幕間1:目覚め
1話の直前、エフィがエルシオンに迷い込んだ時のエピソードになります。
カチッ、カチッ。
一定のリズムで、歯車が回る音が聞こえてくる。微睡む意識の中で、エフィはその音に耳を傾けていた。
「君なら――」
突然、誰かの声が空間に響く。エフィの意識は、その声に釘付けになった。ずっと聞き続けてきた声のように、耳に心地よく馴染む。
「定められた運命を、どう歩く?」
誰かがエフィに話しかけている。凛とした声。しかし、それはどこか、寂しげにも聞こえた。
(あなたは、誰?)
その人に手を伸ばそうとした。しかし体はぴくりとも動かず、それは叶わない。目を開けることもできない。
ただ、エフィはそこにいた。
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瞼の向こうの世界は、明るい。
「んー……もう、朝なの……」
文句と共に、エフィの意識が浮上した。まだ頭がぼんやりしている。長い長い夢を見ていたような気だるさがあるが、内容は霞を掴むように曖昧で、全く思い出すことができなかった。
本当なら掛布にくるまってもう一眠りしたいところだが、兄はエフィが起こさない限り、決して起きてこない。今日は仕事の予定があるから、彼を起こして仕事に送り出さなければ――
「あれ……?」
そこまで考えてから、ふと奇妙な違和感を覚えた。一気に意識がはっきりする。何か、とても大事なことを忘れているような、胸が苦しくなるほどの喪失感。
それに駆り立てられるようにぱっと起き上がり、部屋の中を見回す。いつもの自分の部屋のはずなのに、どこか、何かが違う。
「……うーん?」
違和感の正体がつかめない。首を捻りながらベッドから抜け出す。手早く着替えを済ませてから、部屋を出るために扉を開ける。途端に嗅ぎ慣れない油のような匂いが押し寄せてきて、エフィは顔をしかめた。
兄の部屋をノックもなしに開ける。しかし兄はいなかった。ベッドは綺麗に整えられていて、誰かが寝ていた形跡すらない。
「……兄様?」
エフィは兄を探して、家中の部屋という部屋に立ち入った。しかし兄の姿どころか、家の中に自分以外の気配はない。代わりに、微かに低い地鳴りのような音が響いてくる。聞いたことのない音だった。
「兄様? いないの?」
最後に、リビングまで来てしまった。ここにいて欲しいと祈りながら扉を開ける。
しかし、いつもならソファでだらだらしている兄の姿は、今日に限ってどこにも見つけることができない。
ぞわりと、見えない何かが足元から這い上がってくるような心地がした。
家の中をすっかり探し終わってしまい、エフィはとうとう玄関扉の前にたどり着いた。震える指でノブに手をかけ、そっと押し開ける。
油の匂いと湿度、ゴトゴトと何かが動く音が強まり、思わず目を閉じた。
数秒してから、そろそろと目を開ける。
「――え?」
思わず、声が出た。
目の前には、不思議な街が広がっていた。エフィはぱちぱちと目を瞬かせる。
「歯車の、街」
咄嗟にそんな言葉が浮かぶ。
灰色の壁には歯車と配管が張り巡らされ、休むことなく動き続けては、時折シュッと蒸気を吹き上げていた。
竦みそうになる足を叱咤して、一歩、外へと踏み出した。エフィがいるのは表通りから僅かに奥に入った路地だ。表通りを行き交う人々は、歯車や鎖で飾った服を着ている。
軽く頭を振る。それでも目の前の光景は消えなかった。
(外国の、知らない街みたい……)
呆然と眺めていると、人々がこちらに気付いて、訝しげな視線を向けてきた。エフィのような色鮮やかなローブ姿は、この街では浮いているのかもしれない。
彼らの視線から逃げるように、そそくさと路地へと戻る。
「ここ、どこ?」
呟きに、答える人はもちろんいない。自宅のすぐ外は、美しい平原と森が広がる、ただの田舎だったはずなのに。
これは、夢の続きなのだろうか。
通りをぼんやりと眺めていたら、黒いケープを羽織り、同じ色のヘルメットを被った人物と目が合った。警備の衛兵のようだ。
「ん? お前は……」
衛兵らしき人はエフィに気付き、まっすぐにこちらにに近寄ってきた。無機質な足音が、やけに大きく聞こえた。
「妙な格好だな。おまけに、本を持ち歩いていないようだが?」
「え? 本?」
聞き返すと、衛兵は訝しげにこちらを上から下まで見聞し始める。
応答を間違えたかもしれない。エフィは衛兵の目を盗み、遠巻きにしている人々を見つめる。彼らはみんな、腰の辺りに本を吊るしていた。きっとあれが、衛兵の言う『本』なのだろうと気付いたが、もう遅い。
「まさか、本を――予言の本を、知らないのか?」
「えっと……はい」
嘘をついてもこの場は切り抜けられないだろう。そう思って素直に答えてみたが、衛兵は突然、腕を力強く掴んできた。エフィは顔をしかめる。
「怪しいな。一応、一緒に来てもらおうか」
「え!?」
咄嗟に振りほどこうとしたが、力が強くて上手くいかない。
「離して!」
「そうはいかない。お前の予言を調べさせてもらうぞ」
「予言? 調べるって……?」
訳がわからないまま、エフィを引きずるようにして衛兵が歩き出す。人々は関わらないようにしているのか、こちらを見ることすらしない。
このまま、大人しくついていった方が得策だろうか。そんなことを考えた時だった。
――君なら、定められた運命を、どう歩く?
なぜか、そんな台詞が鮮やかに心に浮かび上がった。どこで聞いたのかはわからない。それを言ったのは、誰なのかも。
しかしそれが、エフィに冷静さを取り戻させてくれた。
「私なら、どう歩くか……」
呟き、周囲を見回す。誰とも目が合わない。
異様だと思った。人々の態度も、衛兵らしき人物の横柄さも、この状況も。このまま従って、いいことがあるとは到底思えない。
エフィは暴れるのをやめた。こちらが大人しくなったと思ったのか、衛兵が腕を引っ張ってどこかへ連れて行こうとする。
(今だ!)
空いている方の手を、さっと衛兵に向けた。
「ごめんなさい!」
エフィの手のひらから眩い光が生まれ、周囲を満たした。目を焼くような光量に、腕の力が緩む。するりと拘束から抜け出し、走った。
「なっ……なんだ、これは!?」
絶句している衛兵になど目をくれず、真っ直ぐに裏通りへと逃げ込んだ。
「待てっ!」
ほどなくして、後ろからばたばたと足音が追いかけてきた。応援を呼ぶつもりなのか、ホイッスルの甲高い音まで聞こえてくる。
(……ここは、なんなの?)
エフィを助けた夢の残渣は、もう既に心の中から消え去っていた。
知らない街の路地を、右へ左へと逃げ回る。
その選択こそが、予言に存在しない『逸脱』であるとは知らないままに。




