12.黒田清輝記念館と幽霊
絵の展示室へ入った瞬間、空気が重くなった。
「ここにおるかもしれん。少なくとも、数時間前にはいたはずだ」
一気に緊張が走る。この小さな記念館にいたのか。
ここは他のところと比べればそこまで混んでいないので、幽霊が出そうな雰囲気はあるが。
黒田記念館には部屋が二つしかない。そして、そのうちの一つである特別室は閉まっている。
ということは、もう一部屋の方にいる。真中ひかりが。
私も禰宜まつりも何も言わずに二階へ上がった。狐は妖気のようなものを垂れ流しているように感じる。神経を張り詰めさせていた。
「…いるか」
「いない。だが、ついさっきまでここにいた。入れ違いになったのかもしれない」
「ひかり…」
幽霊がいたからか、妙な感じがする。部屋がひんやりとしていて、ここだけ少し温度が低いみたいだ。
「まだ近くにいるかもしれないぞ!」
雰囲気に飲まれていた二人を叩き起こすように私は言った。
顔を見合わせると、すぐに外へ出る。
「さっきの喫茶店にはおらんな」
「人混みはどうだ?」
「分かりづらい…だが、霊気のような物だけは感じる。活発化しているのかもしれない」
「そんな…どこにいるの?」
「幽霊というのは歩くのが遅いんだろ?周りを探してみよう」
だが、私は何となくここでは見つからない気がしていた。
幽霊がこんな真っ昼間の暑い時間帯に、人混みに紛れて歩いているだろうか。真中ひかりを見つけることはできなかった。
禰宜まつりは茫然とし、狐は「口惜しい」と言った。
「手分けして探そう。見つけたら連絡する」
「えっ、でもきつねさんがいないと、見つけられないんじゃ…」
「私は霊感があるらしいから、少なくとも見ることはできる。禰宜さんは?」
「こやつには霊感はない。さっきも全くピンときていなかった。二手に分かれるのなら、我と女、お前の一人だ」
禰宜まつりは不安そうだったが「分かった」と言った。
「まぁ、この女もだんだん霊感が付いてくるだろう。我と長時間いれば、そういうこともある。真中ひかりもそうだった」
「分かった。見つけたら連絡しよう」
*
禰宜まつりと狐は平成館、私は東洋館へ向かった。東洋館は本館を背にして左手にあり、敷地内の端に位置していた。
しかし、私は東洋館へ入らなかった。
併設されているホテルオークラのレストランへ入ったのである。
私は狐に霊感があると言われてから「幽霊は存在するものであり、私にはそれが見える」と言い聞かせた。信じることで、おかしな現象を受け入れることができると思った。
ホテルオークラのレストランなだけあって、安っぽい感じのない空間だった。
感覚を研ぎ澄ませると「いる」と感じた。レストラン内は妙にがらんとしていてどこか薄暗く、暖かみのない感じがしたのだ。とは言え、幽霊が真昼に営業中のレストランにいるのは、少し奇妙とも言えた
昼時にしては客が少なく、何組かの客がぽつりぽつりといるだけだ。それ故か、一人で四人掛けの席に座っている者もいる。
私は謙虚なので、おとなしくカウンター席に座らせてもらう事にするが。
実は私はこの店に入ることを躊躇していた。なぜなら、この店は昼飯を食べるには予算オーバーなのだ。
恐らく、学生が気安く入る店ではない。社会人やご婦人方が入るような店で、私のような若いのは完全に浮いて…
そこで、ハッとして私は後ろを向いた。
四人掛けの席に座っている一人客が、若かったからだ。
「…まさか、真中ひかりか?」
服装が大人びていて、綺麗な格好で気が付かなかった。だが、よく見れば髪型は真中ひかりだ。
私の胸は僅かに傷んだ。一人なのにわざわざ四人掛けの席に座っている事が意味するのは、同伴者がいたという事だろう。彼女はそれをじっと待っている。恐らく、来るはずのない相手を。
現実的なことを考えることにする。真中ひかりを捉えたが、私は今からどうすれば良いか。急に席を立って、何もない席に話しかけ始めたら完全に不審者だ。ゆっくり会話ができるとも思えない。
「すみません」
私は店員を呼び注文を終えると
「あの席に移動しても良いですか?」
と頼んだ。
荷物を持って、真中ひかりの真向かいに座った。料理を注文してウェイトレスが去ると、いよいよ二人きりになった。
私は幽霊というものを初めて間近で見た。
薄緑がかかって、透けている人間と言うべきか。人ならざるものを見ているのには間違いないので、背筋が冷える感じがする。
何をするか分からない相手と話すには、衆人環視の場は最適なので、恐怖は感じていなかった。もしここで殺されかけたとしても、誰かが異変に気付いて助けてくれそうだ。呪われたとしたら、狐に解呪してもらおう。
慣れてくれば、背筋が冷える感じも奇妙さが残るのみだ。気持ちに余裕が出てきたので、私は真中ひかりを観察することにした。
先ほど言った通り、服装は大人びたオフィスカジュアルと言うのだろうか、綺麗な格好だ。母親がこんな服を着て仕事へ行っている。
俯いて前髪が顔を隠しているため表情は伺えないが、この陰鬱な雰囲気で笑っているとは思えなかった。
多分、真中ひかりは悲しんでいる。泣いていないのが不思議なくらいの状態だ。
なぜここまで悲しんでいるのか。小説を書き終えず悔やんでいるとは思えなかった。
「真中さん、なぜ悲しんでいるのか教えてくれないだろうか?」
私の声は思ったより優しかった。
真中ひかりがゆっくりと顔を上げる。傷ついた彼女の表情を、涙に濡れているかもしれない瞳を、頬を想像して、少し辛い気持ちになる。
彼女は掠れた声で私の名を…
「守殿、く」
「五目チャーハンでございます」
ウェイトレスの顔は、ひどく引きつっていた。




