第七回 健吾篇 ― 戻る場所
一
電車に揺られながら、俺は缶コーヒーを持ち続けていた。
とっくに冷めていた。
温かさはもうなかった。でも手を離さなかった。離す理由が、見つからなかった。
窓の外に、朝の街が流れた。
昨日と同じ街だった。昨日と同じ光だった。でも俺の目には、昨日とは少し違って見えた。一晩、知らないホテルで知らない天井を見た後の目には、いつもの街が少しだけ——遠かった。
遠くて、それでも懐かしかった。
電車が止まった。
いつも降りる駅だった。
ドアが開いた。
俺は立ち上がった。
特に決めていたわけではなかった。でも体が、ここで降りることを知っていた。昨日の朝と同じように、体が先に答えを出した。
改札を出た。
いつもの道を歩いた。
パン屋が開いていた。いつも麻衣が好きだと言っていた店だ。クロワッサンの焼ける匂いが、外まで漂っていた。
俺は立ち止まった。
少し考えて、店に入った。
クロワッサンを二つ買った。
袋を提げて、また歩いた。
マンションが見えてきた。
エレベーターに乗った。
三階のボタンを押した。
廊下を歩いた。
部屋の前に立った。
鍵を、ポケットの中で探した。
あった。
昨日、持って出た鍵が、ちゃんとあった。
二
ドアを開けると、静かだった。
カーテンが閉まっていた。
麻衣はまだ眠っているのかと思った。でも——
リビングに、麻衣がいた。
ソファに座って、膝を抱えていた。
眠っていなかった。ずっと起きていたのかもしれなかった。目の下が、少し暗かった。
テーブルの上に、昨日のコーヒーカップがまだあった。
麻衣が俺を見た。
驚いた顔をしなかった。
待っていた顔をしていた。
いつ来るかわからないものを、でも来ると信じて、静かに待っていた顔だった。
「おかえり」
麻衣が言った。
たった四文字だった。
でもその四文字の中に——一晩分の時間が、全部入っていた。
俺は袋を差し出した。
「クロワッサン、買ってきた」
麻衣が袋を見た。
それから俺を見た。
目が、少し赤かった。
「ありがとう」
三
麻衣がコーヒーを淹れた。
俺はクロワッサンを皿に出した。
二人でテーブルに座った。
何も言わなかった。
でも昨日の沈黙とは、違った。
昨日の沈黙は、言えないものが詰まった沈黙だった。今日の沈黙は——言わなくてもいいものが、静かに漂っている沈黙だった。
クロワッサンを食べた。
焼きたてではなかった。少し冷めていた。でもバターの香りがして、外側がさくさくしていた。
「おいしい」
麻衣が言った。
「うん」
俺も食べた。
おいしかった。
昨日の朝食べられなかった分まで、体が受け取っていく気がした。
食べ終えて、二人でコーヒーを飲んだ。
麻衣がカップを両手で包んでいた。
いつもの仕草だった。
冷たい手を温めるように、両手で包む。
俺はそれを見ながら、言った。
「麻衣の手、いつも冷たいな」
麻衣が少し驚いた顔をした。
「昔から」
「知らなかった」
「言わなかったから」
「そうだな」
短い言葉が、行き来した。
責めてもいなかった。謝ってもいなかった。ただ——今まで言わなかったことを、今日初めて言った。それだけだった。
でもそれだけのことが、今朝の俺たちには、大きかった。
四
「昨日、どこにいたの」
麻衣が聞いた。
「知らない駅のベンチ。それから仕事。それからホテル」
「仕事、行ったんだ」
「現場があったから」
麻衣が小さく笑った。
「健吾らしい」
「そうか」
「うん。どんなことがあっても、現場には行く人だから」
俺は少し考えた。
「麻衣も、どんなことがあっても撮影に行ってたな」
麻衣の笑いが、少し止まった。
でも消えなかった。
「そうね。似てるかもしれない」
「似てるとは思わなかった」
「私も思わなかった」
似ている、という言葉が、部屋の中に残った。
俺たちは似ていないと思っていた。
美術スタッフと女優。地味な男と美しい女。疑う男と隠す女。
でも——どんなことがあっても、持ち場を離れない。
その一点だけは、同じだったのかもしれない。
五
「これからのこと」
俺は言った。
「話さないといけない」
「うん」
「でも今日じゃなくていい」
麻衣が俺を見た。
「今日じゃなくていいの」
「ああ。まだ——整理できてないから。お前の話を、全部受け取ったけど、全部消化できたわけじゃない。怒りも、まだある」
「わかった」
「でも——」
俺は窓の外を見た。
カーテンの隙間から、朝の光が入ってきていた。
「出て行かないことにした。今日は」
麻衣が、息を吐いた。
長い息だった。一晩分の息を、ゆっくり吐いた。
「ありがとう」
「礼を言うな」
「でも——」
「礼を言われることじゃない。まだ何も決まってないんだから」
麻衣は黙った。
でも目が、少し柔らかくなった。
六
食器を片付けた。
いつもと同じ役割だった。
俺が運んで、麻衣が洗う。
水の音がした。
俺は布巾を手に取った。
麻衣が洗った皿を、俺が拭いた。
昨日の朝と同じだった。
でも昨日の朝は——この動作の途中で、俺の体が崩れた。胃が限界を超えた。体が先に、「だめだ」と言った。
今日は——
拭けた。
最後まで、拭けた。
それだけのことが、今朝は少し、違う意味を持った。
全部片付けて、俺はソファに座った。
麻衣も隣に座った。
少し間があって、麻衣が俺の肩に頭をもたせかけた。
昨日までなら——その重みが、苦しかったかもしれない。でも今朝は、ただ重かった。重くて、温かかった。
俺は何も言わなかった。
払いのけなかった。
ただ、その重みを受け取った。
「仕事、辞めようと思う」
しばらくして、麻衣が言った。
「芸能界を」
「決めたのか」
「昨日の夜、一人でずっと考えてた。健吾がいない部屋で」
「そうか」
「怖い。でも——このまま続けることの方が、もっと怖い気がして」
俺は答えなかった。
答えは俺が出すものではなかった。
でも——
「辞めたら、どうするんだ」
「わからない。でも、やりたいことが一つある」
「何だ」
麻衣が少し間を置いた。
「ちゃんと、料理を覚えたい」
俺は少し、笑いそうになった。
笑うつもりではなかった。でも、笑いそうになった。
「それだけか」
「それだけ。でも——健吾みたいに、玉ねぎを長く炒められるようになりたい」
玉ねぎを長く炒める。
あのスープのことだと、わかった。
麻衣が退院した朝に作ったスープ。長めに炒めた玉ねギが甘かったと、言っていたスープ。
それを、覚えたい。
その言葉が——俺の胸の、まだ傷んでいる場所に、静かに触れた。
痛かった。
でも、痛みの種類が、昨日とは違った。
七 エピローグ
答えは、まだ出ていない。
許したわけではない。
忘れたわけでもない。
河村の名前が頭に浮かぶ夜が、また来るかもしれない。眠れない朝が、また来るかもしれない。
でも——
今朝、俺はクロワッサンを買って帰ってきた。
麻衣は「おかえり」と言った。
それだけが、今日の事実だった。
大きな事実ではない。許しでも、再出発でも、何でもない。ただの、小さな朝の事実だ。
でも人間は——小さな事実を積み重ねて、生きていくしかない。
一粒ずつ積み重なった砂が、俺を壊したように。
一粒ずつ積み重なった朝が——いつか、何かを作るかもしれない。
作らないかもしれない。
それでも、今日は、ここにいる。
麻衣の頭の重みを肩に感じながら、俺は窓の外を見ていた。
カーテンの隙間から、秋の朝日が細く差し込んでいた。光の中にほこりが舞っていた。どこにでもある、何でもない朝の光だった。
でもその光が、今朝は少しだけ、違って見えた。
昨日より、明るかった。
気のせいかもしれない。同じ光だ。同じ部屋だ。同じ窓だ。変わったのは光ではなく——俺の目かもしれない。一晩、知らない天井を見て、知らない街を歩いて、冷めた缶コーヒーを手に持って帰ってきた目が、少しだけ、変わったのかもしれない。
麻衣の呼吸が、ゆっくりになってきた。
眠ったのかと思った。
「健吾」
眠っていなかった。
「ん」
「ありがとう」
「だから、礼を言うなと言った」
「違う。そういうことじゃなくて」
麻衣が少し顔を上げた。
俺の肩から離れずに、でも少しだけ、こちらを見た。
「出会ってくれて、ありがとう。あの撮影現場で、声をかけてくれて、ありがとう」
俺は何も言えなかった。
「あのとき健吾が笑いかけてくれなかったら、私はもっと長い間、誰にも本当のことを言えないまま生きていたと思う」
「俺は何もしていない」
「してる。ただそこにいてくれた。それだけで、十分だった」
ただそこにいてくれた。
その言葉が、胸の奥に落ちた。
音もなく、静かに、落ちた。
俺がこの三年間、疑いながらも傍にいたことを——麻衣は、知っていた。知っていて、ずっと感じていた。透明な壁の向こうから、ちゃんと感じていた。
壁は確かにあった。
でも壁があっても——温度は、伝わっていた。
「俺も」
俺は言った。
「出会えてよかった」
嘘ではなかった。
怒りがあっても、悲しみがあっても、それでも——出会えてよかった、という気持ちだけは、本物だった。
出会わなければよかったとは、思えなかった。
どんな夜があっても、思えなかった。
麻衣がまた、俺の肩に頭を戻した。
俺はそのまま、動かなかった。
部屋の中に、静かな時間が流れた。
洗い終えた食器が、水切りかごの中で乾いていた。テーブルの上に、空になったコーヒーカップが二つ並んでいた。昨日のカップと、今朝のカップが。
二つとも、空だった。
二つとも、ここにあった。
これからのことは、まだわからない。
許せる日が来るのかどうか。
二人でいられるのかどうか。
麻衣が本当に変われるのかどうか。
俺が本当に受け入れられるのかどうか。
何一つ、決まっていない。
でも今朝だけは——
麻衣の頭の重みを肩に感じながら、俺は、それでいいと思った。
決まっていなくていい。
答えが出なくていい。
冷めたコーヒーカップが二つ、テーブルの上にある。
それだけが、今朝の全部だった。
窓の外で、秋が深まっていた。木の葉が一枚、風に乗って窓ガラスに触れて、また飛んでいった。二人は気づかなかった。気づかないまま、ソファに並んで座っていた。答えのない時間の中で。でもその時間は、昨日までとは確かに違った。透明な壁は、まだそこにあった。でも光が、壁を通るようになっていた。壁越しに届く光は、弱い。でも確かに、温かかった。




