9.国立西洋美術館
昨日「真中ひかりが移動する」という衝撃の事実が判明し、急いで探す必要性はあまりない事が分かった。そのため、八月から始まる塾の夏期講習や学校の宿題に注力しその合間に調査を続ける事にした。
今回の目当ては上野の国立西洋美術館だ。上野は言わずもがな美術館、博物館のオンパレードなわけだが、国立西洋美術館はその中でも有名作品が目白押しと言えるだろう。モネやらピカソやらが常設展示されている。
私達はJR上野駅の公園口で待ち合わせをした。テラス席のあるカフェや、土産の売っている店を通り過ぎるとすぐに横長の長方形の建物が見えた。
コンクリートで作られたそれは、二十世紀を代表するフランスの建築家、ル・コルビュジェが設計したもので、建物自体が歴史的建造物である。
「外にも彫刻があるよ。『考える人』?」
芝生くらいしかないシンプルな前庭にはロダンの『考える人』と『カレーの市民』などの彫刻がある。
とはいえ、それらが良く見えるかと言えばそうでもない。なぜなら、国立西洋美術館は混んでいたからだ。そこまで有名な企画展をやっている訳でなくとも、そもそも西洋美術は人気なのだろう。
常設展は比較的空いていた。これなら、真中ひかりもいるかもしれない。
中世から順に時代を降りて観ていくわけだが、名前こそ知らなくとも、見た事のあるような絵画がたくさんだ。禰宜まつりは相変わらず「へぇ」と言った顔で絵画を見ていた。
「…絵はあまり好きじゃないのか」
こっそりと禰宜まつりに聞いた。
「普通かな」
興味なさげに禰宜まつりはさっさと行ってしまった。
「いなかったね、ひかり」
「もうここに用はない」
狐はそれだけ言うと黙った。
「お腹空いちゃったから、美術館のカフェに寄って作戦会議しない?」
昼食を取ってから上野に来たわけだが、私も腹が減っていた。幸い席が空いたので、私達はカフェで休憩をすることにした。
「…」
カフェのメニューはどうしてこうも高いのだろう。懐事情を鑑みると、コーヒーしか飲めそうにない。禰宜まつりはケーキセットを頼んでいた。
「飲み物だけで良いの?」
「…甘いものはあまり好きではない」
強がってみたが、本当は何か腹に入れたい。禰宜まつりは私の方を不思議そうに見た後
「守殿くんって、ショートケーキ食べれる?」
「食べられるが」
「じゃぁ、半分食べてくれない?オペラとショートケーキが食べたいんだけど、どっちも食べ切るのは無理そうだから。シェアしてくれたら嬉しいなって」
私は驚いて禰宜まつりの方を見る。こんな親切な人間がいるとは思わなかった。どう考えても気を利かせてくれている。
女性から施しを受けるなど情けなくなるが、禰宜まつりと私の間には経済格差がある。私の身体はガソリン不足でエンストしそうなので、ありがたく好意を受け取ることにした。
「ここは有名絵画が多くあるから、真中ひかりがいると思ったのだが」
「私も」
「西洋美術よりは、日本美術に興味があるのか?」
「えっ…いや、どうだろう、どっちも変わらないと思うけど。そもそも美術自体が好きな感じ無かったよ」
「美術が好きではないのに、絵画を題材に小説を書こうとしているのか?」
「うーん、怪盗って言ったらお宝だからじゃない?それで美術品なんじゃないかなぁ」
真中ひかりがどのくらい美術に関心があるのかというのが、鍵な気がしてきた。
「真中ひかりの美術の成績はどうだった?」
「美術の成績?わ、わかんない。可もなく不可もなくじゃないかな」
「君の方が良いくらいか?」
「私の方が良い…のかな…多分…。守殿くんは?」
「私は学業の成績が良い方だが、美術は苦手だ。筆記はできるが、実技がてんでだめだ」
「あっ…そういえば…」
禰宜まつりが苦笑した。私はかなり絵が下手なのだ。掲示された私の作品は、悪い意味で目立っていた。
「色彩感覚だとかそういうものが全く理解できない。センスに頼らないといけないような科目を、評価の対象に入れないで欲しい」
「あはは、そう言われればそうだね。でも私はそういうので助かってるから、何とも言えないかも」
「前期の課題、モネの睡蓮と北斎の神奈川沖浪裏、黒田清輝の湖畔だったよな?何を選んだ?」
「モネ。さっき見たのとは少し違ったけど…」
「モネの睡蓮は連作でたくさんあるから、ここにあるのはその一枚だ」
「へぇ、案外いっぱいあるんだ」
それを聞いた狐は、禰宜まつりの膝の上で「ふむ」と言った。
「真中ひかりもその三つの絵画の話をしていた気がする」
「そうなのか?」
「好きなのに思ったより上手く描けなかった…とも言っていた気がする」
「何処で見たとか聞かなかったか?」
以前見たというのは、映像や写真だろうか。まさか本物を見たというのであれば、既に一度絵画を見に美術館へ行っていることになる。
昨日の考察だと、一度行っている場所に行っているかもしれないし、趣味で美術館に自ら足を運ぶのであれば、美術に興味関心があり詳しいとの裏付けが取れる。
「よく覚えておらん」
「他にどんな話をしていたか思い出せないか?」
狐が真中ひかりの悩みや心残りをきちんと覚えていれば、こんな回りくどいことをしなくて良い。思い出せ、思い出せ…と私は念じた。
「…そうだな…もっと絵が上手く描ければ良いのに、とかか?」
「課題の話ってこと?美術の課題が上手くいかなくて悩んでたのかな?」
「真中ひかりは美術に詳しかったという事か?」
「我から見れば、モネだのなんだのという今日見た絵画には全く馴染みがない。知っているだけで、詳しいような気がする」
真中ひかりが美術に詳しいかは分からないが、学校の話の中で美術の話が出た事は確かだと分かった。
運ばれてきたショートケーキを、禰宜まつりは半分に切った。
「はい、半分あげる」
「半分ももらえない。余った分だけで良い」
「さすがに食べかけは悪いからいいよ」
「せめて、苺は食べたらどうだ?」
「実はあんまり苺好きじゃなくて。酸っぱいじゃない?」
その言葉に私は唖然としてしまった。苺が好きではないのに、ショートケーキを頼む奴がいるなんて。
「スポンジと生クリームが好きなの。そうなると、ショートケーキになっちゃうんだよね。シフォンケーキがあればそっちを頼むけど。今回は守殿くんが苺食べてくれると思って、頼んじゃった。だから、遠慮せず食べて」
スポンジとクリームの間に挟まった苺も、フォークで避けようとしていた。
「こっちも食べてくれたり…」
申し訳なさそうに、しかし上目遣いでこちらを見てくる禰宜まつり。施しを受けている手前断りづらく、皿に乗せろと差し出した。
「はいどうぞ」
だが、禰宜まつりの行動は予想外だった。フォークを差し出してきたのである。これは恋人達が食事の際行うという愛の儀式の一つではないか?恥ずかしいからやらない派もいると伝え聞いている、あの儀式。
私は断固そのような愚かな行為はするはずがないと嘲笑していたが、実際に起こるのと想像とではだいぶ違う事を実感した。
つまり、今まさにカトラリーが差し出された状況に直面すると、目の前で急に発生した事故のごとく、思い描いていた行動ができないのだ。手馴れた医療従事者であれば救急車を呼び人工呼吸を行いAEDを…などと流れるように作業ができるのであろうが、素人がそう簡単に動けるわけがない。
何が言いたいかと言うと、このカトラリーを受けることを想定通り躊躇するという私の気持ちと、受けたい…ではなく、受けなければ禰宜まつりに恥を掻かせてしまうという想定外の事態に、『考える人』状態になってしまった。
「おい」
狐の怪訝な目と視線がかち合う。狐の目は、どうやら石化を解くらしい。私は禰宜まつりからフォークをひったくった。




