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風の行く先  作者: 遥ゆとり
3章 大学編

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83 ひとときを重ねて

「じゃあ、また来週伺います」

 桐子は言って、知り合いの医師の部屋を出た。

 外来棟を抜けて出口を目指す。もう昼を回っているから、診察を受ける患者はほとんどいない。

 いるとすれば、予約で検査に時間がかかっているか、入院予定の患者だろう。


 いつもなら、そのまま何も気にせず帰るのだが、今日は何故か、受付前の待合に一人の少女が腰掛けて、窓の外を見つめているのが目に留まった。

 小柄でショートボブ、幼くも見えるが、10代後半か20代だろうか。

 受付に職員はいない。おそらく診察も支払いも終わっているのだろうとは思うが、思い詰めたような横顔に、なんだか放っておけない気持ちになった。


 桐子は彼女に近づくと、

「……どこか、具合が悪いのですか?」

 と、声をかけた。

 突然声をかけられて驚いた彼女はビクッと身を震わせてから、「あ……いえ、大丈夫です」と、桐子を見上げた。

 

 彼女は桐子の顔を見た途端、驚きで目を見開き、

「……梧さん……?」

 と、小さな声で呟く。

 突然、見知らぬ少女の口から発せられた息子の名前に、桐子の心臓がドキッと一拍、不規則に跳ねた。

 頭の中で、彼女の正体に思い当たる。

「…………もしかして、冴島……さん?」

 そう問いかけると、彼女は我に返って、慌てて立ち上がった。

「は、はい。冴島たまきです。…………あの、もしかして、梧さんのお母さん……ですか?」

 おずおずと聞いてくるたまきに、桐子は頷き、

「はい。梧の母で、海風桐子と申します」

 と、丁寧に自己紹介した。

 たまきはまだ慌てた様子で、頭を下げてくる。

「あの、梧さんには、とてもお世話になってて……」

「……畏まらないでください。どうぞ、座って」

 静かな口調で桐子が言うと、彼女は顔を上げて「あ……はい」と、促されるまま、元の場所に腰掛けた。

「……冴島さんのことは、傳さん……うちの主人から聞いています。東都医大で学んでらっしゃるんですよね」

「はい」

「そうですか。……主人も梧も、迷惑をかけていませんか?」

「え?いえ、そんな……。逆に私の方が迷惑をかけていると思います」

 ふと、視線を下げた彼女に桐子は、

「……そんなことは聞いていませんね」

 と、言って首を傾げた。

 その声が冷たく聞こえてしまったらしく、彼女はその後、俯いて黙ってしまった。


 間違ったことを言ったつもりはないが、言い方が悪かったのだろう。

 桐子は声も低めで、感情も乗っていない。表情も乏しいから、初めて会う人にはよく怖がられている。


「怖がらせるつもりはなかったのですが……」

「えっ?」

 桐子が言うと、たまきが顔を上げた。

 慌てたように顔の前で手を振って、

「いいえ!怖くないです」

 と、言った。

 こんな方がどうして梧を好きになってくれたのだろうと考えつつ、梧が彼女に惹かれた理由は本人に聞かずともよくわかった。


 無意識に桐子は、彼女の頬に手を伸ばした。

 その柔らかい頬を優しく撫でる。

「あ……」

 彼女が声を上げて、桐子はようやく我に返った。

 さっと手を引っ込め「ごめんなさい」と謝る。初対面の相手の頬に触れるなんて、失礼極まりなく、ハラスメントにも引っかかるような行為だ。

 

 だが、彼女はほんのり頬を赤らめ、照れたように微苦笑を浮かべる。

「……梧さんと、よく似てますね」

 桐子と梧の顔はよく似ているから、その言葉は、よく言われてきたことだ。

 

 “息子さんはよく似ておられますね“

 “母子(おやこ)でよく似た美人ですなぁ”

 そのほとんどは、何かしら褒め言葉以外の意味が含まれているように、桐子は感じていた。

 だけど彼女の言葉からは、そんな皮肉めいたことは一つも感じられない。

 彼女の表情には嬉しさすら滲んでいる気がする。

 その声や挙動は、桐子の心を温かくした。


 だが、ふと、彼女の表情が曇った。


 何故突然、彼女がそんな顔をしたのかはわからないが、病院に出入りしている身である桐子には、通院している患者がする表情として、見覚えがあった。


「答えたくなければいいですが……、検査の結果が良くありませんでしたか?」

 彼女は視線を上げて、口をグッと引き結んだ。

 感情を押し込めるような表情に、胸が痛くなる。彼女はきっと優しい人だ。病気に対する恐怖を、一人で我慢しようとしている。

 だが、臨床医ではないものの、医者である桐子には、それを見過ごせない。


 彼女はようやく首を横に振った。

「……大丈夫です」

 “大丈夫”という言葉だけでは、なんの解決にもならないことを、桐子はよく知っている。

「……ごめんなさい。あなたの病気について、少しだけ聞いてしまったの。病名と、当初の病状くらいだけれど……」

 本来なら、本人の許可なく知ってはならないし、桐子の胸の中だけに留めておくべきだったかもしれないが、珍しい息子の行動と共に傳にも話してしまった。

 桐子はその真面目な性格からか、黙っておくのは良心が痛んだ。

 

 彼女はまた、首を横に振る。

 ぎこちなく微笑んで、謝罪を許してくれたのだろう。

 傳と会っているから、自分の病状が知られていることはなんとなく察していたのかもしれない。

 

「……結果表はありますか?」

 首を突っ込み過ぎているかと心配しながらも、真っ直ぐに彼女を見つめる。

 揺れる彼女の瞳に、自分が怖い顔に映っていないことを願った。

 彼女は躊躇ったが、今日もらった検査の結果表を差し出しながら、

「本当に、大丈夫なんですよ」

 と、重ねて言う。

 並んだ数値を一通り眺めれば、彼女の言う通り、検査結果の数値は概ね良好だった。

 前後の変化を見ていないから断言はできないが、担当医が“問題ないですね”と言ってもおかしくはないだろう。


 だとすれば、彼女が抱えているのは、将来への漠然とした不安かもしれない。

「ありがとうございました。確かに、大きな問題はなさそうですね。……他に、何か心配ごとはありますか?」

 桐子は結果表を彼女へ返すと、その顔を覗き込みながら訊いた。

 彼女はしばらく黙って逡巡していた。

 話したい気持ちはあるのだと察し、桐子は、

「ここで聞いたことは、梧にも主人にも言いません。あなたが望まないなら、ご家族にも。私とあなただけの秘密にします。……それなら、話せますか?」

 と、付け加える。

 彼女が話してくれるかどうかは賭けだった。

 もし桐子に話せないとなれば、桐子が知っている信頼のおける看護師や医師に委ねようと考えた。

「私……」

 彼女が口を開いた。

 しかし、次の言葉が続かない。

 桐子はそれでも慌てず静かに続きを待った。ここで何か声をかけてしまうと、貝のように閉ざしてしまうかもしれない。

 研究者というのは、学会がない限りは割と時間の融通がきく。いくらでも待とうと、桐子は思いながら彼女を見つめる。

 彼女は何度もためらいながら口を開閉させていた。

「……梧さんに辛い思いをさせたくないです」

 ようやく言った彼女の言葉に、桐子は目を見開いた。

 病気の再発に対する恐怖より、梧の方を気遣ってくれるのかと思った。

「冴島さん……」

 桐子が何か言おうと名前を呼ぶと、彼女は「違うんです」と、桐子の言葉を聞く前に否定した。

「……それでも、梧さんの手を離したくない……離せないんです。……ダメだって思うのに、どうしたらいいのか……。ごめんなさい」

 と言って、俯く。

 さっきの「違うんです」は、もしかしたらその言葉が、綺麗に聞こえてしまうことが嫌だったのかもしれない。

 自分の心の中がそんなに純粋ではないのだと、思っているのだ。

 何か声をかけなければと思うのに、なんて言ったら彼女の気持ちを軽くできるのか、わからない。

 

 “謝らないで”“大丈夫ですよ”

 

 どれも上っ面ではないだろうか?どうして謝る必要がなくて、何が大丈夫かを彼女に提示できていない。

 

 “梧は気にしない”

 

 本当に、そんな言葉で彼女は納得する?

 今の梧のことをよく知るのはきっと彼女の方で、桐子が梧のことを語る資格なんてあるのだろうか。

 ……いつも桐子は、こんなふうに考えすぎて、伝えるタイミングを逃してしまう。


 太ももの上で、彼女はギュッと両手を握りしめている。

「先のことを考えると……怖いです。一人じゃ耐えられないかもしれない。……でも、そのことで、梧さんを傷つけてしまわないか……私といるせいで、しなくてもいい思いをさせてしまうんじゃないかって思うと、それも怖い……」

 キツく手を握り込んでいるたまきに、桐子は心配になり、その手にそっと触れ、包み込んだ。

 彼女の手は思ったよりも熱かった。

 落ち着かせなければ……そう思いながら、

「……冴島さん。人はみんな、等しく死ぬんです」

 口をついて出た言葉は、なんの慰めにもならない事実だった。

 案の定、彼女は眉根を寄せてポカンと口を開け、桐子を見上げる。もっと違う言い方ができたと思うのに、反省してももう遅い。

 仕方なくそのまま続けた。

「……病気があろうとなかろうと、歳をとっていようと若かろうと、私たちはいつか死んでしまいます。……いえ、だからといってあなたの悩みが軽いだなんて思っていませんよ」

 彼女は要領を得ないようで、首を傾げて桐子の話を待っている。

「あなたの悩みは当然のことです。自分の抱えているものを、大切な人に一緒に背負わせるのは心苦しいし、だけど一人で抱えるには大きすぎる」

 桐子はまた、彼女の頬に手を伸ばした。優しくその頬に手のひら全体で触れる。

 彼女は眉尻を下げ、瞳を潤ませた。

「……私の……祖父母の話ですが……」

 何が彼女の心に届くかはわからない。

「私の祖母は若い頃から病気がちで、伏せっていることが多い人だったそうです。どの医者からも、長くは持たないだろうと診断されていたのですが、まるで当然のように、祖父は自分の方が先に死ぬからと言っていました」

 瞳は潤んだままだが、彼女の表情は少しずつ緩んでいく。

「……実際、祖父は祖母より二年、早く亡くなりました。祖母も90代まで生きて、祖母の余命が少ないと診断した医師の中には、祖母よりも先に亡くなった方もいます」

 彼女の目が、驚きで見開かれる。

 桐子も、その当時、祖母の生命力には目を見張った。

「……この事実は医者になった私の中に、深く刻まれました。医療の不完全さと人間の持つ生命力の強さを知り、医術に慢心することのないように、と」

 彼女の頬から手を離すと、両手で彼女の手を取り、その瞳をまっすぐに見つめる。

「……不安は悪いものではありません。不安や疑念がなければ、科学は進化しないのですから。……ですが、不安に呑まれて生活が疎かになっては元も子もありません」

 桐子の静かな声に彼女の瞳に溜まっていた涙が、ぽろりと落ちた。

 桐子はポケットから取り出したハンカチでその涙を押さえつつ、

「どうしても消えてくれない不安は、誰かに話してみてください。身の回りの人でなくとも、相談ダイヤルもありますし、医師や看護師でも構いません」

 次から次へ、溢れてくる涙をハンカチともう片方の手で拭う。

 吐き出して、流し出してしまえばいい。

「……私たちももちろん、あなたの話を聞く準備をしています。……おそらくですが、梧も。心配してくださるあなたの優しさは嬉しいですが、それぞれ独りきりではありません。あなたを支えてくれる人がたくさんいるように、私たちにもいますから、簡単に潰れたりしないと思います。安心して、弱音を吐いてほしいです」

 彼女を抱き寄せ、その背中をゆっくりとさする。

 腕の中で小刻みに揺れ、彼女は泣いた。

「……冴島さん。よく、独りでここまで頑張ってこられましたね。少しずつで構わないから、あなたの背負ってきたものを私たちにも見せてください」

 この小さな体に、どれだけのものを閉じ込めて、背負い込んで生きてきたのだろう。

 そんな彼女を、今、ひととき癒せても、その苦しみの全てを消し去ることはできないとわかっている。でも、そのひとときを重ねていきたいと、桐子は思った。

「……あまり厳重に秘密にしていると、主人はそういうものを暴きたくなる癖がある人なので気をつけてください。何か嫌だと感じたら、すぐに言ってくださいね。性格は直せませんが、叱ればしばらくはしゅんとしますから」

 ふと、傳のことを思い出してそんなふうに言うと、泣いていた彼女がふっ、と、笑いを漏らした。

 桐子は至極真面目に言ったつもりで、冗談ではなかったのだが、何が面白かったのだろう。

「ふふ……」

 また笑い声が聞こえたので、体を離して彼女の顔を覗き込むとまだ涙の名残はあったが、その顔に笑みが浮かんでいる。

 何がきっかけかはわからないが、彼女が笑ってくれてホッとした。

 おそらくは傳のことだろうと推測して、

「……よくわからない変な人ですけど、傳さんを見てるともっと肩の力を抜いてもいいと思える時がありますから、そういうところは参考にしても良いかもしれませんね」

 桐子が付け足すと、彼女は口を押さえながら笑う。

「……ありがとうございます」

 可愛らしい笑みをこぼしながら、彼女は桐子にお礼を言った。お礼を言われるようなことは何もできていないのに。

 無意識に、濡れた頬を優しく撫で、彼女が梧の恋人だなんて、信じられないほど嬉しいことだと思った。

 彼女に選ばれるほど、梧も良い男性に育ったのだと思うと、感慨深い。

「すみません……、長い時間お話を聞いてもらって……」

 彼女が謝るのを聞きながら、桐子は頭の中で静かに決意を固めていた。

「……こんな素敵なお嬢さんと息子がお付き合いしているのですから、ご家族には早々にご挨拶をさせていただくべきですね」

 その言葉を聞いて、彼女はぴたりと動きを止めた。

 顔を赤らめつつも、ふはっ!と息を吐いて頬を緩めて

「梧さんは本当に、お母さんにそっくりなんですね」

 と、言って、嬉しそうに笑みを深めた。

 何をもってそう言ったのかはわからないが、やはり、彼女にそう言われるのは、全く嫌な心地はしなかった。

 桐子の中で長年凝り固まっていた、呪いのようなものが、彼女の笑顔によって少しずつほぐれていくような感覚がしたのだった。

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