87 あなたと共に……
イベント会場のバックヤードで、たまきはメイクを施されていた。
フェイスメイクとヘアメイクが完成に近づけば近づくほど、たまきの緊張は高まっていく。
見かねてメイクさんが、肩を揉んだり、声をかけてくれたりしたが、たまきはぎこちない笑みを浮かべるばかりで、一向に緊張はほぐれなかった。
イベントはすでに始まっており、プロのモデルが次々と衣装を着替え、新作のバッグやアクセサリー、小物を身に付けて颯爽とランウェイを歩いていく姿がバックヤードのモニターで確認できる。
モデルたちを見ながら、たまきは、このまま逃げ出したい気持ちでいっぱいだった。
プロモデルの出演が終われば、霞が25周年の感謝を伝える挨拶をした後、たまきたちが出演するシークレットショーが始まることになっている。
ドレスに着替えると、いよいよ出番が近づいてきている実感がわいてきた。
何度か深呼吸を繰り返してみたけれど、たまきの手は冷たく、震えたままだ。
自分の手を胸元で握りしめ、祈るような恰好で、たまきは目を閉じた。
失敗したらどうしよう。
みんなに迷惑をかけてしまうのではないか、そんな不安がどうしても頭をよぎる。
「たまき……!」
名前を呼ぶ声に、たまきは目を開いて顔を上げた。
声のした先に視線を巡らせれば、ロング丈のスーツを身にまとった梧が立っている。
たまきと目が合うと、梧は早足でたまきの元へ歩み寄った。
近づいてくるその時、様々な方向から当たるライトの光に照らされて、漆黒に見えるそのスーツが青くきらめいて、綺麗だった。
……ふと、たまきは同じ色の髪が風に揺れ、梧の襟足から長く伸びているように見えた。
目の前に梧が来た時、目を瞬いて小さく頭を振ってからもう一度見ると、髪はいつもと同じ短髪だった。
ただ、いつもはセンターパートの前髪が、丁寧にセットされ、片側だけが降ろされて雰囲気が違う。
「素敵……」
思わずつぶやいた声は、梧にはよく聞こえなかったようで、首を傾げている。
「何でもないです」
たまきが赤い顔でそう答えると、梧はしばらくその顔を眺めてから、たまきがきつく握りこんでいた手を解き、両手で包んだ。
梧の手が暖かくて、たまきはそれだけでも少しほっとした。
「寒いか?手が冷たいな」
バックヤードは会場よりも空調が弱められている。
ただ、たまきは寒さを感じていなかったので、首を横に振った。
「いえ……、緊張してて」
それを聞いてたまきの手をさすりつつ梧の表情が険しくなったので、たまきは小首をかしげた。
「……どうかしました?」
「……いや」
言い淀む梧は、たまきに見つめられてため息をついた。
「……抱きしめたいけど、衣装にしわが付いたり、汚すのは困るな、と思って……」
と、残念そうな顔をした。
その言葉に面食らったが、
「手を繋いでくれているだけでも和らいでます」
と言って、微笑んだ。
それを聞いて、梧にも笑みが浮かぶ。
梧は握っていた手を口元によせ、そのまま手の甲に口づけを落とした。
「えっ!?」
突然の行動に驚いて、顔を真っ赤にしたたまきを真剣な目で見つめた後、梧はスーツの胸ポケットを探った。
ポケットから出した手には小さなリングケースが握られていて、梧がその中から指輪を取り出した。
「ちょっ……、えっ!?まっ……」
その指輪を見た途端、たまきは急に慌てだした。
「あんまり、深刻に考えなくていい」
そう言いながら梧はたまきの左手を持ち上げ、薬指にその指輪をはめた。
ネックレスと同じエメラルドがはめ込まれた指輪のサイズは、寸分たがわず、ぴったりだった。
「……とはいえ、重く感じるかもしれないが……」
ほんの少しトーンの落ちた声で言うと、梧は指輪の上から薬指を撫でる。
「……私、まだ……」
「わかってる。君は答えを急がなくていい。これは俺が君のものであるという誓いなんだ」
たまきは眉根を寄せて、明らかに困った表情をした。
それを見た梧も苦笑を浮かべたが、
「とりあえず、このショーの間だけでもつけていてくれ」
と、付け足すと、たまきと手をつないだ。
「……行こう、もうすぐ始まる」
そう言って手を引いて歩き出した。
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たまきたちは他の出演者である緝と翠、そして時雨と杠葉と舞台袖で合流した。
時雨と杠葉はまだ余裕がありそうな表情だったが、翠と緝の表情にはたまきと同様、緊張が浮かんでいる。
特に翠は、その顔が青ざめているのが暗い中でも分かった。
必死にぎこちなく笑みを作っているが、隠しきれていない。
その時、霞が壇上に上がり、深々と頭を下げた。
微笑を浮かべたまま顔を上げ、あたりを見渡す。
そして、ゆっくりと口を開いた。
「本日は、Fri Vindの25周年を祝う場にお集まりいただき、誠にありがとうございます。ここまで歩んでこられましたのは、Fri Vindを愛してくれた皆さんのおかげであり、支えてくれた、たくさんの関係者のおかげでもあります。重ねて、全ての皆様に感謝申し上げます」
そう言って、霞はもう一度、一人一人の顔を見つめるように、ゆっくりあたりを見渡した。
そして、ランウェイ下に控えているヴィヴェカと視線を合わせると、軽く頷き、意を決したように視線を上げる。
「そして、25周年を迎え、私たちは新たな一歩を踏み出したいと考えています。それをご説明する前に、このFri Vindの名前の由来を少しだけお話しさせてください」
霞の話が進むにつれ、袖にいるたまきたちの表情も真剣みを帯びてきた。
「その由来は、私がまだ若い頃に聞いたとある旅人たちの物語です。かつて、風と共に旅をし、愛するものたちの傍に居続けることができなかった人々がいました。身分や見た目、生き方……様々なしがらみにとらわれて、風のように自由に旅の中で生きながらも、真の自由を手に入れられなかった人たちでした」
たまきは、同じ風のものだった、杠葉と翠の横顔を盗み見た。
その表情に変化は見られなかったけど、時雨と緝が、たまきと同じようにそれぞれ杠葉と翠に気取られないように視線を送っているのがわかった。
はたと気付いて、たまきが隣にいる梧を見上げると、一瞬目が合った。
梧はすぐに視線を逸らし、舞台の方へ戻す。ただ、握ったままの手には力が込められる。
「彼女たちの生き様は、現代の私たちにも通じる気がしました。身分の差は薄れたにせよ、根強く残る、人種や性別、ジェンダーの壁も取り払われてはいません」
霞の穏やかでありながら力強い声は、会場に響いていく。
「物理的な旅をしているわけではなくとも、未だに私たちは“居場所”を求めてさまよっているように感じます。誰かから認められる必要はないとわかっていても、承認を求めてしまう。……このブランドは、"居場所"をコンセプトとし、身につけるだけでも、ここに居ても良いという"居場所"を得られるようなものを目指してまいりました」
胸を張り、まっすぐ前を見てよどみなく話す霞は、とてもかっこ良かった。
“私は完璧じゃないわ”と霞は言ったけれど、やっぱり、たまきから見てその弱みを含めても、完璧に感じる。
「差別も無くそうとしながら、無くし切ることはできない。かくいう私も、自分のジェンダー、恋愛対象、病気を公表することで、性別の間に亀裂を生んでいるのではないかというジレンマも長い間ありました。Fri Vindは女性向けブランドであり、私自身、女性を助けるための基金も設立しております。それは私の経験から、かつての私のような人を救いたいという願いからでしたが、それが排他的でブランドの可能性を狭めているのではないかという批判も、幾度となく受けてきましたし、的を射た指摘であるとも思います」
霞が視線を伏せる。ヴィヴェカの方へ視線を投げ、眉尻を下げて微笑んだ。
僅かに霞の表情が曇っている。
「その批判が私の家族にも向けられ、苦しい時期もありました。自分の居場所はどこにあるのか。ここに居て良いのか。迷うことは何度もあったのです」
ヴィヴェカは霞の瞳をまっすぐ見つめ返し、応えるように優しい笑みを浮かべた。
きっと、ヴィヴェカと霞は幾度となく支え合いながら、ここまでやってきたのだろう。
しばしそうして見つめあった後、霞は再び顔を上げた。
「それでも味方になってくれる人々や、このブランドを愛してくださる方々のおかげで、私はこの25年、このブランドと家族を守り続けることができました。それは性別を問わず、様々な方たちが私を支えてくれたおかげなのです」
微笑をその顔に湛え、霞は続ける。
「だからこそ、今日はもうひとつ、お伝えしたいことがあります」
霞は静かに整えるような呼吸をひとつ挟んだ。
「これまでFri Vindは、女性のための場所でした。それは、今日も、これからも変わりません。ただ、慣例として、"女性に贈りたい"と願う方や、想い合う人と同じものを身に付けたいという方々に向けてのみ、その扉を開いてきました。……でも、今は、居場所を必要としているのは、その人々だけではないと強く感じています。旅人たちが求めて叶わなかったのは、自由そのものではなく、居たいと願う場所にそのままの自分のまま居られるということでした」
舞台袖にいるたまきからでも、霞が強くこぶしを握り込んだのがわかった。
「ですから私たちは、それを願うすべての方のために、新しいラインを立ち上げます。まずは男性向けライン、紳士を意味するHerre。そして、ジェンダーレスライン、友を意味するVänです。この二つを追加し、新たな店舗を世界に展開いたします」
会場が途端に騒めき、空気が変わった。
ひそひそと何かささやき合う声が広がっていく。
だが、霞はヴィヴェカの方も見ることなく、視線を下げなかった。
客席をただ真剣な眼差しで見つめ、続ける。
「正直に言うと、今も少し怖いです。この決断が、25年このブランドを愛してくださった皆さまにどう届くのか、まだわかりません。私自身、変われていない部分もたくさんありますから。それでも、ここで踏み出さないのも、私らしくありません。ここから先も進化を続ける私たちに、どうかお力を貸してください。変化は恐ろしいことでも、裏切りでもありません」
騒めきは収まらなかった。はっきりと批判を口にする声も聞こえた。
中には席を立ち、会場を出て行く人たちもいた。
たまきの手に思わず、力がこもった。梧がたまきの方を一瞥したことすら気づいていないまま、霞をじっと見つめている。
霞はそれでも怯まなかった。前を見据え、凛とした声を響かせ続ける。
「風は、いつも誰かの居場所を探して吹いています。今夜、ここにいらっしゃる全ての人に、少しでもその居場所を感じていただけたなら嬉しいです」
舞台の下にいたヴィヴェカが、ゆっくりと壇上に上がってきた。
霞に近づき、その額にキスを落として腰を引き寄せると、霞の隣で背筋を伸ばし同じ方向を見つめる。
その瞳には憤りや失望はなく、ただただ、凪いだ海のような穏やかさがあった。
「そして、このブランドのコンセプトのもとになった物語の一部を、皆さんに見ていただきたいと思っています。本日のイベントの最後を彩る、シークレットショーです。参加してくださるモデルは素人ですが、彼らならではの、純粋さと想いをどうか受け取ってください。……皆様、今日は本当にありがとうございました。最後まで、どうぞお楽しみください」
そう言うと二人はそろって、頭を下げる。
頭を上げると見つめあってから、舞台袖のたまきたちに向かって、微笑んで視線を送る。
そのまっすぐな瞳を受け止め、たまきは自然と背筋を伸ばした。
こんな状況でも余裕の表情を作れる霞と、真剣な眼差しに変わったたまきの横顔を見て、梧は苦笑を浮かべる。
握っていたたまきの指に収まっている指輪に視線を落としてから“敵わないな”と胸中で呟いた。
その手を腕の方に誘導すると、たまきがようやく梧の方を向く。
緊張の色は、そこにはもうなかった。梧が頷くと、たまきも頷いて応える。
そこで照明が変わり、音楽がかかった。
舞台袖の先頭にいた時雨と杠葉が、手を取り合ってランウェイ上に出て行く。
杠葉は淡い藤色の首元から足までを覆うロングドレスで、肩にスリットが入っていてわずかに肌が見える。
風をはらんで美しく流れるドレープが風の女神のようだった。緩やかなカーブを描いて肩から腕に流れるアクセサリーは繊細で品があり、何より神聖さを増している。
一方の時雨は深い藤色の襟元の詰まった短めの上衣と白のトラウザーズ。騎士服をモチーフに作られた衣装で、胸元にはビジューをグラデーションで配置し藤の花のようなデザインがされている。
濃淡は違うが同じ藤色で統一感があり、見た目はさながら“姫”と“騎士”のようでもあった。
見つめ合うとほんの少し時雨が照れの混じった笑みを浮かべ、杠葉がそれを見て包み込むような柔らかい笑顔になって手を引いていく。笑顔のまま正面にも視線を送りつつ、危なげないウォーキングで二人は出番を終えた。
次は緝と翠の番だった。
緊張MAXの翠の背を少し強めに緝が叩くと、翠は頷き、手を強く握り合って、一歩を踏み出して行く。
打って変わって二人の衣装は現代的。
翠はオーバーサイズの生成り色のシャツにベージュのワイドパンツ。合わせるアクセサリーはデザインはシンプルでありながら存在感のある同系色のペンダントやゴールドのイヤーカフと指輪。
緝はキャメル色のジャケットに、インナーはジャストサイズの生成りのシャツ。パンツはブラウン系で、甘すぎない程度にチェックの模様が入ったスラックスだ。アクセサリーは、翠とお揃いの指輪と完全に同じデザインではないが統一感のあるイヤーカフ、ペンダントトップと対になるデザインのブローチがジャケットの襟についている。
視線を合わせながら、ぎこちないウォーキングで二人はランウェイを歩いていく。
目に見えて緊張がわかる翠とは裏腹に、しっかりしているように見えている緝の瞳にも緊張の色が浮かんでいることに翠が気付くと、ランウェイの尖端で緝を引き寄せると、後頭部に手を回してお互いの額を合わせた。
「……翠っ……!」
演出にない動きに緝が小声で名前を呼ぶが、翠は舞台上であることを忘れたように、「ごめんね」と小声で呟くと、その視線が急に落ち着きを見せた。
緝は驚いたものの、諦めたようにため息をつき、「……わかってくれればいいんだよ」つないだ手を、指を絡めて恋人つなぎに変えて、二人は額を離すとふっと笑みをこぼした。
その表情のまま、一度正面に視線を送ってから、踵を返す。
そこからのウォーキングは落ち着きを取り戻し、何度か視線を合わせては笑い合い、少しだけ小突きあって袖へと戻ってきた。
いよいよ、たまきと梧の番になった。
一度視線を合わせた二人は、タイミングを合わせて一歩を踏み出した。
同じ、一見すると漆黒にも見える黒い生地は、スポットライトの光を受けて、たまきたちの動きで青色に輝く。
梧のスーツのジャケットはロングコートのような丈で、たまきのドレスと流れが繋がって見える刺繍が施されている。
ドレスの流れるような淡いグリーンのオーガンジーは狙った通り風のように揺れていた。
梧はたまきの手をもう片方の手で握り、たまきを見つめている。
視線を感じて、一瞬ホッとした表情でその瞳を見つめ返した後、たまきはまた、まっすぐ正面を向いてランウェイを歩いた。
梧はその横顔を見つめながら、その瞳がこの会場ではない、何か見えないものを捉えているような気がした。
中学生で出会い、今やもう大人であるたまきの成長を眩しく感じ、梧は思わず腕に置かれた手を取り、ランウェイの尖端へと腕を伸ばし、たまきを前に立たせた。
驚いた表情のたまきから決して手は離すことなく、まるでダンスのステップのように誘導しながらその場でターンさせると、腕を引いて腰を引き寄せた。
そのまま少しの間、近距離で見つめ合い、
「……あ、梧さん?」
たまきが、小声で名前を呼んだのを合図に、梧はふっと口元を緩めて目を細めてから、またたまきの手を自分の腕の方へと戻して、ランウェイを引き返し始めた。
戸惑いながらも、足をもつれさせることなく梧についていき、今度はたまきが前を向いて真剣な表情をしている梧の横顔を見つめた。
その時、左手の薬指にある指輪のことを思い出した。親指でその指輪をなぞりながら、梧の横顔を見つめ続け、舞台袖まで戻ったのだった。




