第8話 空気は、動かせる
空気は動いていた。俺が動かしていいかは、別の話だった。
カーテンが膨らむのを見てから、三十分も経っていない。やりたいことは決まっている。閉め切った部屋で試すという考えも、浮かぶだけは浮かんだ。
浮かんだ時点で、教官の条件を思い出した。訓練には測定器と監督者を必ず置くこと。
高梨に、一行だけ送った。
送る前に、三回読み直した。分かってもらえる文には見えなかった。書き直しても、長くなるだけだった。
そのまま送った。
「空気を、分けないで動かしたい」
「……ごめん、半分も分かってない」
「でも、やりたいことは分かった。明日、先生に場所を借りよう」
「測定器も要るよね?」
「要る」
半分も分かっていない、と先に言って、それから、やりたいことは分かった、と返す人だ。笑われなかった。次の一行が、打てた。
思いつきは、一晩置いても消えなかった。
◇
翌日の放課後、第二実技場を借りた。
体育館ほど広くないが、天井が高い。窓と扉は閉じ、空調も止めてある。自然な風を消すためだ。非常換気のスイッチには、三上先生が立っていた。
用意されていたのは、天井から吊った白い紙片が十枚と、細いリボンが数本。それに手のひらへ乗る風速の確認器具と、見覚えのあるガス測定器だった。
「範囲の外の物が動いたら止める。人のほうへは向けない。強くするのは、弱いのが成立してからだ」
「はい」
「補助系は、できることが増えるまでが長い。増えたあとは早い。……始めていい」
高梨は壁際で、スマホを固定具に載せた。配信ではなく記録用だという。
紙片は、十枚とも垂れたまま止まっている。
目を閉じた。
いつもの感触を探しかけて、途中でやめる。
選ぶな、と自分に言った。
酸素を探すな。違うものを分けるな。そこにあるものを、まとめて、同じほうへ。
――押した。
光らない。音もしない。
紙片が、端から順に傾いた。
十枚が同じ角度まで浮いて、少し揺れて、戻る。高梨の前髪が動き、制服の袖が一度だけ揺れた。手のひらの器具が短い音を立てて、数字を出す。
「……出てます」
高梨の声が、少し上ずっていた。
「風、出てます。映ってます」
三上先生が測定器を覗き込んだ。
「酸素は偏っていないな。全部を同じだけ動かせば、組成は変わらん。……理屈としては、当たり前の話だが」
紙が揺れただけだ。ゴブリンの群れを倒したときのほうが、よほど派手だった。
それでも、俺が空気を動かした瞬間が、目に見える形で映ったのは初めてだった。
《空気》。
鑑定の日、紙は動かなかった。全部を動かしていなかったからだ。あの日から、俺は分けるほうばかり試していた。
あの日は、朝に笑われて、昼前には動かない紙を見ていた。今日は、高梨の声が上ずっている。
顔が緩みそうになった。
◇
「もう一回。同じ強さで」
高梨が紙片の列の横へしゃがむ。
二回目も、紙は同じ向きへ傾いた。三回目も同じだった。押した方向へ倒れて、戻る。それだけだ。
スライムを吹き飛ばしたいわけじゃない。
押すのではなく、回したい。
流す向きを、途中で変えてみた。
紙片がばらばらに震えて、すぐ止まる。ぶつかっている。押し出したものと、戻ろうとしたものが、同じ場所にいる。
「奥の三枚は動いてない。手前だけ暴れてる」
高梨は見たままを言う。それでいい。
範囲を狭くした。紙片が小さな円になるように四枚だけ残して、あとは意識から外す。直径一メートルもない、その内側だけへ意識を絞る。
円周をなぞるように、流れの向きを少しずつ曲げていく。
最後の流れを、最初の場所へつなぐ。
紙片が、順に同じ向きへ揺れ始めた。
止まらない。
「……回ってる」
高梨が円の外側から覗き込んだ。
「久住くん、紙、全部同じ向き。輪になってる」
思ったより、重くない。
実技場ぜんぶを動かせと言われたら、すぐに音を上げる。狭い円の中だけなら、輪郭を持っていればいいだけだ。
輪郭を持つのは、検査の日にやった。
新しいことを覚えたつもりでいたが、たぶん違う。前からできたことを、別の使い道に回しただけだ。
◇
片づけのあと、高梨が床に端末を二つ並べた。片方に前回の映像、片方に資料の図。
俺は図の外側を指でなぞった。中心の丸から遠い、いちばん薄いところ。
「ここが床へ伸びてた」
「うん。私の光が歪んだところ」
「正面から押しても、たぶん本体がずれるだけだ。回して、外側だけ外へ引く」
「引いたら、真ん中は?」
「薄くなる。……はずだ」
高梨は少し黙って、それから光球を作った。手のひらより小さい。床から十センチほどの高さで止めて、横へ滑らせる。
「この高さなら輪郭は見える。前もそうだった」
それから、光球を指先ほどまで小さくまとめた。
「これ、撃てる。まっすぐ、短い距離だけ」
隅に積んであった講習用の的を一枚立てて、撃つ。表面に浅い跡が残っただけで、板は抜けなかった。
「厚いものは無理」
「露出してるなら」
「当たれば割れると思う。核は脆いって書いてあったし」
「じゃあ、開けるのが俺で」
「見えたら撃つのが私」
一人でやるつもりはなかった。前は、高梨に腕を引かれなければ戻れなかった。今回は、最初から二人で勝つ形を考えた。
一人では怖い、とは口に出さなかった。高梨はもう、撃つ位置を決めていた。
合図を決めた。高梨が「今」と言っても、俺は流れを止めない。俺が「戻す」と言ったら、高梨は撃たない。
中止は、膜が退避線へ届いたら。核が見えないまま本体が近づいたら。どちらかが「無理」と言ったら。どれか一つで、その場で終わりにする。
申請は三日後に通った。条項は前より増えていて、ゲートの管理員はそれを一つずつ指で押さえて確認した。
「前回の続きじゃない。新しい試験だ。書いたとおりにやれ」
「はい」
◇
カメラは高梨の肩の固定具に載せた。両手を空けておく、と本人が決めた。
「放課後ダンジョン配信、ヒヨリDIVEです。今日は申請済みの再試験になります」
コメントの流れは、前より速かった。
《来た》
《非課税生物との再戦だ》
《また靴取られるぞ》
《酸素も二酸化炭素も効かないんだろ 何するんだ》
《前回ちゃんと負けを出した人たちだから見に来た》
《凝固剤の人だ》
「前回とは別の使い方を試します。異常があれば切ります。以上」
スライムは、前と似た場所に一体いた。丸くて、半透明で、膝より少し上。同じ個体かどうかは分からない。同じ種類ではある。
立ち位置。射線。退路。床。
床を見たとき、右のつま先が勝手に引けた。前に取られたのと、同じ足だ。
声に出したのは、最後だけだった。
「床、まだ何も来てない」
「うん」
◇
「行く」
狭く、短く。訓練と同じ幅の流れを、正面から当てる。
スライムの表面が内側にへこんだ。縁が波打って、丸い身体が全体で少しずれる。
《え》
《今、動いたよな》
《風か?》
《前回は何も起きなかったのに》
押した分だけ、向こうへ寄る。それだけだ。核は厚みの奥にあって、影も見えない。
「まだ見えない」
強くしたくなる。強くしても、もっと遠くへ寄るだけだ。
流れを止めた。
スライムは元の丸さに戻り、また同じ速さで波打ち始める。床の膜は、まだ伸びていない。
「本体、こっちへは近づいてない。退路そのまま」
「やり方を変える」
◇
高梨の光球が、床すれすれまで下りた。
斜めからの光で、透明な外縁が浮かび上がる。本体の縁から、薄く広がっている部分。前に俺のつま先を取ったやつだ。
押さない。
外縁をなぞるように、流れの向きを曲げていく。
一周した流れを最初へつなぎ、円を描くたびに、流れを少しずつ外へ逃がす。
実技場で作った小さな輪を、スライムの周囲へ置き直した。
薄い膜が波打った。
半透明の縁が、周囲へ向かってゆっくり広がっていく。布の端をほどくときの動きに近い。中心を覆っていた厚みが、少しずつ減る。
その奥に、小さな影の輪郭が浮いた。
「見えた!」
声と一緒に、流れが乱れた。
外縁が戻る。輪郭は、また厚みの下へ沈んだ。
失敗ではない。場所は分かった。
「今のところに置いて」
「うん。……本体、近づいてない。床も来てない」
高梨が光球を移し、撃つ位置に構える。俺は同じ流れをもう一度作った。
外縁が開く。
厚みが減る。
輪郭が出る。その上に、もう何も被っていない。
「今」
流れは、止めない。
指先ほどの光が、まっすぐ飛んだ。
開いた外縁の隙間を抜けて、身体を破ることもなく、奥の小さく硬いものへ当たる。
乾いた音がした。割れる音だ。
核の光が消えた。
その瞬間、スライムから張りが抜けた。
外へ開いていた縁が、戻らないまま床へ垂れる。丸い形が保てなくなって、半透明の組織が、水をこぼしたみたいに床へ広がった。
波打つのも、止まった。
◇
俺は流れを解いた。動かすのをやめると、流れは周囲へほどけ、すぐに静まった。
二人とも、その場から動かなかった。
高梨が光球を床へ寄せる。崩れた組織は、光を通したまま動かない。
「……動いてない。膜も伸びてない」
腰の発信機が短く鳴った。討伐成立の合図だ。監視室から、退避線の内側で待てと指示が来る。
しばらく待ってから、管理員が入ってきた。割れた核の破片と、崩れた組織の一部を、規定の容器へ移していく。
《倒した?》
《倒した》
《風で倒したんじゃないぞ。最後は配信者が撃ってる》
《風は開けるためか》
《呼吸しないやつにも通るんだな。やり方が違うだけで》
《この人、照明の人じゃなかったのか》
《片方だけじゃ成立しないやつだ、これ》
高梨は、コメントを読み上げなかった。
容器の蓋が閉まって、管理員が下がって、それから、ようやく息を吐いた。
「……勝ったね」
「うん」
「今のは、二人で倒したから」
言ってから、高梨は笑った。配信中なのも忘れたみたいに、声を上げて笑った。
俺も、少し笑っていた。気づいてから止めようとしたが、遅かった。
嬉しかった。
ゴブリンの群れを落としたときより、嬉しかった。一度負けた相手だったからだ。
それだけじゃない。靴を溶かされて戻ってきた俺を、この人は笑わなかった。その人が、二人、と数えた。
「……うん。二人で」
高梨がもう一度笑ってから、言えたことに気づいた。
地上へ戻る途中で、高梨の端末が震えた。素材の受付番号と、査定の案内。もう一つ、チャンネル宛の通知も来ていたが、高梨は画面を伏せた。
「これは、あとで一緒に見る」
「うん」
俺が空気で開けた場所へ、高梨の光が届いた。
最弱の一体に、今度は二人で勝った。
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