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透明な壁  作者: はまゆう


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第五回 翌朝(最終回)

一 健吾

眠れなかった。

眠ろうとしなかった、と言う方が正確かもしれない。

麻衣が話し終えたのは夜の十一時を過ぎた頃だった。それから二人でシャワーを浴びて、歯を磨いて、ベッドに入った。いつもと同じ手順だった。でも何もかもが、いつもとは違った。同じ動作が、別の重さを持っていた。

ベッドに入って、電気を消して、暗くなった。

麻衣の寝息が聞こえるまで、一時間かかった。

眠れたのか、眠ったふりをしたのか、俺には判断できなかった。でも呼吸が、少しずつ深くなっていった。疲れ切っていたのだと思う。あれだけのことを話した後だ。体も、魂も、絞り尽くされていたのだと思う。

俺は眠れなかった。

天井を見ていた。


頭の中で、麻衣の言葉が繰り返された。

河村の名前。山瀬の名前。それ以外の名前も。

繰り返されるたびに、胃が収縮した。怒りなのか、悲しみなのか、区別がつかない痛みが、波のように来ては引いた。

でも——

繰り返すうちに、気づいたことがあった。

麻衣の声の震えが、耳から離れなかった。

名前を言うたびに、麻衣の声は揺れた。淡々と話そうとしていた。でも揺れた。その揺れの中に——羞恥があった。後悔があった。そして、怖れがあった。

話しながら、麻衣は怖れていた。

俺がどんな顔をするかを、怖れていた。

それがわかったとき、怒りの輪郭が、少しだけ柔らかくなった。

柔らかくなったことが、また悔しかった。怒り続けていた方が、楽だった。でも人間の感情は、そんなに単純にはできていない。怒りながら、悲しみながら、それでも愛しながら——全部が同時に、俺の中に存在していた。


夜明け前の五時に、俺はベッドを出た。

キッチンに立って、米を研いだ。

水が濁った。流して、また入れて、また研いだ。

三回繰り返した。

水が透明になった。

その透明さを見ながら、俺は今日という日のことを考えた。今日、俺たちはどうなるのか。話した後、二人はどこへ向かうのか。

答えは出なかった。

でも——米を炊いていた。

二人分の米を、炊いていた。

それだけのことが、今朝の俺の答えだった。


炊飯器のスイッチを入れて、コーヒーを淹れた。

二人分。

窓の外が、少しずつ明るくなってきた。秋の夜明けは遅い。でも確実に、光は来る。どんな夜の後にも、朝は来る。世界は律儀に、何があっても朝を連れてくる。

コーヒーの香りが、キッチンに広がった。

スープも作ろうと思った。

麻衣の体はまだ回復途中だ。朝は温かいものがいい。冷蔵庫を開けて、玉ねぎと人参を取り出した。

包丁を手に取った。

玉ねぎを切り始めた。

涙が出た。

玉ねぎのせいだと思った。玉ねぎのせいだけではないとも、思った。どちらでもよかった。涙が出るなら、出ればいい。キッチンで一人のときくらい、出せばいい。

包丁を動かし続けた。

玉ねぎを炒め始めた。

飴色になるまで、時間をかけて炒めた。急がなかった。今朝は時間があった。麻衣が起きてくるまで、時間があった。その時間を、俺は玉ねぎに使った。


二 麻衣

コーヒーの香りで、目が覚めた。

健吾がいる。

その事実が、まず最初に来た。

目を開ける前に確認した。隣の布団の重みが、ない。でもキッチンから音がする。包丁の音。何かを炒める音。

逃げていない。

朝になっても、いた。

その事実の重さを、目を閉じたまましばらく受け取った。昨夜あれだけのことを話して、朝になったら健吾がいなくなっているかもしれないと、眠りながらも恐れていた。夢の中でも、健吾を探していた。広い場所で、健吾を探す夢だった。見つからなかった。目が覚めてよかった、と思った。


ベッドの中で、昨夜話したことを、もう一度確認した。

全部話した。

話したという事実が、体の中にあった。重くはなかった。重いどころか——信じられないくらい、軽かった。何年もかけて積み上げてきたものを、昨夜一晩で全部降ろした。降ろした場所が痛いのかと思ったら、痛くなかった。ただ、空っぽだった。

空っぽは、怖くなかった。

空っぽになって初めて、本当のことだけが残った気がした。

本当のことは、一つだけだった。

健吾のそばにいたい。

それだけだった。それだけが残った。長い間、いろんなものに覆われて見えなかったが、全部降ろしたら、それだけがあった。


リビングに行くと、健吾が窓の外を見ていた。

コーヒーカップを両手で持って。

私の分らしいカップが、テーブルに置いてあった。湯気が立っていた。私が起きるのを待っていてくれたのだと、わかった。

「おはよう」

健吾が振り返った。

目が赤かった。眠れなかったのだろう。私のせいで。

「おはよう」と私も言った。

椅子に座って、コーヒーを飲んだ。温かかった。

スープの鍋が、コンロの上にあった。

「作ってくれたの」

「玉ねぎを長めに炒めた」

「ありがとう」

他愛ない言葉が、二つ、三つ交わされた。

その言葉の軽さが、今朝は苦しくなかった。昨夜の重さを越えてきた後の、この軽さが——愛おしかった。


「健吾」

私から呼んだ。

「ん」

「どうするの、私たち」

聞いてから、また怖くなった。でも聞かずにはいられなかった。昨夜のことで全部が終わるなら、今日終わった方がいい。宙吊りのまま生きていくのは、もう、お互いにしてはいけないと思った。

健吾が窓から視線を外して、私を見た。

「わからん」

正直な顔だった。

取り繕っていない顔だった。

「怒ってる?」

「うん」

「悲しい?」

「うん」

「でも——」

健吾が一度、口を閉じた。

スープを一口飲んだ。

それから、また口を開いた。

「お前がいなくなる方が、もっと嫌だ」


その言葉が——

三年間、透明な壁の向こうから届かなかった言葉が——

今朝は、ちゃんと届いた。

壁を通してではなく、壁がなくなった場所から、直接届いた。

私の目が、熱くなった。

今度は堪えなかった。堪えなくていいと、思った。泣いた。声を立てずに、ただ涙だけが出た。

健吾が立ってきて、私の隣に座った。

何も言わずに、肩を引き寄せた。

許された、とは思わなかった。

許されるのは、ずっと先のことかもしれない。あるいは永遠に来ないかもしれない。でも——隣にいてもらえた。それだけが、今朝の答えだった。


三 健吾

麻衣の肩を抱きながら、俺は続きを考えていた。

これからのことを。

簡単ではない。

そんなことは、わかっている。昨夜聞いたことが、時間とともに薄れるとは思えない。ふとした瞬間に戻ってくると思う。名前が頭を過ぎる夜が来ると思う。眠れない朝が来ると思う。

テーブルの向こうで、誰かと笑う麻衣を見て、胸が痛む瞬間が来ると思う。

でも——

麻衣が話してくれた。

それだけが、今の俺の足場だった。隠し続けることもできたのに、体を病んで、心も消耗しきっていたのに、それでも話してくれた。逃げなかった。

その事実だけは、本物だと思った。

本物が一つあれば——今日は生きていける。


麻衣の肩から手を離して、俺は立ち上がった。

「ご飯、食べよう」

「うん」

茶碗を出した。

スープを椀に注いだ。

二人分の朝ごはんを、テーブルに並べた。

何でもない朝ごはんだった。

でも麻衣は一口食べて、「おいしい」と言った。

その言葉が、昨日までとは違う声だった。何かを抱えたまま言う「おいしい」ではなく——ただ、おいしいから、おいしいと言う声だった。

俺はそれを聞きながら、自分の茶碗に箸をつけた。

食べられると思った。

今朝は、食べられる気がした。


食べ終えて、二人でテーブルを片付けた。

俺が食器を運んで、麻衣が洗う。

いつもと同じ役割だった。

麻衣がスポンジで茶碗を洗い始めた。

水の音がした。

俺は布巾を手に取った。

麻衣が洗った茶碗を、俺が拭く。それだけのことを、二人でやっていた。

麻衣がぽつりと言った。

「仕事、考え直そうと思う」

「やめるのか」

「やめるかどうかはわからない。でも——変えたい。いろんなことを」

俺は答えなかった。

答えは俺が出すものではないから。

ただ「そうか」とだけ言って、布巾を手に取った。


続けていける、と思った。

そう思った瞬間だった。

胃の底から、何かが上がってきた。

突然だった。前触れがなかった。俺はシンクに向かって、嘔吐した。朝食べたばかりのものが、全部出た。止まらなかった。波のように来て、引いて、また来た。背中が痙攣した。目に涙が滲んだ。

麻衣が「健吾」と声を上げて、背中に手を置いた。

その手を——

俺は、払いのけた。

意図したわけではなかった。体が勝手にそうした。麻衣の手が触れた瞬間に、皮膚が、拒絶した。


しばらく、シンクに額をつけていた。

水を出して、口を濯いだ。

顔を上げると、窓ガラスに自分の顔が薄く映っていた。

青白かった。

目が赤かった。

これが俺だ、と思った。昨夜を越えてきて、今朝ご飯を食べて、続けていけると思って——それでも体が拒絶した、これが俺だ。

麻衣が少し離れたところに立っていた。

俺が払いのけた手を、胸の前で握って。


「ごめん」

声が出た。

謝罪なのか、独り言なのか、自分でもわからなかった。

「ごめん」

もう一度言った。

麻衣は黙っていた。

俺は窓の外を見た。

さっきまであんなに穏やかだと思っていた朝日が、今は目に痛かった。口の中に、まだ苦い味がした。胃の中身を全部出しても、苦さだけは残った。

「好きだ」

言葉が、順番通りに出てこなかった。

「好きだ。一緒にいたい」

それは本当のことだった。嘘ではなかった。さっき続けていけると思ったことも、本当のことだった。

「でも——」

喉が、詰まった。

詰まったまま、それでも続けた。

「もう、だめだ」


その言葉が出た瞬間、俺は自分でも驚いた。

だめだ、という言葉が——泣き声でも、怒鳴り声でもなく、ただの静かな声で出た。

嵐の後の海みたいな声だった。

もう波を立てる力も残っていない海の、凪いだ水面みたいな声だった。

麻衣は何も言わなかった。

俺も、それ以上何も言えなかった。

二人とも、台所に立ち尽くしていた。

洗い終えた茶碗が、水切りかごの中で静かに乾いていた。炊飯器の保温ランプが、赤く点っていた。窓の外で、どこかの子どもが笑い声を立てて走っていった。

世界は何も知らない顔をして、続いていた。


四 麻衣

健吾が嘔吐したとき、私は背中に手を置いた。

払いのけられた。

その感触が——手のひらに残った。

拒絶、という言葉が頭に浮かんだ。でもそれは怒りからではないと、わかった。健吾の体が、限界を超えていた。頭が続けていけると判断しても、体は正直だった。体の方が、早く答えを知っていた。

私は胸の前で手を握った。

払いのけられた手を、自分で抱えた。


「好きだ。一緒にいたい」

健吾が言った。

私は頷けなかった。頷いてしまえば、次の言葉が来る。次の言葉が何かを、私はもう知っていた。

「でも——もう、だめだ」

来た。

来ることは、わかっていた。

わかっていたのに——受け取った瞬間、体の中心に、ぽっかりと穴が開いた。予期していた痛みほど、痛くなかった。痛くなかったことが、かえって怖かった。もう痛みを感じる場所が、なくなってしまったのかもしれなかった。

健吾は台所に立ち尽くしていた。

私も立ち尽くしていた。

二人とも、動けなかった。


健吾の横顔を見た。

青白かった。疲れていた。目が赤かった。

この人が私のために泣いた回数を、私は知らない。見ていない場所で、何度泣いたのか。眠れない夜を、何夜過ごしたのか。シャンプーの香りを確認した夜が、何夜あったのか。

全部、私がさせた。


「健吾」

私は呼んだ。

健吾が振り向かなかった。窓の外を見たまま、動かなかった。

「ごめんなさい」

六文字を、もう一度言った。

昨夜も言った。今朝も言う。この言葉を何回言っても、取り返せないことがある。わかっている。でも言わずにはいられなかった。言葉しか、今の私には何もなかった。

健吾がゆっくりと、こちらを向いた。

目が合った。


何も言わなかった。

二人とも、何も言わなかった。

でも目が合ったまま、しばらくいた。

健吾の目は——怒っていなかった。

悲しかった。深く、静かに、悲しかった。その悲しさの中に、私への憎しみはなかった。少なくとも、私にはそう見えた。見えたことが、私の最後の救いだった。


健吾が、視線を外した。

玄関の方を、見た。

私は何も言わなかった。

言えなかった。引き止める言葉を、私は持っていなかった。引き止める資格が、私にはなかった。この人が出て行こうとするなら、それは私がそうさせたのだから。

健吾が、寝室に向かった。

物音がした。

クローゼットを開ける音。引き出しを開ける音。

私はキッチンに立ったまま、動けなかった。

水切りかごの中の茶碗が、乾いていた。炊飯器のランプが、赤く点っていた。


五 健吾

バッグに着替えをいくつか入れた。

財布。鍵。

それだけを持って、廊下に出た。

麻衣が、リビングの入り口に立っていた。

いつからそこにいたのか、わからなかった。

止めるのかと思った。

止めてほしかったのかもしれない。

でも麻衣は何も言わなかった。ただそこに立って、俺を見ていた。

あの目で。

俺が最初に好きになった、あの目で。

荷物を抱えたまま、疲れていて、でも俺のことをちゃんと見ている、あの目で。


「麻衣」

名前を呼んだ。

呼んでから、続く言葉がなかった。

さよならは言えなかった。言ったら本当になる気がした。でも言わなければ終われない気もした。

だから——

何も言わずに、玄関のドアを開けた。


外の空気が、冷たかった。

秋の朝の空気だった。

俺はドアの前に、しばらく立っていた。

背中の向こうに、麻衣がいる。

台所に、洗い終えた茶碗がある。保温中のご飯がある。二人分のコーヒーカップがある。玉ねぎを長く炒めたスープがある。

それらすべてが、ドア一枚の向こうにある。


俺は歩き出した。

どこへ行くかは、まだわからなかった。

ただ、足が動いた。

秋の朝日の中を、バッグを提げて、口の中にまだ苦みを残したまま、俺は歩いた。

一歩、一歩。

アスファルトを踏みながら、俺は思った。

好きだった。

本当に、好きだった。

それだけは——嘘じゃなかった。


六 麻衣

閉まったドアを、しばらく見ていた。

泣かなかった。

泣き尽くしていたのかもしれない。あるいは、泣くことさえできないほど、空っぽになっていたのかもしれない。

ゆっくりとリビングに戻って、椅子に座った。

テーブルの上に、健吾のコーヒーカップがあった。

飲みかけのまま、残っていた。

私はそれを、両手で包んだ。

いつも両手で包む。冷たい手を温めるように。

でも今朝は——カップの方が、温かかった。

健吾の体温が、まだそこにあった。

その温度が冷めるまで、私はそのままじっとしていた。

冷めていく温度を、手のひらで感じながら——

それでも手を離さなかった。


窓の外で、秋の朝が続いていた。街は動いていた。人が歩いていた。車が走っていた。世界は何も知らない顔をして、何事もなかったように、次の時間へ進んでいた。部屋の中だけが、止まっていた。テーブルの上のカップが、少しずつ冷めていった。麻衣の手の中で、健吾の温度が、少しずつ、確実に、遠くなっていった。それでも麻衣は手を離さなかった。冷たくなっても、離さなかった。それが今の麻衣にできる、最後のことだったから。

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