1-7:善良な紳士と迷子のお嬢さん
ざざ、と波の音が一定のリズムで聞こえてくる。今は使われていない、寂れた港の一角。エフィたちは積み上げられた空の木箱の陰で、じっと身を潜めていた。
空はもう、茜色に染まっている。
吹き付ける冷たい潮風に混ざって、無慈悲な靴音が響く。じっくりと何かを探すように、立ち止まっては近付いてくる。すぐ近くにあるルーカスの表情は固い。
隣の木箱の陰を、覗き込む気配がした。
(見つかっちゃう……!)
わずかに回復していた魔力を駆使して、目眩ましの魔法をかける。目眩でよろけたエフィの体をルーカスが支えるのと、ヤードがこちらを見たのがほぼ同時だった。
エフィたちは呼吸すらできず、停止する。ヤードと至近距離で目が合ったが、彼はこちらに気付かずそのまま歩き去った。
その足音が完全に消えてから、ふたりは荒く息をした。
「エフィ、助かった。ありがとな」
「大丈夫。でも、もう魔力がほとんどなくて……」
言葉を言い切れなくて、俯いた。魔法以外にエフィが貢献できることなど無に等しい。真面目に魔法の訓練をしてこなかったことを、今さら後悔する。
「それって、休めば回復するのか?」
「普段なら、すぐ回復するよ。でもエルシオンではゆっくりとしか回復しないみたい」
「なるほど。やっぱりエフィは、こことは別の場所から来たんだな。……さっきの、驚いただろ」
「私のローブがバレて、見つかっちゃったこと?」
ルーカスが頷く。
「エフィのせいじゃないぞ。ここは、そういう仕組みになってるんだよ」
あの時のように、今後も世界は偶然を装って運命を遂行しようとしてくるだろう。それに、ほとんど魔法が使えないままで抗うことなどできるのか。
答えが出ない。エフィは口を閉ざし、茜色を反射する海を眺めていた。
「ま、いいこともある。運命の通りになるなら、アリスは無事だ」
ルーカスも、エフィに倣って海を見ているようだった。波が埠頭に打ち付けている様は、どうしてかずっと見ていることができる。
このまま、明日を迎えることができればいいのに。それが難しいとわかっているから、なかなか沈んでいかない太陽を睨んだ。
「なあ」
隣から、場違いなほどに明るい声が聞こえた。
「エフィはどんな魔法が使えるんだ?」
投げられたルーカスの問いは予想外のもので、目を瞬かせた。
彼はただ、沈黙を紛らわせるために何となく口にしたのかもしれない。それでも、ひとりきりだったエフィを知ろうとしてくれようとする、その姿勢が嬉しかった。自然と微笑みが浮かぶ。ずいぶん久しぶりに笑った気がした。
「私は光属性だから、光や結界を扱うことができるよ」
「光か。カッコいいな」
ルーカスがニヤッとした。何となく、彼が魔法使いだったら光属性だろうなと思った。いつも明るい、みんなを引っ張るリーダーのような人。兄に似ていると、改めて思う。
「目眩ましの魔法とかさ、すごく便利だよな。ファンタジーだけど、化学的な知識も使ってるし」
「化学……?」
聞き覚えのない単語に、首を傾げる。ルーカスが琥珀色の目を丸くした。
「え、化学知識なくやってたのか? マジか……いや、こことは違う場所だもんな、そういうこともあるか」
ルーカスは驚きつつも、納得してくれたらしい。エフィに向き直る。
「光って、真っ直ぐ進むんだよ。それが当たることで、初めてモノが見えるんだ」
先程までくっきりと見えていたふたり分の影は、日没と共に周囲に同化し、消滅しつつあった。完全に夜が訪れれば、ルーカスの顔も見えにくくなる。
彼が言っているのは、感覚的には当たり前のこと。だけどそれを言語化することは、エフィには目から鱗だった。
「君の目眩ましの魔法は、通常直進する光の道筋を歪めて、錯覚させてるんだと思う。多分な」
「この街の人は、そんなことまでわかるんだね」
「まあな。とはいえ、魔法の凄さには叶わないさ。だって生身の人間が、特別な力を使うんだぞ。凄いことだろ」
エフィはぐるりと視線を巡らせた。この街では歯車が絶えず動き回っている。故郷よりもずっと、文明や学問が進んだ場所なのだろう。
「魔法だって、万能じゃないよ。自然の力を借りなきゃいけないから、私の場合――」
エフィはすっかり沈んでしまった太陽へと、手を伸ばす。
「光が弱くなるほど、効果が悪くなる……」
語尾はさざ波の音にかき消されて、途切れた。
しばらく、エフィもルーカスも口を開かなかった。黙ったまま、隣にいる人の表情を盗み見る。彼は顎に手を当て、深く考え込んでいるようだった。
運命は必ず、ルーカスを捕らえに来る。なのに、肝心のエフィは時間的にも魔力的にも満足に魔法が使えない。追い詰められた状況を打開する方法が見つからなくて、ぎゅっと目を閉じた。
「……なあ」
辺りがすっかり暗くなってしまってから、声を上げたのはルーカスだった。
暗い空の下では、彼の表情は見えにくい。
「次に見つかったら、エフィだけでも逃げてくれ。街中には街灯が――光がある。一発くらいなら魔法も使えるだろうし、逃げきれるだろ?」
闇に沈む港の中で、彼の声はやけに強く響いた。
「駄目だよ、それじゃルーカスが……」
「いいから。俺はさ、運命を変えたいと思った。だけどそれは、アリスや君を下敷きにしてまでするべきことじゃないんだ」
ルーカスの声は、凪いだ海のように静かだった。彼の言いたいことは理解できる。エフィが彼の立場でも同じことを言っただろう。
至近距離で、琥珀色の目と視線が交わる。その瞳に宿る光は、内面の揺れを隠しているように見えた。
エフィは大きく息を吸う。潮の香り、夜の冷たい空気が、頭を冷静に保ってくれる気がした。
「あのね、ルーカス。ここまできて見捨てられないよ」
そう言って、表情を緩めた。彼が強固に意思を決めてしまっているのなら、こちらからは何も言えなかった。でも、きっと違う。
彼の本心を暴くように、顔を覗き込む。
「拾った動物は最後まで面倒を見ろって、兄様が言っていたから」
一拍、彼からの返答がなかった。ルーカスはぽかんとした顔でこちらを見る。その後、吹き出すようにして笑った。
「おいおい、俺はペットかよ!」
彼らしい空気が戻ってきたことに、エフィは胸を撫で下ろした。
「それに私、ルーカスがいなかったら、ひとりで見知らぬ場所を彷徨うことになっちゃうよ」
「おっと、迷子の、しかも女性を放置するなんて、善良な紳士の風上に置けない行為だな」
ルーカスが立ち上がる。こちらに向かって、躊躇わずに手を差し出す。
「迷子のお嬢さん。今日が終わるまで、俺に着いてきてくれるか?」
エフィはふらつく足を叱咤して立ち上がる。
「うん、もちろん!」
ルーカスの手を取った瞬間を待っていたように、唸りを上げて強い海風が吹いた。長いプラチナブロンドの髪が靡く。風に揺らされ、エフィたちの身を隠していた空の木箱が傾ぎ、倒れた。
派手な音が、静かな港に響く。
「何の音だ!?」
続けて、大声と足音が耳に届いた。
また、運命との戦いが始まる。
エフィとルーカスは顔を見合わせて頷き、夜の街へと走り出した。




