第6話 最弱のスライムに負けました
申請書は三枚だった。
学校に一枚、ギルドに一枚、初心者区画の管理室に一枚。目的の欄は全部、高梨の字で埋まっている。
『《空気》による酸素低下・二酸化炭素上昇が、スライムの活動に及ぼす影響の確認』
事故でもないし、授業でもない。自分たちで書いて、自分たちで出して、それが通った。
検査から、三日だった。
ゲート前で、管理員が俺の腰の発信機を軽く叩いた。
「位置と測定値、安全確認用の映像は監視室で見てる。こっちから中止をかけたら、即座に解除しろ」
「はい」
「異常があればこれを押せ。指定ルートから出るな。靴は区画指定のを履いてるな」
「はい」
「試験は二つ。対象範囲、移動元、上限、解除の手順まで書いてある。書いたとおりにやれ。書いてないことはやるな」
それだけ言って、管理員は測定器の入ったケースを開いた。酸素計が三台と、それより一回り小さい機械が二台。
「小さい二台は二酸化炭素計だ。先に感触を合わせる。片方を口元に置いて、一度だけ息を吐け。空気は動かすな。増えたもののうち、表示と同じ動きをする感触を追え」
言われたとおりにする。
機械の頭を口の前に置いて、一度だけ吐いた。
口の前では、いくつかの混ざり方が同時に変わった。そのうち、機械の数字と一緒に増えて、遅れて薄れるものを選ぶ。
重いとも軽いとも違う。ただ、順番だけが同じだった。
「それが二酸化炭素だ。吐いた息には多いが、周囲にはごく薄くしかない。集めるには広い範囲を触ることになる。申請した移動元から出すな」
「……はい」
名前がついたのは、これで二つ目になる。
高梨はカメラの角度を三度直した。
俺の顔が入らない高さ。壁の施設表示が映らない向き。後ろの青い線が、画角の端にだけ残る位置。
それから腰を軽く叩いて凝固剤の缶が留まっているのを確かめ、通路の先と、戻る方向を順番に見た。他の班の姿はない。
「人、いない。逃げ道こっち。……よし」
誰にともなく言って、高梨は息を吸った。
「放課後ダンジョン配信、ヒヨリDIVEのお時間です。今日は申請済みの検証配信になります」
コメントの流れる速さが、前と違った。
《来た》
《例の切り抜きのチャンネルだ》
《あの即死能力者いる?》
《出るとは言ってないだろ》
《そもそも同じ人なのか?》
「初心者区画から始めます。今日の相手はスライムです」
《は?》
《スライム?》
《群れ全滅させた人が?》
《さすがにやりすぎでは》
《いや、逆に何かあるだろ》
「弱い相手から確かめる回です。以上」
画角の外で、俺は壁を見ていた。何か言えと言われたら、たぶん何も出ない。言われなかった。
◇
スライムは、通路が少し開けたところに一体だけいた。
資料の絵とほとんど同じだ。丸くて、半透明で、高さは俺の膝より少し上。表面がゆっくり波打っている。近づいているのかどうかも、しばらく見ていないと分からない速度だった。
高梨が先に周りを見る。
「後ろ、誰もいない。戻る道はこっち」
先に言っておく。
「あいつの周りの酸素を、そこの脇道へ送る。行き止まりで、誰もいない。火もない」
「脇道、確認した。人なし、火なし。……置くね」
酸素計と二酸化炭素計を一台ずつ金属のホルダーに立て、スライムの手前一メートル――操作範囲の内側へ置いた。もう一組は俺たちの足元。残った酸素計は、送り先の脇道へ置く。数字は全部、高梨の端末に飛ぶ。
高梨がカメラの角度をもう一度だけ直した。
「いいよ。始めて」
ゴブリンには通じた。群れにも通じた。
最弱と書いてある相手なら、確かめるだけだ。
◇
意識を伸ばす。
丸い身体の外側だけを選ぶ。検査室でCとDを分けたときより、輪郭は掴みやすかった。相手が大きいからだと思う。
選んだものを、脇道のほうへ流す。
光らない。風も吹かない。音もしない。
二秒あとに、ホルダーの酸素計が鳴った。短い電子音が三回。表示が下がって、画面の縁が赤くなる。
少し遅れて、脇道の酸素計の数字が上がる。足元の酸素計は、黙ったままだった。
《鳴った》
《この前と同じやつだ》
《測定器は反応してる》
《で、スライムは?》
「測定器、反応しています。人間側は変わっていません。……操作自体は、入っています」
高梨は煽らない。確かめられたことだけを読み上げる。
スライムは、丸いままだった。
ゴブリンなら、この辺で足音が乱れる。喉を押さえる。膝が折れる。
膝がない。
喉も見当たらない。
そういえば、こいつの呼吸音を、俺は一度も聞いていない。
《まだ?》
《時間かかるタイプだろ》
《この前も走ってから倒れてた》
出力が足りない、とは考えなかった。強めれば通じる相手なら、もう何か変わっているはずだ。それに、範囲を広げるのは申請にない。
「一つ目、終了」
「戻す」
脇道へ送った酸素を、スライムの周囲へ戻す。ホルダーの数字が上がり、脇道の数字が下がる。両方が基準へ戻るまで待った。
◇
「二つ目、行く」
「うん」
「二酸化炭素を集める。移動元は後ろの直線区間。人はいない。範囲はあいつの周りだけ。上限は申請どおり」
高梨が振り返って、通路の奥まで光球を飛ばした。
「後ろ、誰もいない。退路も塞がってない。……どうぞ」
空気の中の二酸化炭素は、探すと本当に薄かった。
直線区間を端から撫でて、薄いものを拾い集める。集めた分を、丸い身体の周りへ寄せた。上限は、高梨が端末の数字で見ている。
ホルダーの二酸化炭素計の表示が上がった。足元の二台は動いていない。
高梨が端末を見た。
「上がってる。……上がってます」
今度も、機械だけが反応した。
スライムは、その場でゆっくり波打った。少なくとも、丸い本体の位置は変わっていない。
《え、効いてない?》
《機械は動いてるんだよな》
《もう倒れてる判定なんじゃないの》
《映像だと何も起きてないんだが》
《ゴブリンのときと同じ絵なのに、結果だけ違う》
◇
ゴブリンも、すぐには倒れなかった。走ってきて、数歩進んでから膝が折れた。だから、待つ時間は潜る前に決めてある。
「あと三十秒」
高梨が時間を読む。無駄話はしない。
三十秒。
丸い身体は、同じ場所で、同じ速さに波打っているだけだった。
「終わり」
「戻す」
集めた分を、元の直線区間へ返した。二酸化炭素計の表示が下がって、基準で止まる。酸素計も動いていない。
「中止。下がろう」
「うん」
高梨の光球が、床すれすれまで下りた。足元を照らすためだ。
その光が、何もないはずの床の上で、一度だけ歪んだ。
「――足!」
実況の声ではなかった。
俺は自分のつま先を見た。
床に、薄い膜が広がっていた。スライムの本体から、こちらへ向かって。岩の色がそのまま透けていて、光が斜めに当たったところだけ、輪郭が浮いている。
右のつま先が、その中にある。
足を引いた。
動かなかった。
喉が鳴った。声は出なかった。
腰の発信機を押す。短い警報音が鳴った。
規定ブーツの外層が、床に貼りついている。爪先の表面が、白く濁り始めていた。
◇
高梨は、もう走ってきていた。
親指が配信停止のショートカットを押し、画面が黒くなる。その手が下がりきる前に、もう片方の手が腰の缶を抜いていた。
白い泡が、床の膜へ吹きつけられる。触れたところが、すりガラスみたいに濁って固まった。
「久住くん、斜め後ろ! 右足だけ引いて!」
踵を軸にして、言われた方向へ体重をかける。
一度目は動かなかった。二度目で、靴が剥がれた。
剥がれ際に、細い糸みたいなものが伸びて、途中で切れる。
「そのまま下がって!」
高梨は俺の腕を掴んで、来た方向へ引いた。
スライムは追ってこない。固まった部分をゆっくり身体の中へ引き戻して、また丸くなった。それだけだった。
青い線の内側まで戻ってから、高梨が監視室へ退避完了を報告した。
◇
待機区画で、靴を脱がされた。
「足、見せて。……皮膚は平気。痛くない?」
「痛くない」
右のブーツの爪先が、丸くえぐれていた。外層が白く濁って、指で押すと少し凹む。これを履いたまま続けるのは無理だ。
凝固剤の缶は軽くなった。素材はない。討伐の記録もつかない。スライムは、まださっきの場所にいる。
高梨は端末を出して、保存された記録を開いた。
「酸素、下がってる。二酸化炭素、上がってる。両方、ちゃんと残ってる」
「うん」
「操作は、成功してたんだよね」
「してた」
外したわけじゃない。当たっていた。当たっていて、相手が困らなかった。
ゴブリンは息をしていた。だから通じた。
息をしないやつがいるのは分かっていた。初心者向けの、いちばん弱いやつがそれだとは思っていなかった。
中身がどうなっているのかは、分からない。分かったのは、あのスライムが、少なくともゴブリンのようには呼吸していない、ということだけだ。
「映像と記録は残ってるよ」
高梨が端末をこちらへ向けた。慰めの声ではなかった。
「勝てなかったのは分かる。でも、何が効かなかったかまで分かる。残ったのは、そっち」
記録係の言い方だった。
「……次も、頼む」
言ってから、何を頼んだのか自分でも分からなかった。高梨は聞き返さなかった。
「うん」
俺は溶けた爪先を見て、それから通路の奥を見た。
あいつは、まだ丸いままだろう。
次にどうするかは、思いつかなかった。
◇
地上へ戻る途中で、高梨のスマホが震え始めた。一度では止まらなかった。
配信には、高梨が「――足!」と叫び、俺がつま先を見るところまで残っていた。
通知の隙間に、切り抜きの題名が一つ見えた。
『【検証】即死能力者、スライムに足を取られて配信終了』
高梨は画面を伏せた。
「……あとで見る」
「うん」
悔しかった。
効かなかったことより、高梨に腕を引かれなければ逃げられなかったことが、悔しかった。
足が動かなかった瞬間は、今になっても思い出せた。
怖かった。次も同じことになったら、一人では戻れない。
倒した証拠は、一つもない。
残ったのは、空気を変えた記録と、溶けた靴だけだった。
ゴブリンの群れに勝った俺が、最弱のスライム一体に負けた。




