幕間3:過ぎ去った時間 -前編-
エフィがエルシオンで目覚める、2年ほど前のこと――
「エフィ、後のことはよろしくね」
母の優しい声に、エフィは黙って頷いた。父が手を振る。大きく手を振り返した直後、玄関扉はばたんと音を立てて閉ざされた。
差し込んでいた光が途切れ、家の中は薄闇と沈黙に包まれる。
しばらく玄関扉を見つめてから、
「……よし」
エフィは踵を返して、リビングへと向かった。自分で選んだお気に入りのエプロンを着てキッチンに立ち、いつも通り朝食の材料を並べていく。野菜を手にしてから、思わず苦笑いを浮かべた。
(兄様は野菜が嫌いだけど、食べて欲しいから……ごめんね!)
見た目でバレないよう、丹念に微塵切りにしてから、スープに投入する。こういう裏工作にも、もうすっかり慣れてしまった。
兄――エリアスは、あちこちの魔法機関から引っ張りだこの、天才魔法使い。両親は兄が魔法の仕事に専念できるよう、スケジュールの調整や社交を行っていて、家を空けがちだった。
(私が兄様のためにできるのは、このくらいだもん)
そう思えば、毎朝の役割も嫌いではなかった。
エフィが朝食の準備を終える頃には、山の頂きから太陽が顔を覗かせていた。兄はまだ起きてこない。エフィはどすどすとあえて音を立てて2階へ上がり、ノックもせずに兄の部屋へと突入する。
目の前に、魔境が広がった。よくわからない大量の魔法グッズで、足の踏み場もないほどに埋め尽くされている。魔法で空中に固定したベッドで、エリアスは掛布に包まるようにして眠っていた。
(そんな魔法が使えるなら、部屋を片付ける魔法でも使えばいいのに)
エフィは呆れつつも、空中の兄に近寄る。
「兄様!」
大きめに呼びかけるが、返答はない。むしろエリアスは寝返りを打ち、可能な限りエフィから遠ざかろうとする。今朝も、起きるつもりは全くないらしい。
む、と唇を尖らせながら、エフィは魔法グッズたちを踏み越え、カーテンを勢いよく開けた。金色の朝日が部屋の中を照らす。それから、兄の掛布を引っ剥がした。寒いのか、ますます彼の体が丸くなる。
「兄様ってば!」
「んー」
多少の反応はあるが、エリアスはもそもそと芋虫のように蠢くのみで、起きる気配はない。
「もうっ」
エフィは息を吐いて、最終手段を使うことにした。
一度自分の部屋に戻り、棚からひとつの植木鉢を取り上げた。にやっと笑ってから、再び兄の部屋へ突入する。
「起きないなら、これ、引っこ抜いちゃうからね」
言いながら、植木鉢の花を掴む。軽く抜こうとしただけで、魔力の波動が放たれ、広がった。この世のものとは思えない絶叫が部屋を埋め尽くす――寸前に、兄はがばっと起き上がった。エリアスの、空と同じ青色の瞳が、悪い顔をしたエフィを捉える。
「起きてる! 起きてるから、それだけは勘弁してくれ!」
「勘弁してほしいのは私だよ! これ、私にもダメージが来るんだから!」
「……ご、ごめん。ほら、寝落ちするまで新しい設計図を作っててさ、夜遅かったんだ」
エリアスが苦笑いをしつつ、シーツの上に転がっていた1枚の紙を拾い上げ、見せてくる。設計図とやらの素晴らしさはエフィには全くわからないが、彼の下敷きになってぐちゃぐちゃになっているのはわかる。
「あのね、ベッドでやったら寝落ちするに決まってるでしょ」
「はい……」
エリアスはしょぼんとしながら、ベッドから飛び降りてエフィの隣に来てくれた。
(兄様の研究が凄いのは、わかるけど)
思いながら、部屋にあふれる魔法グッズを眺める。持ち歩けるのに倉庫程度には中身が入る鞄だとか、足が早くなる薬だとか。ガラクタの中に、時々人の役に立つものが紛れている。
(そういうものを作れる兄様は、素直にカッコいいんだけどな)
妹としては、少しは自分の生活の心配もして欲しかった。
マンドレイクを置いてから、エフィはエリアスと一緒に1階に降りる。兄が顔を洗っている間に、さっとスープを温め直した。
ふたりきりで朝食を摂っている途中、エリアスはまじまじとスープを見つめて、何か言いたげにしていた。
「なに?」
「いや、これ……野菜、入ってないよな?」
「自分の目で見たものが真実だと思うよ」
エフィは淡々と返す。エリアスは器の中をじっと見つめていたが、結局何も言わずに口にする。
「……魔法学校でね、クラスメイトの女の子に『お兄さん紹介して!』って言われるの。実物はこんなんなのにね」
「実物もカッコいいからな」
エリアスがにっと笑った。
「うん、残念なイケメンってやつだよね」
「酷い!」
エリアスが大袈裟に嘆いているのを見て、エフィもクスッと笑ってしまった。
実際、兄は黙っていればカッコいいと思う。黒髪に深い青の瞳。細身ですらっとした体つきも相まって、見る者に落ち着いた印象を与える容姿をしている。
(喋ると一気に台無しなんだけどね)
心の中だけでため息をつく。
「外ではちゃんとしてね。兄様はみんなに期待されてるんだから」
「わかってるよ。お兄ちゃんの活躍、ちゃんと見とけよ?」
「はいはい」
エフィは彼の言葉を軽く流した。
これが、ステラシエル家の日常だった。




