第5話 ガス測定器は見ていた
機械を持ってくる、とは思っていた。
一台だと思っていた。
検査室の床には、白いテープで四角い印が引かれている。その内側に一台。壁際に一台。棚の上に一台。机には、まだ箱から出していないのが二つ。
手のひらに乗るくらいの、画面のついた箱。ガス測定器だ、と教官が言った。
部屋の隅では、記録用のカメラが回っている。生配信ではない。ランプが赤いだけの違いなのに、昨日とは緊張の種類が違った。
高梨が、教官へメモリを差し出す。
「編集前の原本です。切ってないほうです」
「助かる。こっちで保全する」
教官は作業着に近い上下で、腰に無線、胸に記録票。横に三上先生。学校側の立会人という肩書きらしい。
「先に言っておく」
教官がこちらを見た。
「これは処罰のための調査じゃない。昨日の映像だけでは、何が起きたか断定できなかった。だから、人も魔物も入れずに同じことをやってもらう。そのうえで、今後の使い方の条件を決める」
「はい」
「怖がらせる気もない。ただ、測らないと守れない」
測らないと守れない。
ハズレスキルの説明を受けたときより、よほど筋の通った言い方だった。
◇
「ゴブリンの周りで、何をした」
記録票を開いたまま聞かれた。説明できることは、思ったより少ない。
「空気の中に、感触の違うものが何種類か混ざってます」
「うん」
「そのうちの一つを、群れの外へ押しやりました」
「消したのか」
「消してません。押しやっただけです」
そこは、はっきりさせておきたかった。
「人がいる場所には、触らないようにしました」
教官は記録票に何か書いた。
「動かした成分が何か、自分では分かるか」
「名前は分かりません。ただ、同じ感触のものなら選べます」
「分かった。では、それだけを動かしてもらう。何が変わるかは、こちらで測る」
高梨が横で手を挙げた。
「映像の話を、一つだけ。久住くんは使う前に、全員を青い線の内側へ集めさせました。触ったのは線の向こうだけです。誘導したのは私なので、位置は覚えてます」
余計なことを足さない。見たことだけを言う。
「その部分は原本で確認する」
◇
白い四角の内側には、誰も入らない。
教官は中央の白い枠をA区画、二メートル先の印をB区画と呼び、それぞれに測定器を置いた。
「Aの空気から、昨日と同じ成分だけをBへ動かしてくれ。強くしなくていい。止めろと言ったら、すぐやめること」
「はい」
全員が四角の外へ下がる。高梨が壁際で息を詰めている。
意識を、白い線の内側へ伸ばす。
混ざっているものから、一つを選ぶ。ゴブリンのときと同じ感触だ。それを、誰もいないB区画のほうへゆっくり寄せていく。
何も起きなかった。
光らない。風も吹かない。音もしない。
カメラのランプは赤いまま、何も起きていない部屋を撮り続けている。
――だから昨日も、何も映らなかった。
三秒後だった。
A区画の測定器が鳴った。
短い電子音が続けて三回。表示が下へ動いて、画面の縁が赤くなる。
「――出たな」
教官の声が、少しだけ早くなった。
「Bを見ろ」
三上先生がしゃがみ込む。
「……Bも上がってます。Aとは逆向きに」
教官が両方の表示を見比べた。
「酸素だ。Aで低下、Bで上昇。他の項目は動いていない」
高梨が口を手で押さえた。
「移した先で、増えてる」
「そういうことだ。久住、止めろ」
押さえていたものを離す。
開いた部屋だから、戻るのは早かった。Aの音がまばらになって、止まる。表示が上がっていく。Bの表示も、遅れて下がり始める。
どちらも、元の値に戻った。
押しやったつもりだった。
けれど、自分の感触だけでは証明にならなかった。
今、Aで減ったものを、Bの機械が拾っている。
昨日考えたことは、合っていたらしい。
空気は、消えない。
減った場所と、増えた場所。その両方を、機械は見ていた。
◇
「次だ」
CとDは、三十センチほどの間隔で床に並べられた。Eはそこから離れた、Dとは反対側に置かれる。
「Cの周囲から酸素を退けて、Eへ送れ。Dの周囲は変えるな」
……近い。
昨日は通路の幅ごと掴んだ。今度は逆だ。広げるより、絞るほうが難しい。輪郭を、自分で持っていないといけない。
指先で撫でるみたいに、Cの上だけを選ぶ。選んだものを、Dとは反対側へ――Eのほうへ流していく。
Cが鳴った。
Dは鳴らなかった。表示が少し揺れて、すぐ落ち着く。
少し遅れて、Eが上がり始めた。
Cの表示は、俺の感触より遅れて動く。自分がどれだけ押しやったのかを外から見たのは、初めてだ。
教官はしゃがんだまま、三台を見比べた。
「Cで低下、Eで上昇。Dは動いていない」
記録票に何か書いて、それから顔を上げる。
「もう一度。今度はDから退けて、Eへ送れ。Cは変えるな」
対象を入れ替える。
Dが鳴り、Eがまた上がった。Cは黙ったままだった。
教官は立ち上がり、記録票に長く書き込んだ。
「珍しいな」
褒め言葉には聞こえない言い方だった。
「範囲を広げて酸素を下げるだけの能力なら、扱いにくいだけだ。誰と潜っても危ない。だが君は昨日、混乱した現場で人間を六人外して、動いている群れの側だけを変えた。あれは境界を引いてる。実戦でそこまで分けたなら、偶然じゃない」
教官はもう一度、記録票へ目を落とした。
「今の君の強みは、殺傷力じゃない。分ける精度のほうだ。……今確かめたのは酸素だけだがな。他の成分にも同じ精度が通るなら、煙や有毒気体の隔離にも使える」
閉じた区画の換気ができる探索者は、いるだけでパーティの生存率が変わる。
鑑定の日に、三上先生がそう言っていた。教科書どおりの、たぶん正しい説明だ。
少し、誇らしかった。顔には出さないようにした。
高梨のほうを見そうになって、やめた。聞いていてほしい、と思った自分が、恥ずかしかった。
◇
「ここからは別の生徒の記録を扱う。高梨は外で待っていてくれ」
「はい。……廊下にいます」
高梨が出ていき、入れ替わりに岸本が入ってきた。俺を見て、軽く手を上げる。
「うっす。……なんで俺」
「鑑定日の講習で、火が途中で消えたな。あのとき、火が消えたのと息が苦しくなったのは、どっちが先だった」
岸本は本気で考える顔をして、それから頭をかいた。
「……覚えてないです。同時だった気もするし。魔力の使いすぎだって言われて、座ってました」
「分かった。ありがとう」
岸本は出ていくとき、俺の肩を軽く叩いていった。何も知らない手つきだった。
◇
「原因は特定していません」
三上先生が言った。
「ただ、久住のスキルが判明した日でもあります」
教官は少し考えて、それから記録票を繰った。
「先に一つ切り分けよう。《火球》と、紙や木が燃える普通の火は別物だ。《火球》は魔力で成立している。周囲の酸素を減らしただけで消えるとは限らない」
「じゃあ、あの火は」
声が出ていた。自分でも意外だった。
「君の操作が原因だったとは、まだ断定できん。ただ、もし低酸素が関係したなら、影響を受けたのは炎ではない。術を維持していた岸本のほうだ」
教官は俺を責めなかった。断定もしなかった。事実の順番を置いただけだ。
「使い手の呼吸が乱れれば集中は保たない。集中が切れれば、炎は続かない。……ついでに言っておくと、普通の火のほうには、君の能力はそのまま通る」
あの日、俺が触ったのは、火が生まれるところのすぐ周りだ。手のひら一つ分。岸本本人には触っていない、と思っていた。
その場所は、あいつが掲げた手の上――顔のすぐ下でもあった。
退けた空気の一部を、岸本が吸った可能性はある。しかも俺は、一度目で手を離さず、四度目まで押さえ続けた。
火を消したのではなく、岸本の集中を乱したのかもしれない。
少なくとも俺は、人の顔の近くで酸素を動かしていた。
武勇伝にする気には、まったくならなかった。
◇
教官は記録票を閉じて、条件を挙げた。
「人間相手に試すな。実験も、確認もだ。緊急時以外、人が息をしている場所の空気を無断で変えるな。訓練では測定器と監督者を必ず置く。使う前に、どこから何を退けて、どこへ送るかを同行者と共有しろ。酸素を人や火気の近くへ集めるな。異常が出たら、その場ですぐ解除できること。……それから、閉所では、解除しただけで元に戻ると思うな」
「……はい」
「昨日の件は処罰対象にしない。六人を助けるための緊急使用で、対象を魔物側に限定していた。それも記録に残す」
最後に、鑑定端末と同じ書式の紙を見せられた。
『久住凪/スキル《空気》/系統・環境干渉』
『追加所見/酸素の選択的移送、近接領域の分離制御を確認』
「分類は変えない。即死スキルなんて枠はうちにない。君のは環境干渉だ。ただ、下の一行が今日増えた。危険性と例の少なさを理由に、追加記録と定期検査の対象にする」
「……監視ですか」
「監視でもある。同時に、君が続けるための条件だ」
教官は、そこだけ少し笑った。
「測れる能力は、続けさせられる。測れないと、止めるしかない」
◇
検査室を出ると、廊下が妙に明るかった。
高梨は自販機の前で待っていて、缶を二本買い、片方をこちらへ寄越した。
「久住くん。ちゃんと言うね」
背筋を伸ばす。改まった顔だ。
「配信、これからも二人でやりたい。条件も決めてきた」
高梨は指を折った。
「顔と名前は出さない。カメラとコメントと公開範囲は全部私が持つ。使う前に、人の位置と逃げ道は私が確認する。原本と、測った記録は必ず残す。……あと、切る判断は私。数字より先に逃げる」
「……なんで、そこまで」
「昨日の映像さ」
高梨は缶を開けなかった。
「久住くんが何をしたのか、誰にも説明できなかった。だから勝手に即死能力者にされた。あれ、映ってなかったせいじゃなくて、記録が足りなかったからだと思う」
「うん」
「私なら、それを残せる。倒す役はできないけど、そっちは私の仕事だから」
助けてもらったから返す、とは言わなかった。
昨日、この人は俺の顔と名前を守った。今日、記録のほうが俺を守ると分かった。それに俺も、能力を試すのは嫌いじゃない。
断る理由は、もうなかった。
「分かった」
「ほんとに?」
念を押されて、言葉が引っ込みかけた。引っ込む前に、出した。
「やる」
「よし」
高梨はその場でスマホを出して、学校の資料を開いた。初心者向けの魔物一覧が並んでいる。
「次は事故じゃなくて、ちゃんと申請して潜るから。相手も選べる」
画面をなぞって、いちばん上で指を止めた。
丸くて、半透明で、輪郭がゆるい。
「最初はスライムでいいよね。初心者向けだし」
「……何でもいい」
何でもよくはなかった。二人で、と言われたことのほうが、まだ耳に残っていた。
ゴブリンには通じた。群れにも通じた。測って、条件も決めた。
弱いなら、確認にはちょうどいい。
画面の中のスライムは、丸いまま動かない。
説明の欄には、危険度と、動きが遅いことしか書いていなかった。
呼吸のことは、どこにも書いていなかった。




