表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
透明な壁  作者: はまゆう


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

7/7

第七回 健吾篇 ― 戻る場所

電車に揺られながら、俺は缶コーヒーを持ち続けていた。

とっくに冷めていた。

温かさはもうなかった。でも手を離さなかった。離す理由が、見つからなかった。

窓の外に、朝の街が流れた。

昨日と同じ街だった。昨日と同じ光だった。でも俺の目には、昨日とは少し違って見えた。一晩、知らないホテルで知らない天井を見た後の目には、いつもの街が少しだけ——遠かった。

遠くて、それでも懐かしかった。


電車が止まった。

いつも降りる駅だった。

ドアが開いた。

俺は立ち上がった。

特に決めていたわけではなかった。でも体が、ここで降りることを知っていた。昨日の朝と同じように、体が先に答えを出した。

改札を出た。

いつもの道を歩いた。

パン屋が開いていた。いつも麻衣が好きだと言っていた店だ。クロワッサンの焼ける匂いが、外まで漂っていた。

俺は立ち止まった。

少し考えて、店に入った。


クロワッサンを二つ買った。

袋を提げて、また歩いた。

マンションが見えてきた。

エレベーターに乗った。

三階のボタンを押した。

廊下を歩いた。

部屋の前に立った。

鍵を、ポケットの中で探した。

あった。

昨日、持って出た鍵が、ちゃんとあった。


ドアを開けると、静かだった。

カーテンが閉まっていた。

麻衣はまだ眠っているのかと思った。でも——

リビングに、麻衣がいた。

ソファに座って、膝を抱えていた。

眠っていなかった。ずっと起きていたのかもしれなかった。目の下が、少し暗かった。

テーブルの上に、昨日のコーヒーカップがまだあった。


麻衣が俺を見た。

驚いた顔をしなかった。

待っていた顔をしていた。

いつ来るかわからないものを、でも来ると信じて、静かに待っていた顔だった。

「おかえり」

麻衣が言った。

たった四文字だった。

でもその四文字の中に——一晩分の時間が、全部入っていた。

俺は袋を差し出した。

「クロワッサン、買ってきた」

麻衣が袋を見た。

それから俺を見た。

目が、少し赤かった。

「ありがとう」


麻衣がコーヒーを淹れた。

俺はクロワッサンを皿に出した。

二人でテーブルに座った。

何も言わなかった。

でも昨日の沈黙とは、違った。

昨日の沈黙は、言えないものが詰まった沈黙だった。今日の沈黙は——言わなくてもいいものが、静かに漂っている沈黙だった。

クロワッサンを食べた。

焼きたてではなかった。少し冷めていた。でもバターの香りがして、外側がさくさくしていた。

「おいしい」

麻衣が言った。

「うん」

俺も食べた。

おいしかった。

昨日の朝食べられなかった分まで、体が受け取っていく気がした。


食べ終えて、二人でコーヒーを飲んだ。

麻衣がカップを両手で包んでいた。

いつもの仕草だった。

冷たい手を温めるように、両手で包む。

俺はそれを見ながら、言った。

「麻衣の手、いつも冷たいな」

麻衣が少し驚いた顔をした。

「昔から」

「知らなかった」

「言わなかったから」

「そうだな」

短い言葉が、行き来した。

責めてもいなかった。謝ってもいなかった。ただ——今まで言わなかったことを、今日初めて言った。それだけだった。

でもそれだけのことが、今朝の俺たちには、大きかった。


「昨日、どこにいたの」

麻衣が聞いた。

「知らない駅のベンチ。それから仕事。それからホテル」

「仕事、行ったんだ」

「現場があったから」

麻衣が小さく笑った。

「健吾らしい」

「そうか」

「うん。どんなことがあっても、現場には行く人だから」

俺は少し考えた。

「麻衣も、どんなことがあっても撮影に行ってたな」

麻衣の笑いが、少し止まった。

でも消えなかった。

「そうね。似てるかもしれない」

「似てるとは思わなかった」

「私も思わなかった」


似ている、という言葉が、部屋の中に残った。

俺たちは似ていないと思っていた。

美術スタッフと女優。地味な男と美しい女。疑う男と隠す女。

でも——どんなことがあっても、持ち場を離れない。

その一点だけは、同じだったのかもしれない。


「これからのこと」

俺は言った。

「話さないといけない」

「うん」

「でも今日じゃなくていい」

麻衣が俺を見た。

「今日じゃなくていいの」

「ああ。まだ——整理できてないから。お前の話を、全部受け取ったけど、全部消化できたわけじゃない。怒りも、まだある」

「わかった」

「でも——」

俺は窓の外を見た。

カーテンの隙間から、朝の光が入ってきていた。

「出て行かないことにした。今日は」

麻衣が、息を吐いた。

長い息だった。一晩分の息を、ゆっくり吐いた。

「ありがとう」

「礼を言うな」

「でも——」

「礼を言われることじゃない。まだ何も決まってないんだから」

麻衣は黙った。

でも目が、少し柔らかくなった。


食器を片付けた。

いつもと同じ役割だった。

俺が運んで、麻衣が洗う。

水の音がした。

俺は布巾を手に取った。

麻衣が洗った皿を、俺が拭いた。

昨日の朝と同じだった。

でも昨日の朝は——この動作の途中で、俺の体が崩れた。胃が限界を超えた。体が先に、「だめだ」と言った。

今日は——

拭けた。

最後まで、拭けた。

それだけのことが、今朝は少し、違う意味を持った。


全部片付けて、俺はソファに座った。

麻衣も隣に座った。

少し間があって、麻衣が俺の肩に頭をもたせかけた。

昨日までなら——その重みが、苦しかったかもしれない。でも今朝は、ただ重かった。重くて、温かかった。

俺は何も言わなかった。

払いのけなかった。

ただ、その重みを受け取った。


「仕事、辞めようと思う」

しばらくして、麻衣が言った。

「芸能界を」

「決めたのか」

「昨日の夜、一人でずっと考えてた。健吾がいない部屋で」

「そうか」

「怖い。でも——このまま続けることの方が、もっと怖い気がして」

俺は答えなかった。

答えは俺が出すものではなかった。

でも——

「辞めたら、どうするんだ」

「わからない。でも、やりたいことが一つある」

「何だ」

麻衣が少し間を置いた。

「ちゃんと、料理を覚えたい」

俺は少し、笑いそうになった。

笑うつもりではなかった。でも、笑いそうになった。

「それだけか」

「それだけ。でも——健吾みたいに、玉ねぎを長く炒められるようになりたい」


玉ねぎを長く炒める。

あのスープのことだと、わかった。

麻衣が退院した朝に作ったスープ。長めに炒めた玉ねギが甘かったと、言っていたスープ。

それを、覚えたい。

その言葉が——俺の胸の、まだ傷んでいる場所に、静かに触れた。

痛かった。

でも、痛みの種類が、昨日とは違った。


七 エピローグ

答えは、まだ出ていない。

許したわけではない。

忘れたわけでもない。

河村の名前が頭に浮かぶ夜が、また来るかもしれない。眠れない朝が、また来るかもしれない。

でも——

今朝、俺はクロワッサンを買って帰ってきた。

麻衣は「おかえり」と言った。

それだけが、今日の事実だった。

大きな事実ではない。許しでも、再出発でも、何でもない。ただの、小さな朝の事実だ。

でも人間は——小さな事実を積み重ねて、生きていくしかない。

一粒ずつ積み重なった砂が、俺を壊したように。

一粒ずつ積み重なった朝が——いつか、何かを作るかもしれない。

作らないかもしれない。

それでも、今日は、ここにいる。

麻衣の頭の重みを肩に感じながら、俺は窓の外を見ていた。

カーテンの隙間から、秋の朝日が細く差し込んでいた。光の中にほこりが舞っていた。どこにでもある、何でもない朝の光だった。

でもその光が、今朝は少しだけ、違って見えた。

昨日より、明るかった。

気のせいかもしれない。同じ光だ。同じ部屋だ。同じ窓だ。変わったのは光ではなく——俺の目かもしれない。一晩、知らない天井を見て、知らない街を歩いて、冷めた缶コーヒーを手に持って帰ってきた目が、少しだけ、変わったのかもしれない。

麻衣の呼吸が、ゆっくりになってきた。

眠ったのかと思った。

「健吾」

眠っていなかった。

「ん」

「ありがとう」

「だから、礼を言うなと言った」

「違う。そういうことじゃなくて」

麻衣が少し顔を上げた。

俺の肩から離れずに、でも少しだけ、こちらを見た。

「出会ってくれて、ありがとう。あの撮影現場で、声をかけてくれて、ありがとう」

俺は何も言えなかった。

「あのとき健吾が笑いかけてくれなかったら、私はもっと長い間、誰にも本当のことを言えないまま生きていたと思う」

「俺は何もしていない」

「してる。ただそこにいてくれた。それだけで、十分だった」


ただそこにいてくれた。

その言葉が、胸の奥に落ちた。

音もなく、静かに、落ちた。

俺がこの三年間、疑いながらも傍にいたことを——麻衣は、知っていた。知っていて、ずっと感じていた。透明な壁の向こうから、ちゃんと感じていた。

壁は確かにあった。

でも壁があっても——温度は、伝わっていた。


「俺も」

俺は言った。

「出会えてよかった」

嘘ではなかった。

怒りがあっても、悲しみがあっても、それでも——出会えてよかった、という気持ちだけは、本物だった。

出会わなければよかったとは、思えなかった。

どんな夜があっても、思えなかった。


麻衣がまた、俺の肩に頭を戻した。

俺はそのまま、動かなかった。

部屋の中に、静かな時間が流れた。

洗い終えた食器が、水切りかごの中で乾いていた。テーブルの上に、空になったコーヒーカップが二つ並んでいた。昨日のカップと、今朝のカップが。

二つとも、空だった。

二つとも、ここにあった。


これからのことは、まだわからない。

許せる日が来るのかどうか。

二人でいられるのかどうか。

麻衣が本当に変われるのかどうか。

俺が本当に受け入れられるのかどうか。

何一つ、決まっていない。

でも今朝だけは——

麻衣の頭の重みを肩に感じながら、俺は、それでいいと思った。

決まっていなくていい。

答えが出なくていい。

冷めたコーヒーカップが二つ、テーブルの上にある。

それだけが、今朝の全部だった。


窓の外で、秋が深まっていた。木の葉が一枚、風に乗って窓ガラスに触れて、また飛んでいった。二人は気づかなかった。気づかないまま、ソファに並んで座っていた。答えのない時間の中で。でもその時間は、昨日までとは確かに違った。透明な壁は、まだそこにあった。でも光が、壁を通るようになっていた。壁越しに届く光は、弱い。でも確かに、温かかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ