7-4:わからない
少女とエフィの間に、沈黙が落ちる。動けないエフィの代わりに、少女が唇を動かす。
「あなたは、誰……ですか」
呟かれた言葉は、ひどく小さなものだった。その眼差し、問いかけはこちらに向けられている。わかっているのに、答えられずにいた。
口の中が乾ききっていて、うまく言葉が出てこない。
(……まさか、ティア、なの?)
ルーカスとミラを呼びに行かないといけない。石畳に張りついたように重い足を気力で動かし、エフィは一歩、距離を詰める。
少女は、怯えるように体を震わせた。
「わたし、探している人がいるんです」
エフィは足を止めた。
「だけど、思い出せない」
少女は自分の手の中に視線を落とした。その時ようやく、エフィは彼女の手に薄紅色の花飾りが握られていることに気付く。少女が髪に着けているものと、全く同じ品。
ミラの、髪飾り。
姉とお揃いだと言った、さっきの彼女の顔が忘れられない。
「ティア」
エフィの唇から、ようやく言葉が漏れた。少女は何の反応も示さず、ただこちらを見つめるばかり。
「貴女が探しているのは、妹じゃないの? だから、その髪飾りを持っているんじゃないの?」
「妹? 髪飾り……?」
少女がたどたどしく、エフィの言葉を繰り返す。手にしていた花に触れてから、自分が着けている全く同じ髪飾りに手を伸ばした。
「わからない。でも、ここに来なきゃいけなかった」
――兄さんと、ティアと、初めてここに来た日。
ミラの楽しげな言葉が、耳の奥に残っている。
「貴女の妹、ミラだよ!」
少女はエフィに背を向けた。彼女の目線は、先ほどエフィたちが買い物をした、あの屋台に向けられている。
「ここで……チュロスを――」
少女の言葉を遮るように、軽い靴音が鳴った。雑踏の中で、息を呑む音がはっきりとエフィの耳に届く。
「……え?」
ミラの声。少女とエフィが同時に振り向く。
手から離れてしまった風船が、空へと舞い上がる。
丸い翠の瞳が、真っ直ぐに少女に向けられていた。夕日に染まる短いストロベリーブロンドは、少女と同じ色をしていた。ふたりは鏡に映した自分自身のように、正面から見つめ合う。
完全な均衡。
破ったのは、ミラだった。
「………………ティア?」
ミラがふらふらと少女に近付く。少女は、ミラをじっと見つめてから――ふいに、後退った。
「来ないで」
少女の声は震えていた。彼女の様子に気が付き、ミラが足を止める。何かに怯えるように、少女は自分の肩を抱いた。かたん、と音を立てて、手の中の花飾りが石畳に落ちる。
「わたしは……」
深緑の瞳は、どこにも焦点が合っていない。
「なんでそんなこと言うの? ティア、一緒に家に帰ろうよ」
ミラが、一歩踏み込む。
「ダメっ!!」
叫び声。ミラが足を止めた。少女の体が、小刻みに震える。
「来ちゃダメ。もうすぐ全部――ミラは……兄さんと、一緒に」
少女の言葉が不自然に途切れる。顔をしかめ、頭を押さえた。
「どうしたの!?」
エフィが声をかけるが、少女は無言で頭を振るばかり。
「もう、行かなきゃ」
ふらふらと、少女はどこかに向かって歩き出す。ミラはその背を見つめるばかりで、動けずにいる。
彼女の代わりに、エフィが少女を追いかけようとした。
足を踏み出した瞬間、少女がぱっと振り向く。今までのぎこちなさが嘘のように、その動きは素早かった。
彼女の手の中にあるものから、強い魔力を感じる——
「来てはいけない」
その言葉が響いた瞬間、体の奥深くで、何かが止まった感覚がした。
「え?」
歯車が、動力を失ったように――
足が急に動かなくなり、エフィはそのまま、うつ伏せに石畳に転がった。
(なに……!?)
まるで体が自分のものではなくなったかのように、どれだけ力を振り絞っても、目線も、指先ひとつたりとも動かせない。
エフィは無様に倒れ伏したまま、ティアが去っていくのを見ていることしかできなかった。
「エフィ!!」
名前を呼びながら、駆け寄ってきた人がいた。どこも動かせなくても、声と背に触れる手の感触から、それがルーカスだとわかる。
(ルーカス、ティアだよ……!!)
言いたいのに、声が出ない。ティアの後ろ姿は、今にも人混みに紛れて見えなくなりそうだ。
(気付いて……っ!)
エフィの祈りが通じたのか、ルーカスが顔を上げて、去っていくストロベリーブロンドの後ろ姿を見た。
しかし、ルーカスは彼女を追いかけなかった。まだ力が抜けたままのエフィを抱き起こし、体を揺する。
「大丈夫か!? 今の子に、何かされたのか?」
ルーカスが言う。エフィはその発言に、目を見開いた。唇が震える。
「な、んで……」
声が、出た。恐る恐る手を動かす。指が曲がった。それに気付き、エフィはぱっと身を起こし、ルーカスの腕の中から抜け出した。立ち上がり、少女の後を追おうとする。
しかし、少女の姿はもう、どこにもなかった。雑踏の中で、エフィはひとり立ち尽くす。
「エフィ?」
ルーカスが訝しげに声をかけてくる。エフィはティアが落としていったミラの髪飾りを、緩慢な動きで拾いあげた。
「あ、髪飾りあったんだな。良かった」
明るい声でそう言うルーカスに、エフィの中で違和感が爆発する。
(なんで、ルーカスは……ティアに気付かなかったの!?)
後ろ姿だけでも、あんなにもミラに似ているのに。
妹を何よりも大事にしているルーカスが、彼女に気付かないはずがない。
その思いが言葉にできなくて、エフィは咄嗟にミラを見た。ミラはまだ、ティアが消えた雑踏の方に目を向けている。
エフィはのろのろとミラに近寄り、その小さな手に髪飾りを握らせた。不安げに揺れる翠の瞳が、エフィを捉える。
「……兄さんには、言わないで」
遊園地の喧騒に紛れてしまいそうなほどの、小さな声。ルーカスには聞こえていないだろう。エフィはぎこちなく頷いた。
(……ルーカス)
心の中だけで、彼の名前を呟く。ルーカスがこちらに近寄ってきて、硬直しているミラから髪飾りを受け取ると、優しく頭に挿し直している。
それだけ見れば、仲睦まじい兄妹の、いつもの光景なのに――
彼がどうしてティアのことを無視するのか、エフィにはまるでわからなかった。




