幕間4:卑怯の定義 -後編-
ルーカスは今、アリステアの部屋にいる。
いつも綺麗に片付けられ、ものが少ない彼の部屋は、作業をするのに向いている。
アリステアは迷惑そうな顔をしているが、家主はルーカスなのだから表立って文句は言えないようで、黙ってルーカスが机の上に書類を散らかすのを眺めていた。
2人の手元には紅茶のカップが一つずつある。もうルーカスが淹れても、アリステアは何も言わなくなっていた。
「最近さ、少しずつ……エルシオンの空気そのものが変わってきたよな」
ルーカスは目線で、びっしりと書き込みがされた書類を示す。
その筆跡は、すべて自分のもの。エフィと出会ってから今まで、彼女が変えてきた運命のことを、自分なりの視点で綴ったメモだった。
「変わってきたって?」
「前ほど、予言の『強制力』を感じない気がするんだ」
自分で書いたその文字を、指先でなぞる。
最初に、エフィの手によってルーカス自身の運命が変わったこと。
この時は、偶然までもがヤードに味方しているかのように、こちらを追い詰めてきた。
「ほら、俺の時はエフィの上着がちょっとめくれただけで、ヤードに見つかったとかあっただろ」
「……そうだね」
アリステアの表情が、真剣なものへと変わる。
ルーカスは次の項目へと視線を移した。
反予言派の死傷を阻止し、ナターシャを救ったこと。
この時は、ヤードが油断していたこともあって、ドミニクさえ突破してしまえば案外スムーズに事が進んだと感じた。
その次の、結果的に情報屋が逃げる手助けをしたこと。
これも紆余曲折はあったものの、欲に目が眩んだバウンティハンターたちは、情報屋を捕まえることには大きくこだわりがなかった。結果、ルーカスが囮になることで予言を変えることができた。
頷いたアリステアは次の書類、エフィの兄の鍵を奪取しようとした時の文に、視線を走らせた。
「強制力自体が無くなったわけではないと思う。ただ、最初のときみたいな、露骨な世界からの妨害は少なくなっている。それは間違いないね」
彼の表情が、注視していなければわからないほど、ほんの僅かに曇る。
アリステアは、自分のためにエフィに兄の手がかりを手放させたと、責任を感じているのだろう。そう思った。
「極めつけは、この前の飛行船事故。エフィは蒸気機関のエンジンに魔力を流していただけ。運命を変えたのはミラと乗っていた人々なんだろうと、僕は思う」
アリステアが紅茶を一口飲んでから、続ける。
「人の意思というものが、大きく予言を左右している。ドミニクのように強固な意志で予言を成就させようとする者がいれば、変えるのは難しい。変えたいと願えば——その逆になる」
「だよな。……エフィ以外にも、運命は変えられるんだ」
エルシオンでは、予言に従って物事が動く。長い年月、そういう枠組みで生きてきた街だ。
反予言派たちや、ルーカスやアリステアがいくら足掻こうと、ずっと予言は破れなかった。予言に抗おうとしても無駄——そんな空気がこの街を支配していた。
それは今、変わろうとしている。
「エフィがひとつの歯車を変えたから、連鎖的にその影響が広がっていってる。そんな風に思うんだよ」
「うん。きっと、これからもエフィはエルシオンを変え続ける……だろうね」
そう言ったアリステアの瞳には、どこか迷いの色があった。
(アリスは……)
予言を変えるべきだと思っているのか、それとも遵守すべきだと思っているのか。時々、彼のことがわからない。
そんな風に、彼を見ながら思考に沈みそうになっていた時——
「兄さん、いる?」
扉がノックされた。ミラの声だ。アリステアが無言で席を立ち、扉を開ける。
外には、ミラとナターシャの姿があった。ここはアリステアの部屋なのに、彼女たちの視線は椅子に座ったままのルーカスにだけ、真っ直ぐに注がれている。
「ねえルーカス。貴方、昨日の夜、エフィをお姫様抱っこで部屋まで運んだって本当なの?」
紅茶を飲んでいたルーカスは、予想外の質問にむせた。状況はあの時——アリステアにエフィのことをどう思っているか聞かれた時と似ている。
「なっ、なんでそれを知ってるんだ!?」
叫んでから、目の前の男が報告したのだろうと気付き、アリステアを睨む。彼はふいっと視線を逸らした。
「それで? わたし、エフィさんを運んだだけにしては戻ってくるのが遅かったって聞いたんだけど?」
「誤解だからな!? 遅かったって言っても、別に……」
ルーカスは何もしてない、と続けようとした。しかし頭に過ったのは昨夜のエフィの、あまりにも無防備な姿だった。
何もしていないのは事実なのに、邪念があったのは事実で——否定の言葉が口元まで上がってこなかった。
急に尻すぼみになったルーカスを見て、ミラとナターシャの目つきが鋭くなる。
「そもそもルーカスは、エフィのことをどう思っているのかしら。あ、これは女性としてどう思っているかを聞いているのよ?」
「うっ」
ナターシャは少女のように頬を染めながらも、逃げ道をしっかり塞いでくる。あの時のアリステアとは違う、強敵だった。
「ルーカスはこの前、『妹みたい』って言ってた」
「おいアリス!!」
ふたりの時の話を暴露され、ルーカスは思わず叫ぶ。
「妹『みたい』ね。ふーん?」
ミラがニヤニヤしている。兄をからかって遊ぶような女の子に育てた覚えはないのだが。
「ルーカス。私たちはもう予言に縛られていないのだから、恋くらい自由なのよ。誰かを好きになっていいの」
「アリステアさんと、ナターシャさんもね?」
ミラに後ろから攻撃されて、ナターシャはますます赤くなっていた。アリステアは無表情を崩さないが、落ち着かなそうに髪紐をいじり始める。
「わ、私だって、いい人がいれば……その」
もごもごと言ったナターシャは、ぱっと両手で顔を覆ってしまった。
(誰かを好きになっていい、か)
心の中で、ナターシャの言葉を反芻する。
咄嗟に思い出したのは、墜落した飛行船の甲板で抱き上げたエフィの顔。
(俺は……)
胸に手を当てる。
生まれて初めての気持ちには、とっくに名前がついている。そんな気がした。




