に「もうだめだ」と言った。

だめだ、という言葉が——今も耳の奥にある。

自分の声なのに、他人の声みたいだった。


スマートフォンが震えた。

麻衣かと思った。

見ると、職場の後輩からだった。今日の現場について確認の連絡だった。

俺はそれを見て、初めて気づいた。

今日、仕事があった。

朝から撮影の現場が入っていた。すっかり忘れていた。昨夜のことで、頭から全部飛んでいた。

時計を見た。集合時間まで、あと二時間あった。

俺は立ち上がった。

どこへ行くかわからなくても、行かなければならない場所があった。それが、今朝の俺には少しだけ救いだった。


現場は都内のスタジオだった。

いつもと同じ場所だった。いつもと同じスタッフたちがいた。いつもと同じ段取りで、小道具を並べて、セットを組んだ。

誰も気づかなかった。

俺が昨夜何を聞いて、今朝何を言って、どこの駅のベンチに座っていたか、誰も知らなかった。当たり前だ。でもその当たり前が、少し不思議だった。

人間は、こんなに簡単に、ひどい夜を隠せる。


昼休み、後輩の佐藤が弁当を持って隣に座ってきた。

「田中さん、今日なんか顔色悪くないですか」

「寝不足だ」

「ああ、そっすか」

それだけだった。

佐藤は特に追及しなかった。弁当を食べながら、昨日のサッカーの話をした。俺は相槌を打ちながら、弁当を半分だけ食べた。残りは食べられなかった。

胃がまだ、おかしかった。


午後の撮影が始まった。

今日の仕事は化粧品のCMだった。

女優が一人、現場に入ってきた。

三十代くらいの、きれいな人だった。

俺は小道具のトレイを持ちながら、その人を見た。

女優、という存在を、今日は少し違う目で見た。

カメラの前で笑うこの人も、カメラの後ろでは別の顔を持っているのかもしれない。誰も知らない時間を持っているのかもしれない。それは責めているのではなかった。ただ——そういうものか、と思った。

人間は全部を見せて生きているわけではない。

麻衣だけが特別だったわけではない。

そう思ったとき、怒りが少しだけ、形を変えた気がした。

怒りが消えたわけではない。でも輪郭が、柔らかくなった。


撮影が終わったのは、夜の八時過ぎだった。

スタジオを出ると、冷たい空気が顔に当たった。

どこへ帰ればいいのか、わからなかった。

家には麻衣がいる。いるはずだった。でも俺は今朝、バッグを持って出た。帰るとは、言わなかった。

スマートフォンを取り出した。

麻衣からの連絡は、一件もなかった。


それが——

不思議と、麻衣らしかった。

追いかけてこない。引き止めない。俺が出て行くことを、黙って受け取った。それがこの人の流儀だ。昨夜、全部話した後でも、それは変わらなかった。

追いかけてこないことが、寂しかった。

追いかけてこないことが、麻衣だと思った。


駅の近くの、小さな居酒屋に入った。

カウンター席に座って、燗酒を頼んだ。

つまみは何も頼まなかった。酒だけ飲んだ。

隣に会社帰りらしいサラリーマンが座っていた。スマートフォンで誰かと話しながら、笑っていた。楽しそうだった。

俺は燗酒を一口飲んだ。

温かかった。

朝から何も、温かいものを口にしていなかった。スープを作ったのに、食べた直後に全部出した。その後は何も入れていなかった。

温かさが、食道を通って、胃に落ちていった。


二杯目を頼みながら、俺は麻衣のことを考えた。

今、何をしているだろう。

コーヒーカップを、まだ持っているだろうか。

あのカップの温度は、とっくに冷めているはずだ。でも麻衣は手を離さなかったかもしれない。冷たくなっても、離さなかったかもしれない。

なぜそう思うのか、わからない。

でも、そんな気がした。


三杯飲んで、店を出た。

酔ってはいなかった。体が大きいせいか、燗酒三杯では酔えなかった。

駅に向かいながら、俺は考えた。

今夜、どこに泊まるか。

ビジネスホテルを探せばいい。一人で泊まれる場所なら、どこでもいい。明日も仕事がある。明日の現場に行けるなら、どこでもいい。

スマートフォンでホテルを検索した。

駅近くに一軒、空きがあった。

予約ボタンを押そうとして——

止まった。


麻衣の体のことが、頭に浮かんだ。

抗がん剤の副作用で、まだ完全には回復していない。吐き気が出る夜がある。貧血で立ちくらみがする朝がある。

一人で大丈夫か。

大丈夫ではないかもしれない。

でも、だからといって——

俺は画面を見つめたまま、しばらく立っていた。

駅の人の流れが、俺の横を通り過ぎていった。みんな、どこかへ帰っていく。家があって、帰る場所があって、待っている人がいる。

俺にも、家がある。

帰る場所がある。

待っているかどうかは——わからない。


結局、ホテルに泊まった。

予約ボタンを押した。

自分でも驚いた。帰ろうとしていたのに、押した。

押してから、なぜ押したのかを考えた。

麻衣のことが心配だったのは本当だ。でも心配だけなら、電話一本すればいい。帰らなくても、声だけ確認することはできる。

それでも帰らなかったのは——

もう一日、必要だったのだと思う。

「もうだめだ」と言った翌日に、何事もなかったように帰ることが、俺にはできなかった。言葉を発した責任があった。あの言葉は、本物だった。本物だったから、一日くらいは、その重さを一人で持っていなければならない気がした。


ホテルの部屋は、狭かった。

シングルベッドと、小さなデスクと、テレビ。それだけだった。

シャワーを浴びた。

自分のシャンプーではない、ホテルのシャンプーで髪を洗った。

その香りが——あの夜を思い出させた。

麻衣が帰ってきた夜。うちのシャンプーと違う香りがした夜。あれが、最初だった。

あれから何年経ったのか。

遠かった。

遠いようで、昨日のことのようだった。


ベッドに横になった。

眠れなかった。

天井を見ていた。

見慣れない天井だった。知らない部屋の、知らない天井。俺の知らない時間の中にいる感じがした。

麻衣はずっと、こういう場所にいたのだと思った。

知らないホテルの天井を見る夜を、過ごしてきたのだと思った。

その孤独がどれほどのものだったか——俺には想像しかできない。想像したくもなかった。でも少しだけ、想像した。

知らない部屋で、知らない天井を見ている麻衣を。

そうしながら、うちのことを考えていたのか。俺のことを、考えていたのか。

わからない。

でも——昨夜、麻衣は「健吾のそばが一番安全な場所だった」と言った。

あの声は、震えていた。

震えていたから、本物だと思った。


朝、目が覚めた。

六時だった。

カーテンの隙間から、朝の光が細く差し込んでいた。

昨日と同じ光だった。世界は律儀に、朝を連れてくる。

俺はベッドの上に座って、スマートフォンを見た。

麻衣からの連絡は、やはりなかった。

一件も、なかった。


俺はしばらく、その画面を見ていた。

連絡がないことが——今度は、少し違う意味を持った。

昨夜は「麻衣らしい」と思った。でも今朝は——連絡しないことが、麻衣なりの誠実さなのかもしれないと思った。

追いかけない。引き止めない。

健吾が決めることを、待っている。

それが、あの人の——不器用な、愛し方なのかもしれない。


俺は電話をかけようとして、やめた。

メッセージを打とうとして、やめた。

代わりに、ホテルをチェックアウトした。

コンビニで缶コーヒーを買った。

温かい缶を両手で持った。

麻衣がいつもカップを両手で包む仕草を、思い出した。冷たい手を温めるように。あの手はいつも冷たかった。いつも、怖れていたから。

俺の手は今、温かかった。

缶の温度が移ってきた。


駅に向かって歩きながら、俺は一つだけ、確かなことを思った。

答えは、まだ出ていない。

許せたわけではない。終わったわけでもない。どうすればいいか、まだわからない。

でも——

麻衣のそばに戻るかどうかは、まだわからない。

でも、麻衣のことを考えるのをやめることは——

できなかった。

それだけが、今朝の俺の全部だった。


改札を通った。

ホームに降りた。

電車が来た。

今度は、行き先を確認してから乗った。


缶コーヒーを持ったまま、電車に揺られた。温度が少しずつ、手のひらから逃げていった。でも俺はまだ、持ち続けていた。冷たくなっても、手を離さなかった。それが今の俺にできる、唯一のことだったから。

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