86 びっくり箱の、底にあったもの
たまきは、ヴィヴェカからドレスの最終調整のために来てほしいという連絡を受けた。
その日は梧の都合が悪く、時雨が大学まで迎えにきてくれる予定だったので、待ち合わせ場所で待っていると、見慣れた車がやってくる。
運転席の時雨に会釈したそのとき、後部座席のスライドドアが勢いよく開かれ、たまきは思わず驚いて身を震わせた。
そこから出てきたのは、ヴィヴェカで、
「Hej, lilla vän!(やっほー!可愛子ちゃん!)」
と、両手を広げてたまきを抱きしめようとするも、初対面の時のことを思い出し、たまきは咄嗟に避けてしまった。
「ヴィヴェカさん!?」
たまきは声を上げたが、空振りしたヴィヴェカは気にした様子もなく、たまきに向かって微笑みかける。
「ちょっ……!ヴィヴィ!たまきさんを怖がらせないでください!」
慌てて時雨が車を降りてきて、たまきとヴィヴェカの間に入り、遠ざけるように割り込んだ。
ヴィヴェカはけろりとした顔で、
「あら、ごめんなさいね」
と、肩をすくめて見せ、後部座席に戻っていく。
びっくり箱のようなヴィヴェカの行動に、たまきは心臓がまだ脈打っているのを感じながら、時雨に促されて助手席に乗り込んだ。
乗り込んだ後も、ヴィヴェカは運転席と助手席の間から顔を出し、
「Har du haft det bra?(元気にしてた?)」
と、たまきに聞いてきた。
相変わらずスウェーデン語がわからないたまきが時雨の顔を見ると、苦笑を浮かべ、
「元気してましたか?」
と、時雨が通訳した。
「……あ、はい。元気です」
たまきがまだ呆然とした声で答えると、ヴィヴェカはたまきの表情を観察するようにしばらく眺めた後、少し間をおいてから「そう。ならいいけど」と言って微笑むと、後部座席に座り直した。
時雨はそれを確認してから、短く息を吐いた後、車を出発させたのだった。
————————————
「さあ、着きましたよ」
時雨がそう言うと、たまきが降りようとするより早く、ヴィヴェカが後部座席から降り、助手席のドアを開けた。
また何かするつもりなのかと警戒していると、柔らかい微笑を浮かべ、少し気取った仕草で手を差し出し、
「お手をどうぞ、お嬢様」
と、お辞儀をするように身をかがめる。
たまきは一瞬驚いたが、ふっと笑って、その手を取った。
たまきが車を降りると、ヴィヴェカは彼女の手を自分の腕に誘導し、「ご案内しますね」と、そのままFri Vindのフィッティングルームまでエスコートしていく。
フィッティングルームのドアの前で、ヴィヴェカは立ち止まると、一度たまきの顔を覗き込んだ。
なんだろうと首を傾げると、少しイタズラっぽさを含んだ笑顔を見せて、ドアノブに手をかける。
「Tadaa!(じゃじゃーん!)」
そう声を上げながらドアを開くと、トルソーに着せたドレスがたまきの視界に飛び込んできた。
一見すると黒にしか見えないドレスの生地は、角度を変えると青く輝いて見える。
その重厚な生地とは対照的に薄緑のオーガンジーの生地は、ふわりと空気をはらんで今にも風に揺れそうだった。
たまきは息を飲んで、しばらくそのドレスを見つめて立ち尽くした。
ヴィヴェカが集中を切らさないように、ゆっくりと部屋の中へと誘導していく。
腕を離してもたまきはその場から動かなかった。
それを満足げに見つめながら、ヴィヴェカはたまきが動き出すまで声をかけずに静かに待つことにした。
たまきがようやく我に返り、ヴィヴェカの方へ顔を向けてきた。
それを微笑んで受け止めながら、
「気に入ってくれた?」
と、問えば、「気に入るどころか、もったいないです」と答えてくる。
だが、その答えにヴィヴェカは眉間にしわを寄せ、肩をすくめる。
「あなたのためのドレスなのに、“もったいない”は困るわよ」
「ごめ……—————」
謝ろうとしたたまきの唇を人差し指で押さえて、しばし見つめた後、ニコッと微笑むと、ヴィヴェカは、
「でもありがとう。たまきにとっての最上級の誉め言葉なのよね。さ、着替えて最終調整しましょう」
と、すぐに切り替えて、たまきを試着室に向かわせた。
たまきがドレスを身にまとうと、ヴィヴェカの顔つきが変わった。
たまきの周りを歩きながら、上から下まで、くまなく確認していく。
さっきまでと打って変わったヴィヴェカの真剣さに、たまきにも緊張が走る。
ヴィヴェカはふと足を止め、今度はたまきに近づいて襟元や腰のくびれ、布の落ち感や縫い目に目を凝らした。
「もっとリラックスして。ほら、息を吐いて、吸って」
ヴィヴェカはたまきの緊張に気づき、笑顔で顔を覗き込み、それをほぐそうと優しい声で言う。
言われるがまま、息を吸ったり吐いたりしていると、その体の動きに合わせた布の動きにも、ヴィヴェカは注目しているようだった。
「オッケー、たまき。気になるところを触って確認していくけど、嫌だったり、立っているのが辛かったら言ってちょうだい」
そう言って、ドレスの生地をつまんで、たるみを確認し、タブレットに結果を入力しつつ、ドレスにピンも刺していく。
しばらくの間、何も言葉を交わさないまま、もくもくと作業を進めていたヴィヴェカが、ふと、口を開いた。
「最近なにか、悩み事でもあった?」
「えっ……?」
唐突な問いかけに、無防備だったたまきは慌てたようにヴィヴェカの顔を見た。
ヴィヴェカはちらっと目を合わせただけで、すぐにドレスに視線を落としたが、
「もう、ほとんど気持ちは決まっているみたいだけど、そうなのかなって思った」
と、続け、特にたまきからの返事を求めていないようだった。
どうしてそんなことがわかるのかとたまきは不思議に思ったけれど、ヴィヴェカはいつでもまっすぐに見つめてきて、観察するような眼差しをするから、たまきの表情の機微から何かを見抜いたのかもしれない。
たまきが真剣な顔をして押し黙ると、ヴィヴェカはそのまま何事もなかったかのように手を動かしていた。
だが、たまきの後方に回り、リボンの高さや角度を確認しているうちに、
「……前に、霞の“風”の解釈の話をしたじゃない?」
と、また唐突に話を振ってきた。
「……Fri Vindのコンセプトのもとになっている話ですか?」
「そう。……たまき、ちょっと鏡の方を向いて」
話をしながらも、ヴィヴェカは作業も続けていく。
言われた通り鏡の方に体を向け、鏡越しにヴィヴェカの表情を窺う。
真剣な顔つきのヴィヴェカは、
「……私の解釈は、また少し違うの」
と、話を切り出した。
「違う……?」
「霞は“風のもの”にとっての“風”を想像したけど、私は“待つ人々”が呼ぶ“風”はまた違うんじゃないかって考えたのよ」
たまきの呟きに応えるように、ヴィヴェカは続けた。
「……待つ人たちの“風”……?」
たまきの胸に、また違った風が吹いてきた。
「何も言わずにいなくなられたり、いつ帰ってくるかもわからない人を待ち続ける人の気持ちよ」
“風のもの”だったハルの記憶はないはずなのに、それはどこか、後ろめたさを感じさせるものだった。
「相手が生きているのか、死んでいるのかわからない場合はなおのこと。……それを、“風”のせいだと思えば、仕方ないと諦めがつく。自分が悪かったんじゃないかなんて、思わずにも済むでしょう?」
ヴィヴェカはひとつ、小さくため息をついた後、鏡越しにたまきと目を合わせて、悲し気に微笑む。
出会ったのはつい最近だが、いつも明るく振舞うヴィヴェカがそんな顔をするなんて思いもよらなくて、たまきは目を見開く。
ただ、“自分のせいで”と思う気持ちはわかる。
「……風が舞うたびに、この風の元で守られて無事に旅を続けられていると思えば、不安が少しは軽くなる。そんなふうに”風”を上手いこと言い訳に使っていたんじゃないかってね」
ヴィヴェカはそう言って、肩をすくめてみせた。
「疲れたわよね。一通り確認は終わったから、脱いで休憩にしましょう」
「はい」
話は途中だったが、たまきはヴィヴェカに手伝われて慎重にドレスから着替えた。
私服に着替え終わると、ヴィヴェカがその場に椅子を持ってきて、二人は向き合って座った。
「……この傷を見た時、驚いたでしょう?」
そう言って、ヴィヴェカは話を再開した。自分の顔に走る、大きな傷を指先でなぞる。
「いえ……、あの……はい」
たまきは返答に困ったが、結局は素直に答えた。
目立つ位置にあるその傷が、気にならないわけはなかった。ただ、すぐに抱き上げられて、それどころではなくなったのも本当だけれど。
「私は、この傷が大嫌いだったわ。……大切な人を失った時についた傷だから」
そう言って、ヴィヴェカは鏡を見た。
顔を左右に振って傷を確認して、ため息をつく。
「……物語なら、解ける謎ばかりだけど、現実はそうもいかない。どんなに思い合っていても本当の意味で人の気持ちを理解することや、わかりあうことは難しい。時雨の言う前世のように、ある日突然、誰かが居なくなってしまうことは、現実でもいくらでもあるのよ」
ヴィヴェカはたまきの方を見なかった。視線は鏡の中の自分の傷に注がれている。
たまきは黙って続きを待った。少しだけ息を詰め、ヴィヴェカの語りの邪魔にならないように。
「一生解けない謎は、この世に無数にある。むしろ、解決される謎の方が少ないのかもしれないわね。ミステリー小説だってパズルと一緒で、解けるようにトリックが用意されてるだけ。……だけど、現実はそうはいかない」
ヴィヴェカは眉間にしわを寄せ、目を伏せた。
「……どうして私を残して死んでしまったの?……とか、……どうして私を置いていったの、とか」
ヴィヴェカの過去に何が起きたのか、具体的な内容は話さなかったが、その気持ちはたまきにも痛いほどわかる。
まさか、たまきが知っている痛みを、ヴィヴェカも感じていたなんて想像もしていなかった。
いつも明るくて、パワフルで……そんな風に見えていたから。
—————今、順調にうまくいっているように見える人たちも同じ悩みを抱えていたかもしれないし、今もそれを抱えながら隣に立っているかもしれない。それは、ここから見ただけじゃわからないわよね。
ふと、霞と初めて会った時のことを思い出した。道行く人たちを眺めながら、霞がそう言った。
あのとき、霞はヴィヴェカのことを思い出していたのかもしれない。
「私はこの傷を、自分の罪の証だと思ってた。“忘れるな、お前は罪人だ”って、鏡を見るたび言われている気がした」
たまきの胸は、酷く痛んだ。
ヴィヴェカが鏡越しにたまきの悲壮な顔を見つけて、
「あぁ、そんな顔しなくていいのよ。今はそんなこと思ってないわ。この傷のおかげで霞を助けられて、これは私の勲章になったんだから」
と、いつもの笑顔を見せてくれた。
たまきは少しほっとしたが、それでもなんだか、掘り起こされた痛みがまだ胸に残っている感じがした。
それに気づいたのか、ヴィヴェカがたまきに向き直り、正面から見据えた。
「ねぇ、たまき。今までもこれからも、あなたの人生に起こる出来事に、神様は理由を教えてくれないでしょう。誰が悪いわけでも、何かしたわけでもない。あなたの身体に残る傷は、罪でも罰でもないはずよ」
そっとたまきの膝に触れ、ヴィヴェカが言った。
たまきは手のぬくもりを膝に感じながら、ヴィヴェカの傷を見つめた。
「神様は乗り越えられる試練しか与えないなんて言ったりもするけど、理由なんてのは、あなたが生きて行くためならなんだっていいの。時に、神様を憎んだっていいし、過去を忘れてもいいし、“風”をうまく使って自分に都合よく解釈してもいい」
言われて、たまきはヴィヴェカと視線を合わせた。
切実で、優しくて、頼もしいまなざしだった。
ヴィヴェカはたまきを抱き寄せた。その腕の力強さに、たまきの胸の痛みが溶かされていく。
「立ち止まっていても、時間は流れて人生は進む。あなたが生きているだけで十分だと、傍に居る誰もが思っているんだから、それでいいのよ。あなたはただ、誰かに抱きしめられてるだけでも、そのぬくもりで役割を果たしているんだから」
たまきはヴィヴェカの背中に腕を回して抱きしめ返す。
たまきの悩みを知っているはずもないのに、不思議とヴィヴェカの言葉は的を射ていた。
二の足を踏んでいたたまきの最後の一歩を後押しするような、心強い温かさがたまきの身体に広がっていく。
「……私、ヴィヴェカさんと霞さんに、お願いしたいことがあります」
覚悟が決まった声で、たまきが言った。
ヴィヴェカが体を離し、その真剣な眼差しを受け止めると、
「……ええ。もちろんいいわよ」
まだ、内容を言わないうちに、ヴィヴェカはすぐに承諾した。
たまきは面食らったが、頷き、“お願い”の内容を話したのだった。
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そこから本番までは、あっという間だった。
大学の勉強と並行して、モデルの打ち合わせにも通って、バタバタしていたせいもある。
あまりに忙しくしているものだから、さっちょんや琉輝から、ちゃんと休んでいるかと何度も問い詰められた。
実際、あまり休んでいる時間はなかったかもしれない。
冬休み前の小テストがイベントの二日前にあり、Fri Vindの打ち合わせの最中に専門書を広げて、イベントスタッフの人に驚かれたり、暗記するためにぶつぶつ医学用語を呟いていたら、演出の段取りが飛んでしまったりと、なかなか切り替えが難しかった。
ただし、霞たちが全体の休憩時間を調整して、梧や時雨が休める環境を作って、杠葉がバランスの取れた食事を用意してくれて、緝が勉強を手伝ってくれたりと、周囲に助けられて、小テストも無事クリアし、ようやくこの日を迎えられたのだった。
たまきを励ますと言うよりも、ヴィヴェカ自身も整理するように話しているのかな、と思ったり。




