第2話 魔物も息をしているらしい
「放課後ダンジョン配信、ヒヨリDIVEのお時間です!」
高梨がスマホのカメラへ手を振る。声の張りが、教室でしゃべるときと明らかに違う。
「今日から実習配信、始めます。今日のアタッカーはこちら、《火球》の岸本くん!」
「うっす、岸本悠斗です。今日、初ゴブリン狩ってきます」
岸本は最初から画面の真ん中にいる。よくやるな、と思う。
「それともう一人、顔出しなしの補助役がいます」
高梨のカメラは、こちらへ向かない。
立ち位置を半歩ずらしても、レンズは追ってこなかった。俺の靴と、貸与されたナイフの鞘くらいは映っているかもしれないが、それだけだ。
約束は守るらしい。
声には出さない。
《ダンジョン配信ほんとに始めたんだ》
《火球見せて》
《もう一人いる?》
《顔出しNGか、了解》
コメントはぽつぽつ流れて、すぐ止まる。登録者四百人の配信は、そういう速度らしい。
俺は配信に出たいわけじゃない。ただ、実習は必修で、班は勝手に決められて、うちの班の記録係はたまたま配信者だった。それだけの話だ。
アーカイブを見られるなら、と即答した覚えはある。それは数えない。
◇
ゲート前で、管理員から短い注意を受けた。
「初心者ルートAから出るな。壁の矢印だけ追え。おかしいと思ったら戦うな、戻れ。以上」
「はーい」
高梨が元気に返事をして、俺と岸本は黙って頷いた。
貸与品はヘルメットと刃の短いナイフ、それから腰につける発信機。最後の一つは、装備というより迷子対策に近い。
中は思ったより明るくなかった。壁に埋め込まれた表示灯が一定間隔で光っているだけで、床の凹凸までは見えない。
高梨が指を立てると、その先に白い光球が浮かんだ。頭上一メートルくらいで止まって、俺たちの足元まで届く。
「照明ってこう使うんだ、と思って練習してきた」
「便利じゃん」
「でしょ」
実際、これがないと歩きにくい。
高梨はカメラを前へ向けたまま歩いている。
「ここが初心者区画です。天井、思ったより高いでしょ。あと、意外と暑くないです」
《思ったより普通の洞窟だな》
《ちゃんと歩いてて偉い》
「魔物、まだ出ませんね。えー、資料によると、この区画はゴブリンが一体ずつ出るくらいだそうです」
「一体ずつとか楽勝だろ」
岸本は先頭で肩を回している。
「おい、ゴブリン出たら、ちゃんと俺の火に風送れよ」
「……やってみる」
風で火を強くできるのかは、まだ試していない。
試していないほうを頼まれているのは、少し面白かった。
◇
通路を三度曲がったところで、背後から木の棒を引きずる音がした。
振り返ると、さっき通り過ぎた壁の窪みから、それは出ていた。
背は俺の胸くらい。緑がかった皮膚に、木の棒みたいな武器。壁の「初心者区画」という表示が、急に軽く見えた。
隊列の最後にいた俺が、いちばん近い。武器も抜いていない。ゴブリンが狙いを決めるまで、一秒もかからなかった。
走ってきた。
高梨が振り返り、スマホを胸の高さでこちらへ向けた。俺の背中越しに、走ってくるゴブリンが画角へ入る。
「――こっちへ走れ!」
俺の背後で、火が生まれた。
「伏せろ、撃てねえ!」
ゴブリンと岸本のあいだに、俺がいる。撃てば俺に当たる。
「下がって!」
高梨の光球が動いて、ゴブリンの顔の前で跳ねた。ゴブリンが一瞬だけ首を振る。それでも足は止まらない。
俺は半歩だけ下がった。ナイフの柄に手はかけた。抜いたところで、振り回して勝てる相手には見えない。通路は一本で、横へ逃げる場所はない。
距離、たぶん六メートル。
そこで、見えた。
口が開いている。舌の奥まで見える。胸が大きく上下して、喉から掠れた音が漏れている。
――こいつは、確かに息をしている。
意識を伸ばした。
教室のときと同じ感触だ。混ざっているものの中から、酸素だけを選ぶ。
ゴブリンの周りだけ。高梨と岸本のいる側は触らない。
そいつを、横へ寄せた。
見た目には、何も起きなかった。光らない。攻撃音もしない。風も吹かない。ゴブリンは、そのまま走ってくる。
効いていないのか。
背中に汗が出た。教室のときは、相手の火が消えてふらついただけで済んだ。今は、こっちへ走ってきている。
五メートル。四メートル。
――と思ったところで、足音が乱れた。
息を吸う音が、急に大きくなった。
ゴブリンが喉を押さえる。口を限界まで開けて、吸って、吸えていない。
それでも足は前に出た。三メートル。木の棒が指から落ちて、床で高い音を立てる。
二歩。
膝が折れた。
前のめりに倒れる。鈍い音がして、それきり動かなくなった。俺のつま先から、一メートルもない。
寄せていたものを、元へ戻す。
効く。
でも、使った瞬間に止まるわけじゃない。
心臓が、遅れて速くなった。
◇
三人とも、しばらく動かなかった。
通路は静かじゃなかった。俺の呼吸も、岸本が半歩下がった足音も、そのまま残っている。高梨の光球が、倒れたゴブリンの背中を照らし続けている。
ただ、攻撃の音だけがなかった。
「……え」
岸本が、火球を構えたまま固まっている。
「俺、まだ撃ってねえぞ」
「うん。知ってる」
高梨が短く答えて、カメラを倒れたゴブリンだけへ寄せた。俺の背中も、画角からきっちり外れる。
「……ちょっとごめん、音切るね」
高梨はスマホを胸の高さへ下ろして、こちらへ二歩近づいてきた。声を落とす。
「今の、久住くん?」
「……たぶん」
「たぶんって」
「教室でやったのと、同じ」
高梨が数秒黙った。それから、小さく息を吐いた。
「岸本くんの火が消えたやつ」
「うん」
「……何したの、それ」
「息をするやつを、少し横に寄せた」
本当は、一言で済む。
言いかけて、やめた。名前を出したあとの質問に、答えられる気がしなかった。
それに、名前が分かったところで、自分がどれだけ動かしたのかは俺にも分かっていない。
「……苦しそうだったね」
「うん」
そこは、否定しない。
高梨は「へえ」とも「怖い」とも言わなかった。倒れたゴブリンをもう一度見て、それから暗くしたスマホの画面を見た。
「勝手には言わないよ。名前も、今のことも」
頼む、と言うつもりだった。言う前に、そっちから来た。
「……うん」
礼の形にはならなかった。それでも、返せた。
◇
高梨がマイクを戻す。
その頃には、コメントの流れる速さが、さっきまでとまるで違っていた。
《え、倒れた?》
《火球撃った?》
《撃ってないよな今の》
《光球って攻撃できたっけ》
《巻き戻したけど何も映ってないんだが》
《ゴブリン急に苦しみだしてた》
《補助役、何かした?》
「えー、はい。ゴブリン一体、無事に……無事に、倒れました」
高梨の実況は、めずらしく歯切れが悪い。
「今のが何だったのかは、私から勝手には話せません。話せるようになったら、そのとき説明します」
こっちの了承を先にするあたりが、この人の信用できるところだと思う。
「だから俺はまだ撃ってないって」
「岸本くんは黙ってて」
「なんでだよ!」
《岸本くん正直で草》
《いや笑い事じゃなくない?》
《ゴブリンって窒息するの?》
《え、待って、誰が倒したの》
画角の外から、俺は倒れたゴブリンを見ていた。
少なくとも、こいつには通じた。
呼吸する相手なら、教室と同じことができるらしい。全部がそうだとは限らない。もっと大きいやつや、そもそも息をしていないやつがどうなるかは知らない。
知らないから、たぶん、いずれ試すんだと思う。
倒れたゴブリンは、まだ半分口を開けたままだ。焦げてもいないし、切れてもいない。殴られた痕もない。
通路の先には、まだ矢印が続いている。
コメント欄を、同じ言葉が埋め始めた。
《今、何をした?》




