第10話 息を止めるオーガ
自分の金で買った規定ブーツは、借り物より少しだけ重かった。
重いぶん、底が厚い。爪先の素材も、前のより硬い。溶けた一足は玄関に置いたままで、これはその隣に並べる予定のものだ。腰の凝固剤の缶も、自分のだ。
ゲート前で、高梨が胸の固定具にカメラを留めた。前のより小さくて、留め具が二つある。手を離しても、画角が揺れない。
「両手、空いた」
「うん」
査定用の区画は、初心者ルートの奥にある。広い部屋が一つ。天井が高く、床は乾いている。壁際に退避線。奥の壁の上に、監視室の窓。
管理員は、前と同じ調子だった。
「中断はこちらからかける。かけたら、その場で全部止めろ。発信機は腰。退避線を越えて、壁際の退避区域へ入った時点で、試験は終了扱いだ」
「はい」
「対象は一体。討伐か、戦闘不能で成立する」
資料は、昨夜のうちに読んだ。今度は先に。
肺がある。身体が大きく、動くと酸素を多く使う。棍棒を持つ。短い距離の、まっすぐな突進が速い。
必要なことは、それで足りた。
高梨と決めたことも少ない。突進が来たら二人とも右へ。合図は「横」。光は高梨が置く。俺の退けた酸素は、上へ送る。天井が高いのは俺のためではないだろうが、都合はいい。
◇
「放課後ダンジョン配信、ヒヨリDIVEです。今日は、うちの相方と、初心者区画の卒業査定を受けます。管理側の許可を取った公式枠です」
《相方きた》
《酸欠ニキの卒業試験》
《呼吸税、ボスからも取れるのか》
「相手はオーガ。以上」
奥の扉が開いた。
足音が先に来た。一歩ごとに床が鳴る。
人の形をしている。ただ、大きい。頭が扉の上の枠に近い。右手に、俺の腿ほどの太さの棍棒。それが床を引きずって、乾いた音を立てていた。
胸が、上下している。
息をしている。
「送り先は上。天井」
「上、了解。……人はいない。光、置くよ」
高梨の光球が一つ、部屋の中ほどに浮いた。照明用だ。オーガの輪郭がはっきりする。
距離は、まだある。
オーガが、一歩、こっちへ来た。棍棒の先が床を擦る。もう一歩。急がない歩き方だった。急ぐ必要がない、という歩き方だ。
顔の前だけを選んだ。
鼻と口の手前、両手で囲えるくらいの空気。その中から酸素だけを選り分けて、上へ流す。ゴブリンのときと同じ感触だ。相手が大きいぶん、顔の位置は分かりやすい。
手応えはあった。天井近くの測定器が、短く一度鳴る。送り先の側だ。
オーガの胸が、大きく膨らみかけた。
途中で、止まった。
鼻の穴が狭まって、口が結ばれる。膨らみかけた胸が、そのまま固まった。
――吸わない。
次の瞬間、床が鳴った。
棍棒を引きずる音が消えて、足音だけが速くなる。まっすぐ、こっちへ。
「横!」
高梨の声と同時に、俺は右へ跳んだ。高梨も右へ。事前に決めた側だ。
高梨の光球が、オーガの顔の、俺たちと反対の側へ滑った。オーガの頭がそっちへ振れる。突進の線が、わずかにずれた。
棍棒が、さっきまで俺が立っていた床へ落ちた。
乾いた音。床の表面が削れて、細かい埃が舞い上がる。
風が来た。棍棒が起こした風だ。俺の風より、ずっと荒い。
跳ね上がった埃が、新しい靴の爪先にかかった。底は床を噛んで止まった。滑らなかった。
遅れて、膝が震えた。
「……大丈夫?」
「うん。そっちは」
「カメラ、生きてる」
《酸欠、効いてない?》
オーガは、俺たちの横を抜けて、壁の手前で止まった。
振り返る。
口は、閉じたままだった。
◇
呼吸するから効く。そう思っていた。
あいつは今、低酸素を置いた場所を息を止めたまま抜けて、抜けた先でも、まだ吸っていない。
「胸、動いてない」
高梨が言った。俺と同じところを見ている。
「……止めてる」
スライムは、息をしなかった。
こいつは、息を止めているだけだ。
効かないんじゃない。効くと分かって、吸っていない。
部屋ごと薄くする気はない。高梨が、この部屋で息をしている。届きもしない。
顔の前だけなら、届く。
ただし、吸わせないと意味がない。
顔の前に置いた範囲は、あいつが走り出した時点で手放していた。走る顔は追えない。止まった瞬間か、こっちへ来る直線の上だけだ。
資料には、肺があるとしか書いていなかった。止められるとは、書いていない。
オーガが、また構えた。棍棒を持ち上げる。肩が上下しているのに、口は結ばれたままだ。
「もう一回、走らせる」
「光で引く?」
「引いて。俺たちから離す方向に」
高梨の光球が、オーガから見て俺たちと反対の壁際へ飛んだ。明るく、一度だけ瞬く。
オーガの頭が動いた。棍棒を振り上げて、光のほうへ走る。
棍棒が壁を叩いた。壁の表面が砕けて、また埃が舞う。光球は、当たる直前に消えていた。
振り向いたオーガの肩が、さっきより大きく上下している。口の端が開きかけて、また閉じた。
余裕が、減っている。
もう一度、光で引いた。
今度は途中で向きを変えて、光ではなく俺のほうへ来た。読まれている。
二度右へ跳んだぶん、壁が近い。今度は、俺が言った。
「横!」
右へ。高梨も右へ。棍棒が、さっきまで俺の肩があった高さを通って、壁に食い込んだ。砕けた壁の欠片と埃が、オーガの足元に落ちる。
抜くのに、一拍かかった。その一拍のあいだに、オーガの口の端が開いて、閉じた。
吸いたい。吸えば効くと思っている。だから、吸わない。
高梨が退避線のぎりぎりまで下がって、俺と目を合わせた。息が上がっているのは、こっちも同じだった。
◇
埃は、床の削れたところと、あいつの足元の壁際に溜まっていた。低いところで、ゆっくり漂っている。
選ぶな。
実技場で覚えた感触を、そのまま使う。埃の混ざった空気を、まとめて、弱く。オーガの顔の高さへ向けて流す。
薄い煙のような流れが、床から持ち上がって、あいつの目のあたりを横切った。
空気は映らない。埃は映る。
オーガの目が細くなる。頭を振る。棍棒の先が、狙いを失ってぶれた。
これだけでは倒れない。倒れる必要もない。
「高梨、怒らせて」
「……怒らせる?」
「吐かせる」
一秒もかからなかった。
「了解」
高梨は斜め横、退避線の近くから、光球を三つ出した。
一つを、俺から見て向こう側の頬の横で強く光らせる。もう一つを、反対側で瞬かせる。三つ目を、まっすぐオーガの前を横切らせた。
「こっち! 遅い!」
配信の声ではなかった。短くて、高い。
オーガが振り向く。棍棒が、横切った光へ叩きつけられた。
空振り。
光は消えて、棍棒だけが床を削る。埃が、また舞った。
俺は、その埃も流れに乗せた。目の高さへ。
息を止めて走って、目を塞がれて、二度外した。
オーガが、天井へ向けて口を開けた。
声が、部屋を揺らした。
咆哮のあいだ、俺は何もしなかった。
肺の中には、手が届かない。届いたとしても、やらない。
待つ。
声が、途切れた。
大きく開いた口が、閉じる前に、息を吸う形になる。胸が膨らみ始める。
――今。
鼻と口の手前。狭い空気。そこにある酸素を、上へ。
オーガが、吸った。
深く、長く。息を止めて動いたぶんを、一度で取り返そうとする吸い方だった。
すぐには、何も起きない。
棍棒を持ち直して、一歩、こっちへ来る。
二歩目が、重かった。
膝が沈んで、棍棒の先が床に触れる。オーガの顔が、俺たちのほうではなく、部屋の奥へ向いた。逃げる、というより、別の空気を探す動きだった。
「光、置く!」
高梨の光球が、オーガの顔のすぐ前で強く光った。行こうとした方向に。
オーガの頭が、反射で戻る。
俺は顔の前の空気を追い続けた。動くたびに、狭い範囲を置き直す。
重い。走られたら無理だった。膝が沈んだ今なら、追える。
もう一度、吸う。また、吸う。
次に吸ったとき、棍棒が手から落ちた。床で鈍い音がして、転がる。
その次で、膝がついた。
両手が床につく。肩が大きく上下しているのに、身体は持ち上がらない。
「戦闘不能。判定成立、解除しろ」
監視室からの声が、部屋に響いた。
俺は手を離した。
顔の前だけの狭い範囲だったから、戻りは早い。薄くした空気が周りと混ざって、オーガの胸が、少しずつ普通の速さに戻っていく。
起き上がる気配は、なかった。
◇
最初に確かめたのは、靴の底だった。
削れていない。噛んだ跡だけがついている。
高梨は胸のカメラを指で押さえて、それから俺を見た。
「……生きてる。カメラも、私も」
「うん」
高梨が、遅れて笑った。前と同じで、配信中なのを忘れた笑い方だった。
管理員が入ってきて、オーガの状態を確かめ、回収班を呼んだ。腰の発信機が短く鳴る。成立の合図だ。
「戦闘不能で成立。討伐記録として登録する。戦闘中の安全違反なし。二名とも、初心者区画の卒業査定は合格」
それだけ言って、記録票に何か書いた。
「最初の手が破られたあと、退避の手順を崩さなかった。互いの位置と役割も、最後まで保っていた。……次の区画の申請資格が付く。以上だ」
講評は、それで終わりだった。
高梨が、俺の前へ拳を出した。
何をするのか分からず見ていると、少しだけ眉を寄せた。
「こういうときは、やるの」
仕方なく拳を当てた。
硬い音はしなかった。
それでも、合格したことが、そこでようやく本当になった。
◇
高梨は、退避線の内側に立ってカメラの向きを直した。
「報告します。オーガ、戦闘不能で判定成立。うちの相方と二人で、初心者区画を卒業しました」
《最初の酸欠、素通りされて焦った》
《砂と光で怒らせて、吐かせたのか》
《光球の人が声出させてなかったら、吸ってないだろあれ》
《呼吸税、滞納分をまとめて徴収された》
《二人とも卒業おめ》
「相方から、何かありますか」
画角の外にいる。
今度は、間が空く前に出た。
「……次は、普通に息をするやつがいい」
《贅沢言うな》
「だそうです。以上です」
高梨は、そこで切った。
◇
家に戻って、靴を玄関に並べた。溶けたやつの隣。
端末が震えた。
クラスの連絡グループだった。誰かが貼った切り抜きの下に、一文だけ。
『この《空気》、久住じゃない?』
名前は、出していない。顔も、学校も。
返事は、まだ誰もしていない。既読の数字だけが、増えていく。
一つ増えるたびに、明日の教室が近づいてくる気がした。
出したのは、能力の名前と、戦い方と、高梨の隣にいたことだ。近くにいる人間には、それで足りる。
画面の中では、最後まで相方だった。
画面の外で、俺の名前が出ていた。




