第13話 魔法が消えても、火事は残る
「消火器を使うか」
天井のスピーカーが言った。
床の継ぎ目では、赤い線がまだ伸びている。左の壁際で、枯れ枝が乾いた音を立てた。細い黒煙が、天井へ向かって上がっていく。トカゲは部屋の中ほどに腹をつけたまま、動かない。退避線は、二本とも見えていた。
「先に、燃えてる場所だけ酸素を外します。広がったら使います」
「できる範囲は」
「光で囲ったところだけ。人のいる側は残します」
「送り先は」
「上には出せません。煙があるので」
オーガのときも、さっきも、送り先は上だった。今は、そこに煙が溜まり始めている。酸素を寄せていい場所じゃない。
「右の壁の奥だ。そちらより奥で、石しかない。燃えるものも、人もいない。出すなら、そこへ薄く散らせ」
「右の奥。了解」
スピーカーが、少しのあいだ黙った。監視室の画面で、同じものを見ているはずだった。
「火元は、そちらからも全部見えているな」
「はい」
「退避線は二本とも空いている。区画内は二人だけだ。……許可する。火元を見失うか、火が退避線へ出たら中止だ。消火器に切り替えろ。退避線は維持しろ」
「はい」
できる、と決めたわけじゃない。燃えている場所が全部見えているあいだなら、狭く試せる。そこまでだ。
高梨が、右の壁際にあった消火器の一本を、自分の足元へ引き寄せていた。使わないためじゃない。使うときに、探さないためだ。
入口の脇の表示板には、『討伐成立』が出たままだった。その横に、『依頼継続』。
◇
高梨が、光を割り直した。
照明に回していた分を消す。継ぎ目の火が入口側の線へ向かう、その先端のすぐ外に一つ。左の壁の下、こぼれた枯れ枝の火のそばに一つ。残りは、俺たちの足元。右の壁際の線の手前だ。
全部を同じ明るさにはできない。高梨は継ぎ目の光だけを少し強くして、枯れ枝のほうは、そこに火があると分かる程度に落とした。
「順番、決めていい?」
「うん」
「継ぎ目から。線に近いほう。越えたら中止。入口側は捨てて、右だけにする」
入口側の退避線を、先に守る。俺も同じ順番だった。
「光の内側だけ。外へは広げない」
高梨に言った。監視室にも聞こえている。
継ぎ目に沿った赤い筋。その周りに、狭く範囲を置く。光は、その外側だ。光の外には、床しかない。人もいない。目で確かめてから、中の酸素だけを選って、右の奥へ薄く流す。
炎が、細くなった。
乾いた音が減る。火のほうへ吸われていた流れが、手の中で弱くなる。筋の先端は、伸びるのをやめていた。
さっきの火は、酸素を退けても揺れ方を変えなかった。こっちは、細くなった。使っているものなら、取り上げられる。
「線、越えてない」
高梨が言った。継ぎ目の先端と退避線のあいだに、まだ床が残っている。
赤が、筋の端から順に消えていく。石の色に戻る。
見えなくなった。
手は離さない。範囲はそのままにして、枯れ枝のほうを見る。
二つを一つの範囲で包めば、楽そうに見える。間の床まで薄くすることになるだけだ。広げた分だけ、押さえる重さも増える。別々に持つ。重いが、狭い。
こぼれた枝は、一か所に固まって燃えている。その周りに、二つ目の範囲を置いた。継ぎ目のほうは、そのまま持つ。
「巣材、明るくする」
高梨が、継ぎ目の光を落として、枯れ枝の光を上げた。今やっている場所だけが、明るい。
枝の火は、継ぎ目より背が高かった。細くなるのも、遅い。乾いた音が間遠になって、炎の先が短くなっていく。
消えた。
継ぎ目と、枯れ枝。両方、炎が見えない。
二つを別々に持つのは、重い。重いほうから、緩めかけた。枝のほうだ。
「まだ。枝の下」
高梨の声だった。
光が、枯れ枝の根元へ滑る。重なった枝の下、床との隙間に、赤いものが残っていた。炎じゃない。赤い、というだけの色だ。
緩めた分だけ、そこから細い煙が一本、立ち上がった。
緩めたのは俺だ。置き直す。同じ狭さで、同じ場所に。
見えなくなったのと、消えたのは、別だった。俺は範囲の中を見る。高梨は、その外を見ていた。
枝の下の赤が、暗くなる。火のほうへ引かれていた流れが弱くなって、止まった。煙が細くなって、途切れる。
そこまで持って、まだ離さない。
「継ぎ目、なぞる」
高梨が、光を継ぎ目の端から端まで、ゆっくり動かした。石の間に、赤は戻らなかった。
《煙、増えてる?》
《消火器は?》
「安全確認中です」
高梨は、それだけ言って、コメントを見なかった。
◇
爆ぜる音が、しなくなっていた。
炎も、赤みも、新しい煙もない。それでも、鎮火とは言わない。監視室も、言わなかった。
範囲を持ったまま、待つ。天井の煙は、細い帯になって溜まっている。足元の空気は、まだ普通だ。退避線は二本とも、光の下に見えていた。
戻すときは、一度にやらない。
外した分をまとめて火元へ戻せば、それは風だ。右の奥へ逃がした分は、そのまま置いておく。範囲のほうを、ゆっくり緩める。周りの空気が、勝手に混ざるに任せる。
継ぎ目から先に。
赤は、戻らなかった。
次に、枯れ枝。
高梨の光が、枝の下を照らしたままだ。煙は、立たなかった。
「赤、なし。煙、なし」
高梨が言った。監視室にも、同じ映像が行っている。
スピーカーが鳴った。
「継ぎ目、巣材とも、再発火なし。右奥の偏りも散った。火種なし。排煙へ移れ。奥の排気口は無人側だ」
ここまで、流れは作らなかった。火が残っているうちに空気ごと動かせば、別の火へ酸素を送る。消すのと、煙を抜くのは、別の仕事だ。
高梨が、光を置き直した。火元の二つを消して、一つを奥の壁の上、排気口の手前へ回す。足元のは、そのまま。息をする側と、通り道。
「そっちへ、出す」
奥の光を見て言った。
「うん」
煙は、消せない。運ぶだけだ。
天井の煙の帯に、弱い流れをつけた。選ばない。煙も、そこにある空気も、まとめて同じ向きへ。奥の光のほうへ、細く、続けて。
強くはしない。強くすれば、消えたばかりの灰が舞う。下へは降ろさない。線の上と、俺たちのいる側は、触らない。
帯が、曲がった。
天井に広がっていた黒が、一本の筋にまとまって、奥の光へ向かっていく。排気口の暗がりに、少しずつ吸われていった。一気には抜けない。細く、曲がって、続く。
《煙、曲がった》
《光のほうへ流してる?》
《倒したあとも仕事なんだな》
「もう少し上」
高梨が、排気口の手前の光を、少しだけ持ち上げた。流れの先を、光に合わせて上げる。筋の先が、遅れて曲がった。
高梨は、コメントには答えなかった。カメラは、煙の筋を追っている。俺の背中と、その先の黒い帯と、奥の光。
空気は映らない。煙は、映る。
天井の黒が、少しずつ薄れていった。
◇
「排煙、そこまででいい。止めろ」
手を離す。奥への流れが、ほどけて静まった。
「退避線、入口側、目視できます。右壁側も」
高梨が言った。光を二本の線へ順に当てる。どちらも、床まで見えている。
「人のいる側、異常なし。区画内通常火災、鎮火。排煙完了。安全確認終了。依頼完了だ」
スピーカーの声は、最初と同じ平たさだった。
「消火器は戻しておけ」
高梨が、息を吐いた。それから、胸のカメラの向きを直した。
「初仕事、完了です。相方と二人で、討伐と、区画の安全確認まで終わりました。今日はここまで」
《初仕事おつ》
《倒してから長かった》
《後始末まで映す配信、初めて見た》
配信が切れてから、制服の袖を鼻に近づけて、顔をしかめた。
「……煙の匂い」
「うん」
「落ちるかな」
「知らない」
俺のも、同じだった。帰りの電車で、隣に座られないくらいには匂う。
◇
区画の外の確認端末に、受注番号の画面が出ていた。いちばん上の表示は、まだ『討伐成立』のままだ。
監視室の担当者が、通路に出てきていた。声は、スピーカーと同じだった。
「討伐だけなら、対象の処理記録で終わる。区画を戻したところまでが、今回の依頼だ」
「はい」
「報酬は、依頼完了で確定する。受注時の登録どおり、二人に分かれる。素材は別で、フレイムリザードの査定は受付から通知が行く。対象の回収はこちらでやる」
それだけ言って、戻っていった。
画面に、処理記録の欄が増えた。対象討伐。区画安全確認。どちらにも、済みの印。その下は二人分に分かれていて、俺の側には、局所消火と排煙。高梨の側には、区域標識、退避線の更新、映像記録の保全。撮影、とは書かれていなかった。
資格が増えたわけじゃない。
それでも、俺たちがやったことには名前がついた。
鑑定の日には誰も沸かなかった二つのスキルが、二人分の仕事として並んでいる。
嬉しかった。
高梨も同じだったらしい。自分の番号のある行を、何度も見ていた。
値段がつくのは、倒したところまでじゃない。戻したところまでだ。
それから高梨は、自分の端末で映像の記録を確かめた。
「消火のところも、残ってる。煙が曲がるところも」
声が、少しだけ高かった。
「伏せるところは伏せて、切らないで出す」
「うん」
画面の表示が、『討伐成立』から『依頼完了』に変わっていた。
その下に、探索者番号が二つ並んでいる。
報酬の欄を見たのは、そのあとだった。




