第11話 教室で空気になれない
入口から、自分の机が見えなかった。
なくなったわけじゃない。人が立っていて、隠れている。
窓際から二列目、後ろから三番目。この席までの道は、いつも空いている。鞄を置いて座るまで、誰とも目が合わない。それが普通だった。俺が一人を選んでいることにしておけば、それで済んだ。
今日は、入口で足が止まった。
止まったことに気づかれたくなくて、靴紐を見るふりをした。結び目はほどけていない。直す場所はなかった。
「あ、来た」
顔が上がる。机の周りにいた何人かが、いっせいにこっちを向いた。
笑われた日のことを、身体のほうが先に思い出した。
いつもなら背中の側で鳴っている声が、今日は正面から来る。
一人がスマホを掲げた。画面の中で、オーガが膝をついている。止めた映像だ。その手前に、背中と、制服の肩の線。それだけだ。
「昨日の相方、久住だろ」
声を出したのは、隣の列のやつだった。名前は知っている。話したことは、たぶんない。昨夜、連絡グループに一文を送ったのと、同じ名前だ。
顔は映っていない。学校の名前も、映像のどこにもない。
それでも、こいつらは知っている。最初の実習班が岸本と高梨と俺だったこと。《空気》を引いたのが俺だったこと。高梨が最近、俺と二人で動いていること。あとは、背格好。
検索では、ここまで来られない。同じ教室にいれば、来られる。
否定すれば嘘になる。認めれば、次が来る。どちらも、言ったあとが想像できなかった。
「鞄、置きたい」
出てきたのは、それだった。否定でも、肯定でもない。いつもの手順の、一つ目だった。
人が半歩ずれて、机の端が見えた。鞄を置く。座る前に、次の質問が来た。
「触ってないよな、あれ」
「触ってない」
「じゃあ、何したの」
「……二人で倒した」
「二人でって、高梨と?」
「うん」
「あの光、高梨だよな。動画の」
「うん」
「次、どこ潜るの」
「決めてない」
答えは短くて済む。短くて済むものしか、答える気がなかった。
本当は、長く喋って、どこかで噛むのが怖かった。短ければ、外しても目立たない。
「なあ、ちょっとだけ見せてくれよ。俺にさ、その、酸素のやつ」
「やらない」
「即答かよ」
「人にはやらない」
これだけは、迷わなかった。
スマホを持ったやつが、少しだけ笑った。笑うのに理由の要らない笑い方だ。それでも、鑑定の日の笑いとは、種類が違った。
「金、入るの? ああいうのって」
「……靴になった」
「靴?」
「規定の。溶けたから」
それ以上は、聞かれなかった。
前の席の女子が、机に肘をついたまま言った。
「《空気》って、当たりだったんだね」
鑑定の日、同じ言葉を聞いた。向いていた先は、岸本の火だった。
嬉しかった。
でも、次に失敗したら手のひらを返される気がして、そのまま受け取れなかった。
「……相手による」
「相手?」
「息をしないやつには、効かなかった」
後ろから、誰かが言った。
「スライムに負けたやつだ」
「負けた」
そこは、隠しようがない。映像が出ている。
好かれたわけじゃない。使い道が見つかっただけだ。
居心地は悪い。それでも、帰りたいとは思わなかった。
「おはよー。……何これ」
高梨が入口で止まった。俺の机の周りを見て、それから俺を見る。
「高梨、やっぱ久住が相方なんだろ」
輪の中から声が飛んだ。
高梨は、すぐには答えなかった。輪を回り込んで、俺の机の横まで来る。
「久住くん。どこまでなら言っていい?」
小さい声だった。周りには聞こえる。聞こえていい、という声だ。
何をしたかは、全員が聞いた。何を言っていいかは、高梨だけが聞いた。
自分で決めていいなら、答えはあった。
「査定に受かったことまでは」
「それ以外は、今までどおり?」
「うん」
高梨は輪のほうへ向き直った。配信の声ではない。教室の声だった。
「私と久住くんの二人で、卒業査定を受けました。二人とも合格。オーガは、二人で倒した。ここまでは、学校にも記録が行くこと」
「ここまでって、他は」
「他は、ない。顔も名前も学校も、次にどこへ行くかも、やり方の細かいところも、配信には出さない。今までも、これからも」
それから、少しだけ声を落とした。
「知ってるのと、書いていいのは、別だからね。ここで分かってても、外には書かないで。書かれたら、消して回るのは私だから」
誰も、書くとは言わなかった。
「なんだこれ、朝から」
岸本の声は、入口からでも通る。輪の半分が、当たり前みたいに向きを変えた。
「岸本、お前も一緒だったんだろ。最初のやつ」
スマホの画面が、岸本のほうへ向けられる。
「あれ、火球で焼いたんじゃねえの。オーガのも三人で?」
乗ろうと思えば、乗れる場所だった。いつもの岸本なら、腕を広げて、話を大きくするところだ。
俺は、岸本の口を見ていた。こいつが「そうそう」と言えば、それが教室の事実になる。昔から、俺の言葉より岸本の言葉のほうが通る。
「オーガのとき、俺はいねえよ」
岸本は鞄を自分の机に放って、それだけ言った。
「最初の群れも、倒したのは久住だ。俺は転んだやつを引っ張っただけで、一発も撃ってねえ。……助けられた側」
教室が、一瞬だけ静かになった。
誰も笑わなかった。
「昨日のは、こいつと高梨の二人で勝ってる。光で怒らせてたの高梨だろ。映ってた」
高梨が、少し驚いた顔をした。
「見てたんだ」
「見るだろ、あれは」
こいつは、こういうところで嘘をつかない。話を大きくしたほうが楽な場面で、しない。
鑑定の日、教室を笑わせた声が、今日は俺の側で使われた。
嬉しかった、と認めるのは少し癪だった。
それでも、岸本が嘘をつかなかったことに、俺は助けられていた。
それが、いちばん面倒だ。
質問の向きが変わった。スマホは岸本から俺へ戻り、岸本は自分の席に座って、それから俺のほうへ顎を上げた。
「先に卒業しやがって」
「……うん」
「次は俺も行く」
礼を言おうとして、言葉の形になる前に、岸本が前を向いた。
言う場面でもなかった。それは本当だ。
チャイムの少し前に、三上先生が入ってきた。
「席に着け」
輪が崩れて、それぞれの席へ戻る。俺の机の周りが、いつもの形になった。いつもの形なのに、視線だけが元に戻らない。
先生は、出席簿を開く前に言った。
「高梨と久住の、初心者区画の卒業査定。合格の記録が学校に届いている。二人とも合格だ。おめでとう」
拍手が起きた。どこを見ればいいのか分からなくて、机の木目を見ていた。
短かった。長くなる前に、先生が続けたからだ。もう少し長かったら、嬉しいのが顔に出ていた。
「動画を見て誰か分かった気になるのは勝手だ。だが、本人が出していない名前と学校を、外へ書くな」
それだけだった。講義にはならなかった。
「高梨、久住、岸本。放課後、進路指導室に来い」
「俺もっすか」
「お前もだ。最初の実習の話がある」
岸本が首をひねった。俺も、少しだけ。
◇
騒ぎは収まった。視線は、収まらなかった。
授業のあいだは、みんな前を向いている。休み時間になると、また戻ってくる。前は人数合わせでしか声のかからなかった席に、用のある声が来る。
「次の実習、組めない?」
二時間目のあとに来たのは、待機区画で転んだやつだった。
断る言い方を探して、見つかる前に、本当のことが出た。
「今は、高梨と組んでる」
「固定?」
「……今は」
画面の中だけの関係だと思っていたものが、教室で、俺の口から出た。相方とは言っていない。組んでいる、とは言った。
言ってしまってから、誰かが笑うのを待った。笑う声は、来なかった。
昼休みに、端末を開いた。ギルドの依頼欄。ずっと灰色だった初級の行が、普通の字で並んでいる。開いただけだ。中は、まだ見ていない。
◇
進路指導室は、机が一つと、椅子が四つの部屋だった。
机の上に、紙が一枚。上に『中間報告』とあって、その横に、取扱注意の判が押してある。
高梨は座る前に、スマホを裏返して机の端へ置いた。先生はそれを見て、何も言わなかった。
「先に言っておく。誰かの処分の話じゃない。扉の閉め忘れでもない」
三上先生は、紙を俺たちのほうへ回した。
「最初の実習で、待機区画の手前に群れが出た。あれの調査だ。侵入の経路がたどれた。待機区画の壁の向こうに、保守用の細い経路がある。探索者用のルートじゃない。点検用だ」
岸本が、身を乗り出した。
「そこから、ゴブリンが」
「出てきた。……問題は、出てきた理由のほうだ」
先生が、紙の一行を指で示した。
『保守用経路内において、待機区画側へ向かう一時的な逆流を確認』
「保守用経路の換気は、待機区画側から奥へ抜ける向きに固定されている。奥のものを、こっちへ流さないためだ。その向きが、一時的に逆になっていた。奥から、こっちへ」
「風で押されて、ゴブリンが出てくるんすか」
岸本が聞いた。
「そう書いてある。逆流のあいだ、奥からこちらへ向かう流れがあって、群れはそれに押し出される形で出てきた可能性が高い、と。自分から待機区画を選んだわけじゃない、というのが管理側の見方だ」
高梨が、順番に聞いた。
「映像は残っていますか」
「保守用経路にカメラは少ない。足りない」
「測定値は」
「換気装置、圧力、風向き。別々の設備の記録で、向きが一致している。一台の故障では説明がつかない」
「これ、公開しても」
「不可だ。中間報告で、原本は管理側にある。お前たちに見せるのは、当事者だからだ。外で話すな」
「はい」
「誰かの風スキルとか、そういうのじゃ」
「当時、その経路に入っていた探索者はいない。風系スキルの使用申請もない。原因は未確定だ」
「うっす」
俺は、紙の一行を見ていた。時刻の欄がある。
「始まったのは、いつですか」
「退避放送の前だ。お前たちが待機区画に着くより前だ」
俺が動かしたのは、線の向こうの通路だけだ。保守用経路には触っていない。それでも、確かめておきたかった。
「……なら、俺じゃない」
「ああ。そこは確認済みだ」
先生は、そこで一度、言葉を切った。
「換気装置の稼働記録は、設定どおりだ。扉も動いていない。圧力調整も入っていない。それでも、風向きの記録だけが、こっちを向いた」
魔物がなぜ来たか、は、そこに書いてある。押されたからだ。
聞くべきことは、その手前にあった。
「どこから来た空気ですか」
「それが分からない」
先生は、紙を裏返した。
「分かっているのは、経路と、向きと、時刻だ。分かっていないのは、出どころと、理由。……あと、もう一度起きるかどうか」
◇
進路指導室を出ると、廊下は静かだった。
岸本は、先に階段を降りていった。
「……久住くん、今日、いつもの三倍くらい喋ったね」
「数えるな」
高梨が笑った。笑い声が廊下に散って、それきり、どちらも喋らなかった。
笑われたのに、嫌じゃなかった。
ゴブリンは、道を間違えたわけじゃなかった。
細い経路の奥から、こっちへ押し出されてきた。
誰も動かしていないはずの、空気に。
俺は今日、教室で見つかった。
あの日の空気は、まだ誰にも見つかっていない。




