89 離せないよ。……離したくない。
だらだら書いていて、切りどころがわからなくなってきた……。
87くらいから、適当な文字数で切って、話数を分けています。
たまきは梧の背中を見送りつつ、自分の行動と梧のささやきで真っ赤になった頬を両手で押さえて、しばらく悶えていた。
「うぁー……」
だがその呻き声で、すぐ横でしゃがみ込んで、両手で顔を覆っている紫露の存在に気づく。
「……アオ君とたまき先輩、糖度めっちゃ高ぁ……」
「し、紫露!……えっと、いや、あのねっ……」
言い訳しようとたまきがもごもごしていると、紫露は顔を上げ、ふっと笑った。
「いや、ショーの時の雰囲気もいいけど、甘々モードも推せるね。……ルーカスが入る隙なんか無いじゃん」
と、呟くと、立ち上がって、肘を差し出す。
どうやら、エスコートしてくれるつもりらしい。
「……そう言えばルーカスさんって、さっきなんて言ってたの?梧さん教えてくれなかった」
紫露の腕に手を乗せ、エスコートを受けてたまきは会場の方へと戻りながら、聞くと紫露が顔を顰めた。
「ルーカスに“さん”付けなんかしなくていーよ。年下だし、生意気だから。それと、あいつの言ってたことは聞かなくていい。マジで。たまき先輩を口説こうとしてただけだから」
「へっ!?口説くって……なんで私なんか?モデルさんとか、美人な人いっぱいいるのに」
会場の中に戻ると、スタイル抜群な参加者たちが楽し気に談笑している。
ひとまず、空いている席に座ると、会場のスタッフがメニューを持ってきたので、二人は飲み物だけ頼んだ。
飲み物を待ちつつ、紫露はたまきの方へ身を乗り出した。
「いや、たまき先輩は可愛いからね?マジで気をつけて。……ルーカスのやつ、アオ君の彼女だって伝えてあるのに……」
そう言って呆れたようにため息をついたその時、
「(彼女だからってなんの関係があるんだよ?たまきが魅力的なのはそれと関係ないだろ)」
後方から声がして、紫露は少し前の梧のように、反射的に立ち上がる。
「ルーカス!」
しかし、間に入ろうにも、ルーカスの方が背が高いため、たまきを隠しきれず、
「(お前じゃ騎士は務まらないみたいだな)」
と、紫露を鼻で笑う。
飲み物を運んできたスタッフに、ルーカスも飲み物を頼んでから、たまきの隣に座ってウインクする。
「たまき、とても素敵だね。おれはルーカス。ヴィヴェカと霞の息子だよ」
と、カタコトながら、日本語で挨拶した。
「……初めまして」
たまきが戸惑いながら挨拶すると、嬉しそうな笑顔になった。
その表情は、ヴィヴェカによく似ている。
椅子にゆったりと座り、たまきのことをじっくり眺めながら、
「うん。君は、どんな姿でも素敵」
と、言った。
まるで、以前から知っているような口ぶりに、たまきは眉根を寄せ、どういうことかと紫露の顔を見た。
紫露も驚いた顔をした後、ルーカスを睨みつける。
「どういうこと?なんでたまき先輩を知ってるわけ?」
「(お前がマンマに送ってきた動画を見たんだよ)」
「は?動画って……」
言いかけて、紫露はたまきの方を見て口を噤んだ。
紫露がヴィヴェカに送った動画は、たまきが陸上部で走っていたころの動画だ。もう走れないたまきの前で口にするのは憚られた。
「……動画?」
たまきがその言葉に引っ掛かり、紫露はしまったという顔をした。
「何の動画?」
その表情に不信を抱き、紫露に聞くと、気まずそうに顔を顰める。
「えっとぉ……」
「君が走ってた動画。中学のときの」
言い淀む紫露をしり目に、ルーカスがすぐに笑顔で答えた。
「おい、ルーカス!」
紫露はルーカスを止めようと名前を呼んだ。たまきがどんな顔をしているのか確認するのが怖くて、たまきの方を見れなかった。
たまきが高校三年になったとき、ようやく陸上大会を見に行けたことは紫露も聞いていたが、かといって、全てが吹っ切れているわけじゃないかもしれない。
「すごく、君はキレイなフォームだった。とても美しくて……」
「ルーカス!」
紫露は止めようとするが、ルーカスは止まらなかった。
「何度見ても、飽きなかった。なんて言うか……(ああ、もどかしいな。紫露、翻訳してくれよ)」
ルーカスはもどかしそうに腕を動かして、紫露の方へ視線を送る。
紫露は、恐る恐るたまきの表情を見た。
たまきはどう反応していいかわからないのか俯いていて、どんな顔をしているのかまで見えなかった。
「……できない……」
「(なんで?おれはこの想いを伝えに、日本に来たようなもんなんだよ)」
「なんでって、だって、たまき先輩は……!」
言いかけて、その先が言えない。
—————もう走れないんだから。
それを口にするのは、今でもためらわれた。
だって紫露は、動画に残ってるものだけじゃなくて、楽しそうに走るたまきの笑顔も、真剣な横顔も、負けて静かに悔しがる背中も、全部、覚えている。
それを、失った時の叫びも、涙も。
紫露の肩に、たまきがそっと手を置いた。
「紫露」
たまきの優しい声がして、紫露は、ゆっくりとそちらに視線を向ける。
泣きそうになった紫露のしわくちゃの顔を見て、たまきは眉根を寄せつつも、笑った。
「なんで紫露がそんな顔するの?」
紫露は泣くまいと唇を噛んで俯く。
「……びっくりしたけど、私は大丈夫だよ」
たまきの手が、紫露の背中を撫でた。
じわりと、目の奥が痛むほど熱くなる。
泣いちゃダメだと、胸の中で何度も唱えた。泣きたいのは紫露よりもたまきのはずなのに、たまきは力強く紫露の背中を撫でる。
「(……紫露。おれも、もう彼女が走れないってことは知ってるよ。だけど、わかってても伝えたいんだ。たまきの走りを見て、おれは感動したんだから。今走れないからってその気持ちをなかったことにはできない)」
ルーカスの声は、浮ついたものではなかった。
紫露は顔を上げる。滲んでいた涙が一筋溢れて、慌てて服の袖で拭うと、ルーカスの真剣な眼差しが、紫露をまっすぐ見つめていた。
紫露はひとつ、深く息を吸ってから、背中を撫で続けてくれる、たまきの方へ視線を向けた。
「……ルーカスがね、たまき先輩が走るの見て、感動したんだって」
「え?」
たまきは驚いて手を止め、ルーカスの顔を見ると、少し照れたように微笑んで、頷いた。
紫露は、今回ドレスを作るために、ヴィヴェカに頼まれて走っているたまきの動画を送ったことを話した。
黙って送ってごめん、と紫露は言ったが、たまきは首を横に振った。
そこからはルーカスの言ったことを、紫露が翻訳してくれることになった。
スウェーデン語を話すのは苦手だが、聞き取りはほぼできるらしい。ルーカスも日本語に対して同様なので、二人とも母国語で話していても会話ができるという、周りから見ると不思議な光景になるのだそうだ。
ルーカスは初め、ヴィヴェカのタブレットの中に入っていたその動画を見つけ、あまり深く考えずに再生した。
「(さっきも言ったけど、君の走りはすごく綺麗だった。目が離せなくて、何度も何度も見たんだ。足の運び、姿勢、息遣い……。全てが美しく見えた。もう……生で見れないことを悔しく思ったよ。もっと早く君を知っていればよかったのにって)」
そう言って肩をすくめ、紫露に向かって「(お前が早く紹介してくれていたらなぁ?)」と、不服そうな顔で顎をしゃくった。
さっきまで泣きそうだった紫露は、呆れた顔になり、
「絶対やだね。今でこそ絶賛してるけど、当時会ったら、どうせチビだのガキだの、たまき先輩のこと馬鹿にしたろ」
と、反論すると、一度カチンと来たような顔で唇を突き出したが、はたと我に返った。
「(……いや、確かにな。おれならやりかねない)」
そう言って苦笑いを浮かべた。
そんなルーカスの反応に、紫露は目を丸くする。
「うへぇ、ルーカスが素直に認めるなんて、気味が悪いな」
ルーカスは紫露を睨みつけたが、たまきの方に向き直り、胸に手を当ててお辞儀をするような仕草をした。
「(……君のおかげさ。たまきの走りを見てから、おれは自分の考え方を変えられた)」
紫露の通訳を聞きながら、たまきはひどく驚いた顔をした。
「私、そこまで速くなれなかったし、私よりすごい人なんていっぱいいるよ?」
「(そうじゃないんだよ。速さとか、技術の凄さじゃなくて……、なんて言えばいいかな?たまきは走ることをすごく大切にしているように見えたんだ。ちゃんと向き合って、丁寧に走っている気がした。……伝わるかな?)」
それを聞いて、たまきはハッとした。
たまきにとって走ることは、死んだ父母と繋がれる行為だった。向き合えていたかはわからないけれど、確かに、走る時間はとても大切な時間だった。
それが、映像からでもわかってもらえたことが、嬉しいような、少し気恥ずかしい気もした。
「(……君がもう走れないって聞いて……、あんなふうに楽しそうに、大事に走ってた君が、どんなにショックだったんだろうって思うと、胸が苦しかった)」
ルーカスは自分の胸を押さえて、顔を顰めた。
たまきの胸も少しだけチクリと痛んだけれど、以前ほど苦しくて辛い気持ちはなかった。
そして、その痛みを思い出せないことに対する後ろめたさも感じていない自分に気がつく。
たまきは自分が前に進めていることを、ルーカスの言葉で実感できたのだ。
「……ありがとう。そんなふうに思ってくれて……」
たまきが胸の奥がじんとしてお礼を言うと、ルーカスは顔をあげ、首を横に振る。
「(お礼を言うのはおれの方なんだよ)」
ルーカスが、まっすぐたまきを見つめた。
「どうして……?」
聞くと、ルーカスは少し大げさに肩をすくめて見せた。
「(うちってさ、マンマは天才肌の芸術家で、カカは目標に突き進む努力の人で、姉のリーヴは、器用な上に努力家でさ。おれって誰にも何にも敵わないわけ。頑張ったところで勝てないから、努力したってどうせ無駄って思ってた。しかもそれを、ルーカスは大丈夫よって、誰も責めてこないから、余計に惨めでさ)」
それを翻訳した紫露が、
「だから態度が超生意気でさ」
と、たまきに耳打ちするような仕草をしつつも、聞こえるような声で補足した。
ルーカスは苦虫を噛み潰したような顔をしつつ、
「(今は変わったんだよ……)」
と、思いのほか小さな声で反論した。
「まだ十分生意気だとは思うけどね」
紫露に突っ込まれて、ルーカスは不機嫌そうに舌打ちをした。
だが、ふっと表情を緩めた。
紫露は眉を持ち上げ、その顔つきに驚く。
「(たまきは神様に意地悪されて、努力を無駄にされても、またちゃんと目の前のことに向き合ってる。おれは自分が心底ダサいと思ったよ。何も奪われてないくせに努力もしないで、おれなんかなんもないって腐ってさ)」
「……そんなことない。私だって情けないとこいっぱいあるよ」
たまきは両手を振って否定した。
「俺からしたらすごいけどね?たまき先輩、病気があっても留年しなかったし。もちろん学校の制度とか、サポートはあったと思うけどさ、治療とリハビリもある中で、課題こなしたのはたまき先輩じゃん」
だが、謙遜するたまきに、紫露も追い打ちをかける。
「それは……、みんながノートくれたり、梧さんにも教えてもらったし……」
「(でも、代わりに解いて提出してもらったわけじゃないんだろ?)」
「するわけないでしょ!それじゃズルになっちゃう!」
イタズラっぽくルーカスが言うと、たまきが真面目に受け取り、否定する。
すると、ルーカスと紫露が声をあげて笑った。
「えっ!なんで……!」
たまきが首を振って二人の顔を交互に見る。
「……そーゆーとこだよ」
笑いが収まると紫露はそう言って、たまきの顔を見つめた。
「まぁ、ズルは普通にしないけど。たまき先輩ってさ、基礎練もそうだけど、ずっと同じでもメニューちゃんとやるじゃん?普通飽きちゃうのにさ、手を抜いたり近道とか選ばないで、ちゃんとそういう積み重ねのできる人なんだよな。……心悠先輩もたまき先輩のそういうとこ、ほんと尊敬するって言ってた」
そう言ってたまきの顔を覗き込んで、微笑んだ。
たまきが照れ隠しに口を窄めて頬を膨らませた。
ルーカスが「(この顔ってどういう感情?)」と不思議そうな顔で聞くと、紫露が「これは本気で照れてる」と、答えた。
二人の間で居た堪れなくなると、
「もー、二人とも見ないで!」
と、手で顔を隠してしまった。
「(なんだ?この可愛い生き物は)」
ルーカスが目を丸くすると、紫露が嫌そうな顔をした。
「だから、お前には絶対知られたくなかった」
「(なんでだよ)」
「口説くじゃん」
「(するわけないだろ?アオの彼女だぞ?)」
オーバーなジェスチャーをしながらルーカスは言ったが、紫露は信用していない表情をしている。
しばらく二人は睨み合っていたが、ルーカスは紫露に向かって舌を突き出してから、喉を鳴らして襟を正すと、たまきの方を見た。
「(まぁ……、まだ目標なんかわからないけど、とりあえず、目の前のことを真面目にやろうって思ってるよ。……君のおかげでね)」
そう言うと、真剣なトーンのその声にたまきは顔を上げた。
紫露から内容を聞くと、たまきはルーカスに向かって、ふわりと優しい笑みを向ける。
その笑顔を見て、ルーカスは頬を赤らめ、視線を逸らした。
口元を押さえながら紫露と視線を合わせて、手をスライドしてたまきから見えないように口元を隠しながら、
「(やっぱり、アオとたまきが別れそうになったら教えて。奪いにくるわ)」
と、小声で言うと、紫露がギョッとした顔をした。
すぐにルーカスを睨みつけると、
「そんなこと絶対ないから!少なくともアオ君はたまき先輩を離さないよ」
と、立ち上がって強く否定した。
ざわめいている会場では、注目されることはなかったが、ルーカスとたまきが驚いて紫露を見上げる。
「(ど、どーなるかなんてわかんないだろ?)」
その勢いに気圧されつつもルーカスが反論すると、紫露はむっと口を曲げつつ、
「そんなの—————」
言いかけたその時だった。
「……私も梧さんのこと、離せないよ。……離したくない」
静かな声でたまきが言って、紫露の動きが止まる。
翻訳していないから、ルーカスが何を言ったのかはわからなかっただろうが、紫露の言葉から会話の内容を推察したようだ。
はにかむような表情ながらも、たまきの目は真剣だった。
ルーカスも紫露も、息を呑んでたまきを見つめる。
「(いや……マジかよ……)」
「……今日ほどルーカスに感謝したことないわ……」
紫露は呆然とした顔で、すとん、と椅子に戻った。
たまきは急に恥ずかしくなったのか、二人から視線を逸らし、赤くなった顔を手で扇いでいる。
それを見つめながら、紫露は嬉しそうに微笑み、ルーカスは深くため息をついた後に、苦笑した。
「(はぁあ。これじゃ敵うわけないね)」
「なんの話だ?」
後方から低い声が聞こえて、ルーカスはぎくっと身を震わせた。
「(あ、アオ……?)」
ルーカスが引き攣った顔で振り向くと、梧が訝しげな顔で見下ろし、
「随分、楽しそうだな……」
と、言われた。
居たたまれなくなって、立ち上がって席を譲ると、そのまま梧から逃れようと、紫露の隣の席に移動する。
「アオ君、おかえりー」
紫露が明るい声で言った。
まだ疑いの目を紫露とルーカスに向けたままの梧に、
「梧さん、おかえりなさい」
たまきも言うと、すぐに、ふっと眉間の皺が取れた。
ルーカスと紫露が顔を見合わせる。
梧はルーカスが空けた席に座り、たまきの顔を見つめると、
「……ただいま」
と言って、柔らかな表情で、たまきの頬をつんと指先で触れた。
たまきは触れられて微笑み、梧もつられて微笑んだ。
さっきまでルーカスたちを睨んでいたのに、急な変わりように、ルーカスは両手を広げて首をすくめ、紫露も苦笑いした。
「(アオが表情豊かなんだけど?)」
紫露に顔を寄せて、ルーカスが小声で聞くと、紫露が頷く。
「たまき先輩といると、アオ君の雰囲気、柔らかいよね」
すっかり二人の世界に入って、仲良く会話をしている二人を眺めつつ、小声で答える。
「(仏頂面のおっさんをなんでたまきが好きになったのかと思ったけど、これならわかる気もする。そもそも、アオはイケメンだもんな……)」
「お似合いでしょ?……やっぱいいな。二人が一緒にいてくれるの、嬉しい」
紫露が自分のことのように喜んでいるので、ルーカスは小首を傾げた。
「(……紫露がなんで嬉しいんだよ?)」
「んー?……そうだな。離れ離れだった家族が、一緒にいられるようになったら嬉しいでしょ?そーゆー感じかな……」
そう答えた紫露の瞳に光るものが滲んでいる。
ルーカスには意味がわからなくて、首をさらに傾けた。




