第12話 酸素がなくても、魔法の火は消えない
金の出る依頼書を初めて開いたとき、最初に見たのは報酬の欄じゃなかった。
『呼吸器官:あり(肺呼吸)』
その一行だった。金額は二行下にある。見なかったわけじゃない。順番が後になっただけだ。
スライムに負けてから、危険度の欄より先に、そいつが何を使って生きているかを見るようになった。肺があるなら、息を吸う。吸う場所になら、俺の手が届く。
受注から二日。扉の前で、高梨が同じ依頼書を開いていた。見ている行が、俺と違う。
「吐炎は魔力由来。酸素遮断による消火は保証されない、だって。……消せない前提?」
「本体だけ。火は、たぶん消えない」
教官の説明は覚えている。魔力で成り立つ火は、酸素を減らしただけでは消えるとは限らない。消えない火を、自分の目で見たことは、まだない。
効くところと効かないところが、一体の中にある。試すなら、監視のある場所がいい。
高梨の指が、完了条件の行で止まった。
『完了条件:対象の討伐、および区画の安全確認』
「倒して終わりじゃないんだ」
「うん」
受注の画面には、探索者番号が二つ、同じ欄に並んでいる。名指しじゃない。誰でも受けられる案件で、俺たちには最初の一件だ。
保守用経路の紙は、頭の隅に置いたままだ。今できる正式な仕事は、これだった。
◇
中は、資料のとおりだった。乾いた石の床の継ぎ目に、茶色い苔。奥の左隅に、枯れ枝を寄せた巣の山。山は、動いていない。
天井のスピーカーが鳴った。
「監視室だ。受注番号、確認した。中断はこちらからかける。かけたら、全部止めろ。退避区域に炎が残るか、線が二本とも塞がれたら止める。消火器は、指示したら使え」
「はい」
高梨が胸の固定具にカメラを留めて、両手を離した。主灯を三つに割る。分けるほど一つずつは暗くなるから、全部は照らさない。入口側の退避線の上に一つ、低く。右の壁際に一つ。残りは部屋の中ほどで、照明の役だ。
「退避線、入口側と右の壁際。消火器、二本。配信は許可済み。……継ぎ目の苔、乾いてる。燃えるものは、ある。人、いない。送り先は」
「上。火には寄せない」
「上、了解」
訓練でやってきたことを、仕事の手順に並べ直しただけだった。
◇
「放課後ダンジョン配信、ヒヨリDIVEです。今日は、うちの相方と、初めての有償依頼です。管理側の許可済み。場所と金額は出しません」
《初仕事おめ》
《相方、就職した》
《火と空気なら相性勝ちでは》
「相手はフレイムリザード。以上」
読み間違いのコメントは、直さなかった。直すのは映像の仕事だ。
奥の山が、崩れた。
先に来たのは、熱だった。
低い。大型犬より大きいのに、腹が床に近い。長い尾が石を打って、乾いた音がした。鱗が、光を鈍く返す。
喉が、膨らんだ。
吸っている。
鼻先と口元の手前。両手で囲えるくらいの空気。その中の酸素だけを選って、上へ流す。
手応えはあった。オーガのときと同じだ。喉は、膨らむのをやめなかった。吸った。
――吐いた。
炎は、俺が薄くした空気の中を、何事もなく抜けてきた。
「右!」
高梨の声。俺は右へ跳んだ。高梨も右へ。壁際の光のほうだ。
床を這う炎が、さっきまで俺のいた場所を通って、入口側の線の手前で止まった。熱が、頬の横を通り過ぎる。
規定ブーツの底が、床を噛んだ。滑らない。
《消えてない》
《炎、素通りした》
消えなかった。
薄くした感触は、確かにあった。あいつは、その空気を吸った。吸って、それでも火は出た。
効いていない、とは思わなかった。ゴブリンもオーガも、吸ってすぐには倒れていない。
ただ、火だけは、待ってくれない。
◇
「まだ残ってる」
高梨の声は、コメントに向いていなかった。
炎が止まった場所。石の上に、炎の一部が燃え続けている。トカゲは口を閉じている。それでも、そこにある。燃え移るもののない床で、炎の形だけが揺れていた。
入口側の退避線は、その火の向こうだった。
「そっちは駄目。……こっち」
高梨が、入口側の光を消した。右の壁際の光が強くなって、少し手前へ動く。次の退避先だ。俺の指示は、待たなかった。
トカゲは部屋の中ほどで向きを変えて、低い姿勢のまま、こっちを見ている。
俺は、残った火を見た。高梨は横。トカゲの顔は、そこから離れている。人もいない。
一度だけ試す。
残った炎の周りから、酸素を上へ退けた。紙や木の火なら、ここで細くなる。
細くならなかった。
炎は、同じ形で揺れている。周りの空気が変わったことに、気づいてもいない。
教官の言ったとおりだ。これは、燃えているように見える魔力だった。あの日消えたのも、たぶん火じゃなかった。切れたのは、岸本の集中のほうだ。
二度目は、やらない。
狙うのは、火じゃない。吐いているほうだ。
「火は消えない」
高梨に言った。短く。
「本体だけ見る」
「了解。足場は私」
◇
トカゲが走った。
速い。オーガの直線とは違う。低いまま曲がる。尾が、曲がった先の床を払う。
顔が動く。動く顔の前に置いても、すぐ外れる。オーガのときは、膝が沈んでからしか追えなかった。
吸うときは、止まる。
喉が膨らむ一瞬だけ、あいつは前へ進まない。そこに置く。
「離れる」
言い置いて、俺は前へ出た。こういう言葉は、迷わずに出る。要るものが決まっている。高梨は壁際に残る。二人が離れると、あいつはどっちかを選ぶ。選んで、曲がる。曲がるぶん、走る。
こっちを選んだ。
「吸う!」
高梨の声が、俺より先だった。喉が膨らむ前の、脇腹の動きを見ている。
鼻先の手前へ、狭い範囲を置いた。吸った。
吐いた。
右へ跳ぶ。炎が床を走って、俺の左――部屋の真ん中に残った。
「真ん中、駄目。下がって!」
高梨が壁際の光を、俺の後ろ、右の線の手前へ滑らせた。真ん中の照明は消す。古い印は残さない。次に使う場所だけを光らせる。
床の火が二つになった。通れる場所が、減った。
置ける光の数には限りがある。高梨は部屋を照らすのをやめて、一点だけを示す。俺は炎を見ない。炎は高梨が見る。俺が見るのは、あいつの鼻先だけだ。
トカゲが、また向きを変えた。
「次の光!」
高梨が短く言って、光を壁際から床の一点へ移した。俺はそこへ走る。
あいつの走り出しが、遅れた。
さっきまでの一歩目が、半歩になっている。尾が床を打つ音が、一度、外れた。
「動き、落ちてる」
高梨が言った。数字は言わない。見えたことだけを言う。
走って、吐いて、尾を振って。そのぶんを次の息で取り戻すはずが、取り戻せていない。
尾が来る。高梨が壁際を前へ、俺が後ろへ。すれ違うように場所を入れ替えると、あいつの首がそれを追って、遅れた。
「右へ来る!」
尾より先に、頭の向きで高梨が読む。俺は左へ半歩ずらす。首が遅れているぶん、鼻先は追えた。
尾が、また来た。跳ぶ。足の下を、払っていった。
自分の回避と、あいつの鼻先。同時にやるのは、簡単じゃない。視線が外れれば範囲がずれる。広げれば楽だが、広げた先に高梨がいる。狭いまま、追う。
胸の固定具のカメラは、高梨が走っても画角を落とさなかった。
中断は、来なかった。
◇
トカゲの首が、下がった。
顎が床に近い。それでも、喉が、これまででいちばん大きく膨らんだ。残った力で、大きいのを吐く気だ。
「頭、こっち向いてる!」
高梨の光が、トカゲの顔の、俺たちと反対側で一度だけ強く瞬いた。
頭が、そっちへ振れた。
炎が出た。俺たちのいない左の壁へ。巣の山の端をかすめて、石に当たって、一部がそこに残る。
俺は、炎に触らなかった。
吐き切ったあとに、来る。
膨らんだ喉が、しぼむ。閉じかけた口が、吸うほうへ開き直す。
――今。
鼻先の手前。狭い空気。酸素を上へ。
吸った。吐いた分を、全部取り返す長さだった。
顔が、少し動いた。追う。外さない。
もう一度、吸う。
前脚が、崩れた。
腹が床につく。首が持ち上がりかけて、落ちた。喉は、もう膨らまなかった。胸だけが、大きく上下している。
「対象の戦闘不能を確認。討伐判定、成立。解除しろ」
天井のスピーカーが言った。
手を離す。狭い範囲だったから、鼻先の空気はすぐ周りと混ざった。上へ逃がしていた分は、まとめて降ろさない。火のあるほうへ寄らないように、薄く混ざるに任せた。
床の炎が、薄れ始めた。
入口側のが先で、次に真ん中の、最後に左の壁の。順番に色が抜けて、消えた。
俺が酸素を戻してから、消えた。
消したのは《空気》じゃない。吐いていたものが、もう維持できなくなっただけだ。
高梨が、カメラの向きを直して言った。
「討伐、成立です。相方と二人で、初めての有償依頼、対象を倒しました」
《初仕事クリア》
《呼吸税、火の中でも徴収された》
高梨が息を吐いて、少しだけ笑いかけて、止めた。
目が、床の隅を見ていた。
「……煙」
◇
床の継ぎ目に沿って、細い線が赤くなっていた。
枯れた苔だ。炎が走った道筋の、石の間に詰まっていたやつ。魔法の火が消えても、そこだけが燃えている。左の壁の下では、巣からこぼれた枯れ枝が、離れた場所で二つ、三つ。乾いた音を立てて、爆ぜた。
細い黒煙が、天井へ向かって上がり始めている。退避線は二本とも空いている。ただ、入口側へ向かう継ぎ目が、一本の筋になって赤い。
さっきの炎は、煙を出さなかった。
こっちは、出す。
近くの空気が、動いていた。火のほうへ、吸われている。魔法の火の周りにはなかった流れだ。こいつは、燃えるのに空気を使っている。
天井のスピーカーが、また鳴った。
「監視室から。区画内に通常火災を確認。討伐判定は成立している。依頼は継続。火災処理へ移れ。消火器の位置は変わっていない。退避線は現状維持」
高梨がカメラを押さえて、火から目を離さずに言った。
「終わってないって」
「うん」
トカゲは倒れた。
魔法の火も、消えた。
床の火だけが、残った。




