3-17:エフィの覚悟
ナターシャが腕を小刻みに震えさせながら、慎重に刃を下ろしていく。隣にいたエフィはそれをハラハラと見守った。ナターシャの刃が鮮やかな赤色の――人参を、斜めに切断する。彼女は大きく息を吐いて、こちらを見た。
「できたわ! ね、これでいいわよね?」
彼女の頬がほんのりと色付き、瞳はいつになくキラキラと輝いている。こうしていると、まるでナターシャの方が年下のような錯覚をしてしまいそうになる。
「う、うん……」
達成感を漲らせているナターシャに対して余計なことを言うことができなくて、エフィは言葉を濁した。
今、ルーカスの家のリビングにいるのはエフィとナターシャだけだった。
あの鍵の争奪戦の後――ルーカスに支えられつつ帰宅したエフィは、真っ先にアリステアの傷をすべて治療した。かなり体力を消耗しており意識が朦朧としていた彼は、その後倒れるように眠ってしまった。
部屋のベッドに運んだが、1日経っても彼はまだ目を覚まさない。
ルーカスとミラは兄の箱から出てきたブレスレットに興味津々で、ふたりでルーカスの部屋に籠っている。実験だか観察だかをしていて、食事の時以外は出てこない。
という訳で、エフィとナターシャで食事の準備をしているのだが、ナターシャは大人のお姉さんといった雰囲気とは裏腹に、壊滅的に不器用だった。切り分けた食材の大きさがまちまちなのはいいとしても、包丁を使う手つきが非常にたどたどしく、一瞬たりとも目を離せない。
「……ごめんなさい、迷惑をかけているわよね」
エフィが手を止めてじっと見つめていることに気付き、ナターシャが項垂れた。
「ううん。今まで料理をしたことないんですよね? なら、仕方ないですよ」
「ミラはすごいわね。小さいのに、ちゃんと料理ができるのよね」
ナターシャが呟きながら、包丁を慎重に動かす。ミラがよく「料理は薬品の調合と一緒。材料を均一に切って、分量通り混ぜて、変化を見ながら手を加えるだけ」などと言っているのを思い出して、エフィは曖昧に笑った。
「私も頼りきりにならずに、これから精進するわ……」
ナターシャが星府塔で働いている時は寮生活で、食事も付いてきていたらしい。だから自炊をしたことがないのだという。
それにしたって危なっかしいが、エフィは彼女の何かしたいという気持ちを尊重し、見守ることにした。
(誰だって、最初はできないもんね)
ナターシャの真剣な表情を見ながら、そう思った。
しばらく、包丁の不規則な音が響く。たどたどしいながら、少しずつその音は感覚が短くなっていく。
「ねえ、エフィ」
口火を切ったのはナターシャだった。彼女の視線は包丁に落とされたままだ。その横顔からは、先程の明るい雰囲気はすっかり消え失せている。エフィは知らず知らずのうちに背筋を伸ばしていた。
「あの地図……どこのものか、知りたい?」
ナターシャの問いに、目を見開いた。その口振りだと、まるで――
「ナターシャさんは知ってるんですか?」
聞き返すと、そこで初めてナターシャはこちらを見た。包丁の音が途切れる。元々色白だが、今はひどく血色が悪いように思えた。
「……ええ」
彼女の重々しい肯定が、静かに空間に溶けていく。
「この地図の場所は……」
ナターシャは核心を口にしかけて、途中で息を止めた。
「いいえ、エフィ、これを知ったらきっと戻れないわ。それでも、知る覚悟はある?」
言いながら、ナターシャは包丁を振り下ろす。刃が彼女の指先を僅かに傷付け、赤いものを生み出した。ナターシャは顔をしかめ、流水で手を洗う。
「……わからない」
言葉が溢れる。エフィは咄嗟に口を押さえた。そうしても、出してしまった言葉は消えない。ナターシャの深紅の瞳が、エフィを優しく見つめている。
(わからない……か)
自分の中だけで繰り返してみる。
兄との日常が失われ、エルシオンに来てしまった、一番最初――追われるルーカスを助けたのは、兄に似ていたからと、一方的に攻められる彼を見過ごせなかったから。その後、彼らと同行することを決めたのは、兄を探したい一心だった。
その兄の手がかりが目の前にあるのに、エフィは躊躇いを覚えている。
ナターシャの手元にある、大小さまざまな野菜。最初はひとつだったのに、今は色々な形状をしている。それはまるで自分のようだなと思った。
振り向いて、誰も着席していないリビングのテーブルを見つめる。ほんの少し、寂しさを覚えた。
(今を、壊したくない)
いつの間にかこの場所が、エフィにとってもうひとつの帰る場所のようになっていた――
「でも、兄様のことから逃げたくはないんです」
自分に宣言するように告げる。
夢のように静かな時間を、ただ守りたかった。せめて、眠っている人が目覚めるまでは。
「もう少ししたら、改めて聞かせて下さい」
ナターシャが微笑みながら頷いてくれる。
穏やかな空気のまま、ふたりで料理を続ける。
ナターシャに後片付けを任せ、エフィはルーカスの部屋の扉をノックした。
「ルーカス、いる?」
「ちょっと手が離せないんだ。入ってきてくれ」
エフィは2人分の食事が乗ったトレイを傾けないように、慎重にノブを回して扉を開ける。
ルーカスの部屋に入るのはこれが初めてだ。思わず棚に陳列されている蒸気機関のパーツだとか、奇妙な形の工具だとかに目がいってしまう。
片付いているとは言い難い部屋だが、とてもルーカスらしい。迷子になりかけていた気持ちが、少しだけ解れた気がした。
「ようこそ、俺の城へ」
一番奥の椅子に、ルーカスが座っている。手が離せないのか、彼は振り向くこともしなかった。
「面白いものがいっぱいあるね」
「あんまり見ないでくれ。女の子が喜ぶものじゃないぞ」
「そう? 私はルーカスっぽくて面白いなって思うけど」
笑いながら視線を逸らし、エフィはルーカスを見た。彼は机に向かいながら、兄の箱から出てきたブレスレットを検分している。その隣の席では、ミラが突っ伏すようにして眠っていた。小さな肩に毛布が掛けられている。
「悪いけど、その辺に置いといてくれ。そのうち食べる」
ルーカスはやはり、振り向かずにそう言った。その辺がどの辺なのか全くわからないが、とりあえず比較的ものが少なそうなテーブルの端にトレイを乗せる。
「ミラは大丈夫なの?」
「仮眠してるだけだぞ。いつものことだ」
声に反応したのか、ミラが僅かに身動ぎした。
「……ん、ティア……」
ミラの唇から漏れた些細な寝言に、ルーカスがほんの一瞬、ぴくりと体を揺らした。きっと彼のもうひとりの妹の名前なのだろうと、エフィは察してしまう。
強張ったままの彼の肩に、そっと手を乗せた。ルーカスの温かさが伝わってくる。
(ルーカス……)
エフィは目を伏せた。彼もまた、ある日突然、日常を『奪われた』側なのだと、改めて理解する。
「……悪い」
ルーカスはそう言って、肩の力を抜いた。
「少しだけ、そうしていてくれるか」
「うん」
エフィは頷く。何も言わず、ただ寄り添っていた。こんなことでも、いつも助けてもらっている彼の役に立てるのは、素直に嬉しかった。
「……ありがとな。もう、大丈夫だ」
ルーカスがそう言ったので、エフィは一歩後ろへ下がった。
彼は妹からずり落ちた毛布を優しく掛け直してから、作業を再開する。
「これの調査にはまだ時間がかかりそうなんだ。もうちょっと待っててくれ」
そう言うルーカスの声は真剣そのものだ。彼は痛みを抱えながらも、エフィの兄のことを、自分のことのように懸命になってくれる。
力強い姿に思わず気が緩みそうになり、慌てて首を横に振る。
(頼りになるけど、甘えてばっかりじゃダメだよね)
拳をぎゅっと握りしめた。
「わかった。いつもありがとう」
「こちらこそ。女の子の笑顔があれば何でもできるさ」
「はいはい」
彼は振り向かずに作業を進めているが、笑顔を浮かべたのだろうと空気の変化で伝わってくる。
(自分で選んだことだもの。兄様のこと、私が知らなきゃいけない)
ルーカスの広い背中を見て、そう覚悟を決めた。




