第1話 空気って、お前にぴったりじゃん
「空気って、お前にぴったりじゃん。神様も分かってるな」
岸本悠斗の声は、朝の教室でもよく通る。
何人かが笑った。
顔が熱くなった。誰が笑ったのかは、見なかった。見られなかった。
何か言い返そうとした。一つ浮かんで、言ったあとの教室まで想像して、やめた。滑ったら、今より笑われる。
ひどい悪意はない。ただ面白いから笑っただけだ。
そういうことにしておくほうが、まだ楽だった。
俺の机の上では、鑑定端末の画面がまだ光っている。
『久住凪/スキル《空気》/系統・環境干渉』
それだけだ。使い方も、伸び方も書いていない。この端末が教えてくれるのは名前と大まかな系統まで。あとは自分でどうにかしろ、ということらしい。
「岸本」
教壇から三上先生が名前を呼んだ。
「笑うのはそこまでにしろ。ただ、補助系を軽く見るな。閉じた区画の換気ができる探索者は、いるだけでパーティの生存率が変わる」
「はい、すいません」
岸本は素直に頭を下げる。ここで謝れるあたりが、こいつの面倒なところだ。
やめたはずの言い返しを、まだ探していた。先生が止めて、出番はなくなった。
助かった、と思うのが嫌だった。助けられたように見えるのも嫌だった。先生にまで腹が立った。
「久住。《空気》は過去にも何例か報告がある。多いのは送風と換気、あとは火属性の補助だな。地味だが、需要はある」
「はい」
それしか出なかった。先生に含むところはない。教科書どおりの、たぶん正しい説明だ。
入学から二週間。一年二組の一斉鑑定は、そのまま順番に進んでいく。
岸本は《火球》。教室がこの日いちばん沸いたのがそれだった。
「うわ、当たり引いたなお前」
「探索者コース行けるだろ、それ」
「配信映えすんじゃん、絶対」
スキルが出れば、まずそういう話になる。誰がどこまで行けるか。ダンジョンで飯を食うのが普通の進路として並んでいる時代に生まれたので、みんな計算が早い。
高梨日和は《光球》。
「照明系かあ。まあ便利だけどさあ!」
明るい声で残念がってみせて、しっかり笑いを取っていた。高梨は教室でそういう位置にいる。
同じ補助系だ。それを笑いに変えて、自分の側へ引き寄せる。俺には、その言い方が一つも思いつかなかった。
俺は《空気》。
沸きはしなかった。
笑いは取れた。取りに行ったわけじゃない。
◇
三時間目、実習棟の演習室。基礎講習だ。
「発現直後は制御が甘い。今日は出す練習だけしろ。人に向けるな」
それから三上先生は、火属性を引いた三人を名指しした。
「岸本たちの《火球》は魔力を燃料にする。狭くて閉め切った場所で連発するなよ。自分の首を絞めることになる」
「うっす」
岸本の返事は軽い。注意されている自覚があるのか怪しい。
先生の言葉のあと、みんなが思い思いに始める。窓際で誰かの《水流》が跳ねて、悲鳴と笑い声が上がった。岸本の手のひらの上では、もうこぶし大の火が揺れている。様になっている。
俺は机に紙きれを一枚置いて、指を離した。
送風。まずはそれをやれと言われている。
意識を、手のひらの先へ伸ばす。
そこで、少しつまずいた。
空気を動かそうとしたのに、動かせるものが一つじゃない。
水の入ったコップを掴んだつもりが、中身が何層にも分かれていた、みたいな感じだ。混ざって一つに見えているだけで、手触りも重さも違うものが何種類かある。
そのうちの一つを、少し横へ寄せてみる。
紙きれは動かない。風も起きない。当たり前だ。全部を動かしたわけじゃない。
じゃあ、今どれを動かしたのか。
理科でやった話と、さっき先生が言った「閉め切った場所で連発するな」。並べれば、候補は一つしかない。
酸素だろう。たぶん。
確かめる方法は思いつかなかった。動かしても、見た目には何も起きない。
無から作ったわけでも、消したわけでもない。押しやっただけ。押しやったなら、手を離せば戻ってくる。
そこまで考えて、俺は自分がわりと嫌な想像をしていることに気づいた。
気づいたが、やめなかった。
「久住、風は出たか」
巡回してきた三上先生に聞かれて、俺は紙きれを見た。動いていない。
「まだです」
「焦るな。補助系は立ち上がりが遅い代わりに、頭の使いようで化ける」
頭の使いよう。
わりと、重い言葉を置いていく先生だと思った。
◇
「じゃあ代表で一人。岸本、前でやってみろ」
「うっす」
岸本は前に出て、両手を軽く広げた。この手の空気の作り方がうまい。視線が自然に集まる。
「見とけよ久住! お前の出番ここだからな。あとで風送ってくれ」
「うん」
軽口だ。悪気はない。中学のときからずっとそうだ。こいつは俺を友達だと思っている。
友達なら、笑って返して、軽口を投げ返すものなのだろう。岸本はそれを、何も考えずにやる。俺にはできない。「うん」の次が、いつも出てこない。
だから、鬱陶しいことにしていた。
岸本の右手の上に、火が生まれた。さっきより大きい。おおっ、と声が上がる。
俺は、岸本の手のひらを見ていた。
朝、俺は何も返せなかった。みんなの前で、端末の画面を見ているしかなかった。
これなら、誰にも見えない。見えないものは、笑われない。
意識を伸ばす。距離は五メートルくらい。届く。
狙うのは岸本じゃない。あいつの手の上、火が生まれているところの、すぐ周りだけでいい。手のひら一つ分あれば足りる。
そこにある酸素を、外へ寄せた。
火が、揺れた。
縁が細くなって、色が薄くなって、消えた。煙も上がらない。ただ、なくなった。
「……あれ?」
岸本がもう一度手を掲げる。今度は膨らみきる前に途切れた。
「なんで」
三度目は、火種の形が浮かんだところで消えた。
出しては消え、出しては消え。四度目に手を上げたとき、岸本の肩が大きく上下していた。一歩、横にふらつく。
腹の底が冷えた。
そこまでは、考えていなかった。すぐに解除した。
寄せていたものが、当たり前みたいに戻っていく。押さえていた指を離すのと変わらない。力なんてほとんど要らなかった。教室のざわめきも、椅子の軋みも変わらない。動かしたのは、空気全部じゃない。
「岸本? おい、大丈夫か」
三上先生が素早く前に出て、背中を支える。岸本は二、三度深く息を吸って、それから照れたように笑った。
「……すんません。なんか急に、クラッと来て」
「発現直後にはよくある。魔力の使いすぎだ。座ってろ」
「うわ、かっこわる」
教室が笑った。
朝、俺を笑ったのとまったく同じ種類の笑い方だった。
俺は表情を動かさず、ノートに視線を落としてシャーペンを一回まわした。顔に出したら、そこで終わる。
悪くない、朝の軽口の落とし前だと思った。
そう思っておかないと、さっき冷えたものの始末がつかなかった。
火が消えれば、それでよかった。
人間の呼吸まで試す気はない。息が上がったのは、あいつが勝手に何度も撃ったからだ。
視線を感じて、顔を上げた。
高梨日和が、こっちを見ていた。
目が合うと、彼女はすぐ岸本のほうへ視線を戻した。何も言わなかった。
見られていた。
何を見られたのかは分からない。分からないのが、いちばん落ち着かなかった。
◇
講習の終わりに、三上先生が実習の班を発表した。
「初心者ダンジョンの実習は三人一組でやる。一年二組の三班、岸本、高梨、久住」
岸本が「よし!」と声を上げる。まだ少し顔色が悪い。
「攻撃が岸本。高梨は照明と記録。久住は換気と、火力の補助だな」
補助。今日二回目だ。
岸本が振り返って笑った。
「久住、俺の火、ちゃんと強くしろよ」
「……ああ」
強くできるかは知らない。
消せることは、もう分かった。
◇
放課後、昇降口で高梨に呼び止められた。
「二人にさ、言っときたいことがあって」
岸本がスマホから顔を上げる。
「実習、配信していい? 学校の許可はもう取ってある。『ヒヨリDIVE』ってチャンネルでやってるんだけど」
「聞いたことある。犬の動画のやつ?」
「日常のやつね。登録者まだ四百人。初心者実習の配信って意外と伸びるらしくてさ」
「マジで。俺映る?」
「岸本くんは映る前提で話してた」
「よっしゃ」
こいつは本当に単純でいい。
「久住くんは、顔も本名も出さないから。声も、嫌なら加工する。映すのは手元と、後ろ姿くらい」
「その映像、あとで俺も見られる?」
「見られるよ。アーカイブ残すし」
「なら、いい」
「即答だ」
「うん」
自分から聞き返せたのが、意外だった。知りたいことがあると、声は出るらしい。
そこで岸本が「購買寄る」と走っていって、俺と高梨だけが残った。
岸本がいなくなると、何を言えばいいのか分からなかった。
高梨はしばらく黙っていた。それから、あまり大きくない声で言った。
「久住くんってさ。岸本くんの火が消えたとき、驚いてなかったよね」
「そう?」
「みんな驚いてたのに、久住くんだけ驚かなかった」
……よく見ている。
「たまたまだよ」
言ってから、もっとましな返しがあった気がした。もう遅い。
「そっか」
高梨はあっさり引いた。引いたけれど、納得した顔ではなかった。責める顔でもない。笑う顔でもなかった。面白いものを見つけた人の顔だ。そっちのほうが厄介かもしれない。
「実習のダンジョン、出るのゴブリンなんだって」
「知ってる」
「学校の資料に書いてあったんだけどさ」
高梨はスマホをこちらへ向けて、少し笑った。
「魔物って、息をしないのもいるんだって。でも、ゴブリンは呼吸してるらしいよ」
火が消えたあと岸本は肩で息をしていた。何を言われているのかは分かった。
「……へえ」
ゴブリンも息をしているらしい。
それは少しだけ、試してみたかった。




