82 私のせいで、壊したくない
たまきが心を決めると、霞は嬉しそうに立ち上がり、スタッフを数人呼んだ。
「そうと決まれば、今日のうちに採寸を済ませて、今後のスケジュールを詰めていくわよ」
そう言うと、霞は仕事モードの顔になった。
たまきはなんの説明もされず、スタッフに促されるまま席を立ってその後ろについていく。
「後で私も行くから、先に進めておいて」
他のスタッフに指示を出しつつ、たまきが部屋を出て行ったことを確認すると、梧に視線を送って、
「あなたも打ち合わせと、演出の段取り詰めていって。残り二ヶ月もないんだから」
と、強めの口調で言う。
「……はい。すみません」
先ほどのたまきの言葉の余韻に浸る間もなく、梧は立ち上がる。
その様子を見て、霞は腰に手を当ててため息をつくと、
「……なんでたまきさんに伝えなかったのよ。当日の演出には、あなたも納得したわよね?彼女に、自分にはいろんな可能性があると知ってもらいたいって言ったのはあなたじゃない」
と、眉根を寄せた。
今回、この二十五周年を機に、Fri Vindは新しい挑戦を始める。その目玉として、たまきを含む数名をモデルに起用する計画なのだ。
梧は視線を伏せ、自分の後頭部を撫でる。
「……もちろん、彼女には様々な挑戦をしていってもらいたいと思っていますけど……」
今でも迷っているような表情に、霞は口を尖らせた。
「……なによ」
と、腕を組む。
「……いや、なんでもないです」
梧は首を横に振った。
「なんでもないわけないでしょう」
「いえ、忘れてください。打ち合わせしてきます」
はっきりしない態度に苛立っている霞を置いて、梧は部屋を出て、この場をやり過ごそうとしたが、
「着飾った彼女を人前に出すのが惜しくなったとか?」
霞が核心をついたので、梧は凍りついた。
「……自分でもわかっているようだからあんまり言うつもりはないけど、決定権は彼女にあるのよ。選択肢を与えないのは良くないわ」
「……わかってます」
沈んだ梧の声に霞は呆れたように肩をすくめた。
「はい!わかってるなら、ちゃっちゃと動いて!」
そう鼓舞すると、梧も仕事モードの顔つきになり、頷いた。
「あぁ、アオ。別件であなたに頼まれてるもの、ワックスの原型が仕上がってるからそれも確認していって」
部屋を出て行こうとした梧の背中に霞が言うと、梧は振り返り、今までに見せたことのない穏やかな微笑みを見せた。
面食らった霞に対し、梧は、
「……ありがとうございます」
と、お礼を言った後、先ほどよりも軽い足取りで部屋を出ていく。
固まっていた霞は、ふっと頬を緩めながら、
「まったく、独占欲まで覚えちゃって、成長著しいわね」
子供の成長を喜ぶような表情で霞は言った後、ひとつ短く息を吐いて気合いを入れ直し、たまきのいるフィッティングルームへと向かった。
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「どう?採寸の方は」
フィッティングルームに霞が入ってくると、対応していたスタッフが笑顔で、
「一通り終わりました。衣装は今のデザインでほとんど問題ないですね。あとはアクセサリーのフィッティングが残ってます」
と、サイズを入力したタブレットを霞に差し出した。
「ありがとう。あとは私がやるわ」
受け取った霞は、そのままスタッフを下がらせる。
「たまきさん」
霞がたまきに向き直ると、不安げな顔のたまきが「はい!」と、緊張した声で返事をした。
霞はふふふと笑って「そんなに緊張しなくて大丈夫よ」と、打ち合わせ用のデスクにたまきを案内する。
「……Fri Vindって、服も作っているんですか?」
フィッティングルームの壁に貼られたドレスのデザイン画や写真を眺めながら、たまきが訊いた。
「特別な時限定よ。こういうイベントの時や、たまにアーティストとコラボして、コンサート衣装を頼まれたり、ウェディングドレスを依頼されたときとかね」
ウェディングドレスという言葉を聞いたとき、たまきが一瞬視線を伏せた。霞は軽く首を傾げる。
すぐに笑顔を浮かべたので、何かあったかと聞くべきか迷い、
「……アオはどう?優しい?」
結局、別の話題にした。
「えっ!?あ、はい……。梧さんはいつも優しいです」
照れて顔を赤くして俯くたまきに、
「……そう。良かったわ。仏頂面で感情が掴めなくて困ってない?大丈夫?」
何気なく霞が聞くと、たまきは不思議そうな顔でこてんっと頭を傾けた。
「梧さん、よく笑いませんか……?」
それを聞いて、霞が真顔になった。
確かに、最近梧は柔らかい表情をすることが多くなったとは思うが、仕事をしていても、霞が他愛ない話をふっても、よく笑うと言うほどではない。
「…………アオが?よく笑うの?」
「え……、はい」
「……それって“フッ……”っていう、息を吐いたのかなんなのかわからない笑い方じゃなくて?」
「ふっ……て時は我慢してる時で、肩が揺れたりしてませんか?はははっ、って声を上げたりとかも……します……よ……ね?」
たまきの話を聞くうちに、霞の目が信じられないものでも見たように見開かれていくので、たまきの声が弱々しくなっていく。
「……あの、梧の話をしているのよね?」
さっきいた応接室の方向を指差しながら霞が確認すると、たまきは頷く。
「はい。あの梧さんです……」
「……あら……そう」
驚いて呆然としたように霞は返事をしたあと、無意識に口元に指先を持っていって、考え込むような仕草をした。
少なくとも、霞の知る梧は“フッ……”と笑った後に、笑いを堪えきれずに肩を揺らすようなことはしない。
しばらく沈黙が流れ、困ったようにたまきが、
「なにか……私、変なこと言っちゃいましたか?」
と、霞を見つめる。
「違うのよ!ごめんなさいね」
ハッと我に返り、霞は慌てて首を横に振った。
言った後に、眉尻を下げた少し悲しげな笑みを、ふっとこぼす。
たまきが心配そうに眉根を寄せていると、今度は、大丈夫という意味を込めて、霞はまた首を横に振った。
「……初めてアオに会った時ね。あの子……小学生だったと思うけど、大人びた顔で、にこりともしなかったのよ」
霞の脳裏に、この世の全てを諦めたような目をした少年が蘇る。
「嬉しいのよ。その子が、声を上げて笑う日が来るなんて。……本当にありがとう。あなたのおかげね」
目を細め、心底嬉しそうに微笑み、霞はたまきに手を伸ばして抱き寄せた。
「本当に良かったわ。ありがとう、たまきさん」
抱きしめられながら、たまきは胸の奥がキュウっと締め付けられて、喉の奥が熱くなった。
たまきは、霞の梧に対する想いやその優しさがわかって、“霞が梧と並んでいるとお似合いで嫌だな”なんて嫉妬したことが、子供っぽい考えだったと恥ずかしくなった。
「私が、変なことばかりするから……かもしれません」
恥ずかしさと、ありがとうと言われたことに対する照れとで、たまきはそんなふうにはぐらかした。
「まぁ、どんな変なことしてあの子を笑わせているの?」
霞が体を離し、たまきの顔を覗き込んだ。
たまきを見つめるその瞳が“聞かせて”と言っているようだった。
「えっと……」
咄嗟に思いつかなくて、たまきは首を傾げた後に、
「あ……。梧さんが眉間に皺を寄せてて……辛そうだったから、こう、指で伸ばしたことがあって……」
たまきは両手の人差し指を立てて、横にスライドしてみせた。
「アオの眉間を?」
「……はい。そしたら、ふって笑った後に、ははって、笑われました」
たまきが言うと、霞もあははっと声を上げて笑った。
「最高だわ、たまきちゃん。あなたは本当に可愛い人ね」
そう言ってもう一度抱きしめてから、まるで子供にするように、たまきの鼻先につん、と指で触れる。
いつのまにかたまき“さん”から、たまき“ちゃん”に変わって、子供扱いされているのに、なんだか嫌な感じがしなかった。
「……さぁ、可愛いたまきちゃん、あなたに似合う、最高のドレスとアクセサリーを用意するわよ」
ウインクした霞の瞳は、もうすでに仕事モードの輝きに変わっていた。
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「じゃあ、今後も何回か来てもらわなきゃいけないから……、たまきちゃん、都合の悪い日ある?」
一通り作業を終え、応接室に戻ってきたたまきと霞のもとに、他の打ち合わせを終えた梧もやってきた。
「終わった?」
「はい。こちらも一通りは」
ふう、と息をついて、迷うことなくたまきの隣に座り、何をしているのかと覗き込む。
「……あぁ、スケジュールですか」
たまきは自分のスマホで授業やバイトの日程を確認していて、霞のタブレットにはカレンダーが表示されている。
「そ。たまきちゃんが来る日はアオが迎えにいってくれるでしょ?昼間に都合がつけば良いけど、夜になるときもあるかもしれないから、ご家族にも伝えてくれる?」
タブレットを操作しながら、梧の方も見ずに言うと、
「それはもちろん」
間髪入れずに梧が答える。
「えっ!悪いですよ、忙しいのに……」
「いや……」
「いいのよ。会う口実ができるんだから、そんなこと気にしなくたって」
遠慮するたまきの言葉に返そうとした梧を遮って、さらりと言うと、
「それで、たまきちゃん。この日の夕方からはどう?」
と、話を進めていく。
「……あ、その日は通院なので間に合わないかもしれません。少し遅らせて貰えば……」
言いながら、たまきはほんの一瞬、顔を顰めて。
「あら、そうなの。定期検査?」
なんとなく事情は梧や時雨から聞いていた霞は、眉尻を下げる。
「はい。いつもの決まった検査だけで、時間はかかりますけど、もう慣れてきました」
「一緒に行こうか?お祖父様たちでは待つのも大変だろう」
梧も心配そうにたまきを見つめた。
「大丈夫ですよ。最近は一人で行ってますから」
「一人で?」
あっけらかんと言うたまきに、梧は眉根を寄せた。
その表情を見て、たまきはニコッと笑うと、
「大丈夫ですってば。慣れたものです」
と言って、拳を握ってみせる。
「だが……、検査の後は疲れるだろう?せめて迎えに—————」
それでも表情を緩めず、引き下がらない梧を見て、たまきは一瞬視線を迷わせた。
しかし、ふと、さっき霞と話したことを思い出して、そのしわの寄った眉間に手を伸ばす。
驚いた梧が少し身を引いたが、たまきは身を乗り出して、梧の眉間を指先で軽く撫でた。
とっさに梧はたまきの腕を掴む。
「何を……」
「眉間が痛そうだったから」
たまきはそう言って微笑んだ。
「……たまき」
怒ったような顔の梧から視線を逸らし、
「大丈夫ですから」
そう言ってから、霞に向き直ると、「その次の日なら、夕方からでも大丈夫です」と、話を戻した。
霞は一度梧の方を見るが、梧はため息をついて首を横に振る。
「そう?ならその日にしましょう」
霞もひとまずたまきの話に合わせた。
霞はその後もたまきとスケジュール調整を続け、一通り終えると、その間静かにしていた梧に向かって、
「遅くならないうちに送ってあげて」
と、声をかけた。
「……じゃあ、車を回して来ます」
梧がそうして部屋を出ていくと、霞は軽く息を吐いて、
「アオは頼りない?」
と、たまきに訊いた。
たまきは慌てて首を振る。
「そんなことないです……!」
そうは言ったものの、さっきのはぐらかすような態度のことを言われていることはわかったので、
「……そうじゃないんです。梧さんのせいじゃなくて、これは私の問題で……」
と言いかけて、ため息をついた。
霞は黙ったまま、たまきを見つめて眉を持ち上げてみせた。
たまきはふっと、自嘲気味に笑った。
「……このまま“今”が続けばいいって、思ったことありませんか?」
突然話が変わって、霞は驚いたが、その言葉の意味を考えながら、
「……そうねぇ。そんな日もあるわ。今が幸せだと、そう思って、この先の変化が怖くなる」
そう答えた。
「私、梧さんと付き合えて、すごく幸せです。……だから、このままがずっと続けばいいなって思います」
なんとなく、たまきの言いたいことが、霞にもわかって来た。
たまきの手が、震えている。
「でも、“ずっと”はないから……、私が幸せだなって思うと、壊れてしまうから……」
「それは違うわよ!あなたが思ったからじゃない!」
「だけど!」
強く否定した霞の言葉さえ、たまきは素直に受け取れなかった。
子供の頃、無意識に続くと思った幸せも壊れてしまったし、こっちへ来てようやく紫露と心悠と楽しい日々を過ごしていたのに病気になって、走ることも奪われてしまった。
今度は梧から想われれば想われるほど……、幸せを感じるほど、また何かで壊れてしまうのではないかと不安になる。
通院の話をした時に、ふと胸に刺さるような痛みが走った。漠然と感じていた不安はこれだと、ようやくわかった。
たまきが幸せを感じるたびに、壊れてしまう運命なのだとしたら、次は何が起こるのだろう。
病気の再発?それとも新しい問題?
それがたまきに降りかかるならまだいい。
もし梧に何かあったら、たまきは耐えられない。
「あなたのせいじゃないのよ。それだけは否定させて」
落ち着いた声色で、霞は繰り返した。
そこに、梧が戻って来た。
「……何かありましたか?」
出て行った時より重くなっている場の雰囲気を、梧は訝しむ。
「なんでもないです。帰りましょう」
たまきはぎこちない笑みを浮かべ、霞に会釈した後、出口の方へと足早に移動していく。
「たまき?」
慌てて後を追う梧。
二人の後ろ姿を見送りながら、取り残された霞は深いため息をついたのだった。
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「(それで、あなたが沈んでるの……)」
霞からの電話を受けて、ヴィヴェカはため息をついた。
今日のたまきとのやりとりを一通り聞いて、手元にあったタブレットで、たまきのためのドレスのデザインを表示して眺める。
純白に、淡いグリーンを織り交ぜた生地の、ホルターネックの上品なシフォンワンピース。
清楚で、まるで風の妖精のような雰囲気を出したいと、歩くたびにふわりとスカートが揺れて風のように流れるデザインにした。
『(もう、自信がなくなっちゃったわ)』
タブレットの上で指を滑らせていると、霞が弱音を吐いた。
「(自信無くすことないじゃない。ハニーは胸を張って仕事をしてくれなきゃ困るわ)」
言いながら、ページをめくり、男性用のスーツのデザインを確認する。
ほとんど黒に近い紺色の生地で作られ、たまきのドレスと対になるように、施された刺繍などの意匠は同じものになっている。
もちろん、これは梧の衣装だ。
ヴィヴェカはそのデザインとたまきのデザインを行ったり来たりしながら、考え事をしていた。
「(マンマー、ちょっとタブレット貸してよ)」
そこへ、呑気な声でルーカスがやって来て、ヴィヴェカの方へ手を伸ばしてくる。
「(なんに使うのよ?)」
「(調べ物したいんだよ。いーから早く)」
眉を顰めるヴィヴェカに、ルーカスは手をひらひらと動かして急かす。
「(……わかったわよ)」
出していたデザイン画を閉じて、ルーカスに渡した。
『(ルーがいるの?)』
電話の向こうでやりとりを聞いていた霞が聞いて来て、
「(いるわよ。……ルーカス、カカのこと励ましてあげて)」
ヴィヴェカはスピーカーにしてスマホをルーカスの方へ向ける。
「(え?カカ、なんか沈んでるの?がんばれー)」
タブレットでなにやら検索しながら、棒読みで励ました。
『(ちょっと、ルー?もっと心を込めてちょうだいよ……)』
沈んだ霞の声を聞いて、ルーカスが目を丸くした。
「(え?マジのやつ?……なんだよ、カカがそんな声出すなんてさ)」
『(私は弱いわよ。貴方たちがいてくれるから、強いフリができるだけ)』
ますます驚いて、ヴィヴェカの顔を見るルーカスに、ヴィヴェカは肩をすくめてみせた。
するとルーカスは一転、真剣な顔になる。
「(……カカ。僕らの可愛くて甘い“焼き菓子”ちゃん)」
スウェーデン語のkakaは焼き菓子という意味がある。
ルーカスが小さい頃、日本語でお母さんを意味する言葉の中に、似た響きのカカというものがあると知って、そう呼びたいとせがんだのだ。
外では強くて頑張り屋の霞は、家の中では少しだらしなくって子供みたいにマンマに甘えている、そんな可愛い人。
「(何があったか知らないけど、元気出してよ。俺はカカのことを信じてるよ)」
あまりにもスムーズに甘い言葉を言って励ますので、ヴィヴェカも霞も一瞬沈黙した。
『(……ちょ……、どこでそんな口説き文句、覚えたの?)』
照れたような声で、霞が聞いてくると、ルーカスがふっと鼻で笑った。
「(許してくれるなら、今すぐにでも日本まで行って慰めてあげるのに。カカ専属の騎士にもなるよ)」
無駄に声色を甘くして、囁くように言うルーカスを見て、ヴィヴェカは呆れた視線を向けた。
『(もう……、口ばかり上手くなって。日本に来たいっていうゴマスリだったわけ?)』
電話の向こうの霞も、呆れた声を出す。
「(バレた?アニメや漫画の聖地だからね、日本は。ジャパンイベントの時は行けるけど時間がないし、下の兄弟の面倒も見なきゃいけないだろ?……秋休暇に行きたいなぁ)」
バレた途端に声色を戻し、最後は甘えるような口調になる。
『(だめよ、ルーだけなんて。ミアたちと喧嘩になるじゃないの)』
「(ちぇっ)」
しかし、調子が戻ってきた霞がピシャリと言うと、舌打ちをして、ルーカスはまたタブレットの操作を再開した。
『(なんだか、悩んでたのがバカらしくなってきたわ。私はやるべきことをやるだけよね)』
「(そーだよ。悩むなんて無駄無駄。なんだっけ?日本の諺で……、“明日は明日の風が吹く”だっけ。それだよそれ)」
軽い口調でルーカスが答える。
「(全く、あんたって子は……)」
ヴィヴェカはその態度に呆れながらも、ルーカスが本気で霞を心配した上で、この軽口を叩いていることはわかっていた。
おそらくそのことは、霞もわかっているだろう。
『(……まぁでも、ありがとね。残りの仕事を片付けちゃうわ)』
「(無理しないでね、ハニー)」
『(ヴィヴィもね。愛してるわよ、ダーリン、ルー)』
「(愛してるよ、カカ)」
「(愛してるわ、ハニー)」
挨拶を交わして、霞が電話を切る。
電話が切れた後、ヴィヴェカは、頭の中でたまき用に考えているドレスのデザインを反芻していた。
指先を空中で動かしつつ、何か考え込んでいるようだった。
ルーカスは集中しているヴィヴェカの隣に座ってタブレットを操作し続けている。
「(……ん?これなに?)」
タブレットのアルバムの中から、一つの動画を見つけたルーカスが声を上げた。
「(え?)」
思考の世界から戻ってきたヴィヴェカが、ルーカスの手元に視線を向ける。
そこに映し出されていたのは、イメージを掴むために紫露からもらった、たまきが競技場を走る動画だった。
「(綺麗なフォームだなぁ。それに速い。誰?これ)」
「(紫露の先輩よ。今はアオの彼女ね)」
ルーカスが感嘆の声を上げるが、今の事情を知っているヴィヴェカの声は少し沈んだ。
「(え!?子供じゃん!アオ犯罪だろ!?)」
そんな声の変化など気づかないように、ルーカスはひどく驚いた。動画に写っているのは、中学生の頃のたまきだ。
「(それは昔の動画よ。紫露の先輩って言ったでしょ?紫露の一つ年上だったはずよ)」
「(だとしても離れてない?……アオみたいなおっさんのどこがいいんだろ)」
「(あんたねぇ……)」
「(そんなことよりさー、この子、めっちゃいい走りしてるじゃん。こんなに綺麗なフォームなら、今ならもっと速くなってるよ。最近の動画ないの?)」
目をキラキラ輝かせるルーカスに、ヴィヴェカは頬杖をついて視線を下げる。
もしも今もまだ、走ることができるなら、確かに彼女はもっと速く走れるようになれていただろう。
「(……走れないのよ、もう)」
ため息混じりに、ヴィヴェカが答えると、ルーカスが訝しげに眉根を寄せた。
「(……どういうこと?)」
「(この後に、膝の骨に病気が見つかったの。手術して、普通に歩けるまでには回復したけど、もうこんなふうには走れないわ)」
それを聞いて、ルーカスが息を呑んだ。
言葉を失って、もう一度動画を再生させる。
「(……嘘だろ……?)」
動画を見終わって、うわごとのようにルーカスが呟いた。
それ以上何も言えずにいるルーカスの手から、タブレットを奪うと、ヴィヴェカは動画をもう一度再生させ、じっと見つめた。
風と共に走るたまきの横顔は、真剣そのものなのに、喜びが溢れているのが感じられる。
それを、奪われてしまったたまき。
動画をもう一回流したが、ヴィヴェカのその瞳が見えない何かを捉え始めていた。
スマホを手に取り、切ったばかりの霞に電話をかけた。
『(え?なに?どうしたの、ヴィヴィ)』
驚いて電話に出た霞に、
「(ドレスのデザインを変えるわ!)」
と、ヴィヴェカは興奮した声で言った。
『(え!?もしかして、たまきちゃんの?もう二ヶ月しかないのよ!?)』
「(お願い!やらせて。すぐにデザイン画を上げるから!)」
『(えっ?ちょっ、ヴィヴィ!?)』
返事を聞く前に、ヴィヴェカはスマホとタブレットを放り出して、紙のスケッチブックに鉛筆で粗図を描き始めた。
横にいたルーカスはさっきの衝撃から抜け出せずにいたが、何か面白いことが起こりそうな予感に、口の端が上がる。こうなったら、ヴィヴェカは止まらない。
『(ヴィヴィ!?)』
まだ切れていなかったスマホを拾い上げて、
「(もう止まらないみたいだよ、マンマは。諦めるしかないね、カカ)」
と、ルーカスが答えた。
それを聞いた霞が、特大の深いため息をついた。
もうすぐ形になるはずだったドレスを全てやり直すのだ。
生地の選定から始めて、間に合う気はしない。……気はしないのだが、
『(…………やるしかないってことね)』
霞が覚悟を決めた声を出した。
「(うん。頑張ってカカ)」
『(そうとなれば、日本時間の今日中に、デザイン画を上げるように言って。あとはなんとかするわ)』
「(OK。伝えとく)」
そう言って電話を切ると、ルーカスはヴィヴェカを見つめて微笑む。
そして、タブレットを手に取り、ルーカスはもう二度と現実では見ることが叶わない、走るたまきの動画を、何度も再生したのだった。




