75 来てくれたんですか?
結局、梧は仕事で、たまきは夏休み明けの試験や勉強、さらに学祭の準備で忙しく、会う機会もなく学祭当日を迎えた。
梧が学祭に来れるかどうかも、やはり難しいようで、梧は申し訳なさそうにしていた。
そんな気持ちにさせるつもりはなかったから、たまきは言わなければよかったかなぁと、反省している。
今日は準備もあり、早めに大学に向かうため、うんと伸びをした後、
「よし!」
と、気合を入れて、たまきは支度を始めたのだった。
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医療系大学の学祭は、普通の模擬店だけではなく、血圧測定や健康チェック、実習体験も用意されていて、今までの中学高校の雰囲気とは大きく違っていたし、やはり規模も大きかった。
近隣の方や学生の家族、この大学を目指している高校生が、朝からたくさん訪れている。
たまきとさっちょん、琉輝は、初日の今日はサークルで出している模擬店に参加していて、明日は各科の体験の方に参加する予定だ。
「やほー、たま」
手をひらひらと振ってやってきたのは、よっちんだった。
「よっちん!久しぶり〜」
両手を広げて、たまきが抱きつきに行く。
「おー、たま!……なぁーんが綺麗になったんじゃない?」
たまきを抱きとめたよっちんがそんなふうに言うと、「へっ!?そんなことないよぅ。……よっちんこそ、相変わらず美人だね」
と、たまきは照れながら謙遜して、よっちんの顔を眺めた。
「なにその、返し!どこで覚えたー?」
「えぇー?初めから備わってるでしょー?もー、よっちんやめてぇ」
くしゃくしゃに頭を撫で回すよっちんに、たまきは抵抗しつつも楽しそうに笑っている。
もともとはみんな、陸上部で普段は日焼け止め程度で、あまり化粧っ気がなかったが、大学生になってオシャレを楽しむようになって垢抜けていった。
たまきも得意ではないのだが、動画を見ながら練習している。大学で出会った友達に可愛い人が多いのと、ちょっぴりでも、梧からも可愛く見られたい。
じゃれ合うたまきたちを遠巻きに眺めながら、
「お前だけじゃないのな……、仲良いの」
「うちら陸上部は超仲良いからね。羨ましかろう」
なんだか疲れた顔で琉輝が言うと、さっちょんは胸をはって、自慢げな顔をする。
「だっ……れがそんなこと……!思ってねぇし。羨ましくなんかないっつーの」
それを聞いて、さっちょんが呆れた顔で、
「素直じゃないねぇ」
と、ため息をついた。
反論しようとした琉輝だったが、
「やっほー、さっちょん」
作業をしていたさっちょんの元に、よっちんがやってきて声をかけたので、口を噤んだ。
「やほー。一昨日ぶり?」
「そーねー」
「やっぱし、よっちんとさっちょんは頻繁に会ってるんだ?」
たまきが少しだけ羨ましそうな顔をして聞くと、
「まぁ、家近いしね。徒歩で行けるし」
と、よっちんが答えた。
「そういや、よっちん。彼氏と来るんじゃなかったの?」
さっちょんが首を傾げて聞くと、よっちんは苦笑いを浮かべる。
よっちんには、高一の頃から年上で幼馴染の彼氏がいることは、たまきも知っている。
会えるかと思ったのに、少し残念に思った。
「あー……。ちょっと用があってね。今日は私一人。そのうち、こは来るでしょ?一緒に回ることにしてる」
「……ん?なんかあった?まさか、喧嘩とか?」
その表情の変化に、さっちょんは眉間に皺を寄せた。
「んー、あはは」
「えっ!うそ。よっちんたちの喧嘩なんて聞いたことない。何があったの!?」
「うーん……。あ!……そう言えば、聞いたぞー、たまきさん!王子と付き合ったんだそうですねぇ!」
さっちょんの質問には答えないばかりか、思い出したようによっちんが明らかに話を逸らして、さっちょんは違和感を覚えた。
「えっ!?あ……はい……」
たまきの方は質問の方に驚いて、よっちんの違和感には反応できず、控えめに返事をする。
「照れてんのかーわいー。で?今日はその彼氏は来るのかなー?」
その一言に、琉輝に緊張が走る。
たまきが付き合っているのは仕方ないとあきらめてはいるものの、やっぱり目の前で二人でいるところは、できれば見たくなかった。
「……んー、多分来れないと思う。今日、忙しいみたい」
たまきは寂しそうだったが、その答えにほっとした。視線を逸らした先でふと、さっちょんと目が合い、睨まれる。
「……な、なんだよ?」
小声で聞くと、
「たまきの幸せ、邪魔したら怒るかんな?」
と、返ってきた。
「そんなことしねぇーわ」
そう答えると、さっちょんは疑いの目を向けたが、琉輝は睨み返した。
「えっ、仕事?」
「そう」
しょんぼりしたたまきの頭を撫でつつ、
「そっかー……、それは残念。ラブラブなとこ見たかったのにー」
よっちんがわざとらしくたまきの顔を覗き込みつつ言うと、
「私もー」
と、さっちょんも近づいて反対側から覗き込む。
「み、見なくていいってば!」
さっちょんとよっちんの顔を交互に見ながら、たまきが慌てた。
「おっ、ラブラブは否定しないんだ〜」
「そっ……!そういうわけじゃないよ!」
「ま、今年だけじゃないしね。来年でも、そのラブラブを見せてもらいましょーよ。ね、よっちん?」
さっちょんがニヤニヤしつつ言うと、
「……ん?あー、うん。そうそう」
と、笑みは浮かべていたが、よっちんは妙な間をおいて、曖昧に返事をした。
様子のおかしいよっちんを、さっちょんは訝しむ。何か言おうと口を開いたが、
「揃ってんねー」
と、声がかかって、みんなの意識がそちらに逸れた。
「心悠ぅ!」
たまきが真っ先に2人の間から抜け出すと、心悠の胸に飛び込んだ。
「お、おぉ?情熱的だね、たまき」
驚きつつもたまきを受け止めて、ぎゅっと抱きしめる。
「会いたかった……!」
「私も……!」
2人の熱い抱擁を眺めながら、
「……ある意味こはがたまの本命みたいなとこあるけどねぇ」
よっちんがニヤついた。
「ん?あぁ、そういうことか。……結局、梧さん来れないって?」
「たぶん……」
心悠が聞くと、沈んだ顔でたまきは頷く。
その顔を心配そうに見つめた後、心悠はもう一度ぎゅっと抱きしめた。
「んじゃー、梧さんが悔しがるくらい、私と楽しもうよ」
たまきの顔がぱあっと明るくなった。
「ありがとー!心悠大好き!」
と、抱きしめ返す。
またも現れたたまきの友人とのラブラブっぷりに、感情を殺した表情で黙々と模擬店の作業を続けた。
友人と楽しそうにしているたまきの表情を見て、琉輝の立場ってなんなんだろうかと、心に虚しさが広がる。
「「私たち、ね」」
よっちんとさっちょんが声を揃えると、心悠はにやっと口の端を上げ、
「ふーん?私に勝てるって?」
と、自慢げな表情で、たまきに頬を寄せ、抱き合う姿を見せつける。
「きぃー!離れて、たま!」
さっちょんが、屋台の外へ出て心悠たちの方へ駆け寄り、たまきと心悠の間に腕を差し込んだ。
「わわっ!」
心悠からたまきを引き剥がすと、さっちょんはたまきを抱き寄せた。
「今、一番一緒にいるのは私なんだからねっ!」
「……なーるほど?」
心悠が引き攣った顔で口の端を上げる。
さっちょんと心悠が睨み合う中で、
「あんたらどれだけ、たま好きなんだよ」
と、よっちんが楽しそうに笑う。
騒々しいやりとりを横目で眺めつつ、琉輝はふっ、と口元を緩めた。
たまきをめぐる序列では、どうやら心悠がダントツで一番らしい。いつもたまきと仲が良い自慢をしているくせに、さっちょんは一番じゃないということが、普段の溜飲を下げるようだった。
思えば、しょっちゅう“こはがいないから”と口にしていた気がする。それはこういうことだったわけだ。
「……ねぇ……、りゅーきくん、何笑ってんの?」
しかし、さっちょんの低く冷たい声が聞こえて、琉輝はビクッと身を震わせた。
恐る恐るさっちょんたちの方へ首を捻ると、たまきを抱きしめたまま、睨みつけるさっちょんと、たまき、心悠、よっちんの全員からの視線が、琉輝に注がれていた。
「えっ……?」
じゃれ合っていたから、まさか気付かれるとは思いもしなかった。
冷や汗が吹き出し、青ざめる琉輝に、
「あー、あれが噂の……」
「りゅーきくん」
心悠が言った言葉を、よっちんが引き継いで名前を呼んだ。
「噂?……りゅーくんって噂になってるの?」
さっちょんの腕の中で、たまきが2人を見つめて首を傾げる。
「……まぁ」
「ねぇ」
心悠とよっちんはお互いに顔を見合わせたあと、たまきを見る。
「え?なになに?」
たまきは驚いた顔でさっちょんの腕の中から抜け出した。
心悠たちのその反応に、琉輝は嫌な予感がよぎる。
「……お、おい!さっちょん、なに俺の知らないとこで噂してんだ!?」
「なんだろーねー?」
焦る琉輝に、さっちょんは不思議そうな顔をして、わざとらしく肩をすくめた。
2人には、琉輝が“たまきのことを好きな幼馴染の青年”として、報告してあるだけのことなのだが。
「なんなの?みんな知ってるのに、私だけ知らないの?りゅーくんは私の幼馴染なのに?」
不満そうに口を尖らせるたまきの顔を見て、琉輝は軽率にも嬉しくなった。
それは、自分より周りが琉輝のことを知っていることに対する、嫉妬だったりしないだろうか?
……いや、恋愛的な意味ではないことはわかっている。
それでも、他の人と琉輝との仲より、自分と琉輝の方が仲良くありたいと思ってくれるなら、少しは報われる気がした。
「えー?たま、知りたい?」
さっちょんの面白がるような声が聞こえて、少し浮かれていた心に、冷や水を浴びせられた心地がした。
「おい、さっちょんテメェ……」
「知りたい!」
何を言うつもりだ、と言おうと睨みつけていたが、それをたまきの無邪気な声が遮った。
「たまき……!?おまっ……」
慌てる琉輝に、たまきは頬を膨らませる。
「え?なんで?ダメなの?私とりゅーくんの仲なのに?」
どんな仲だよ!と叫びたくなる気持ちを堪えて、琉輝が口を引き結ぶ。
バラされるのは死んでも嫌だが、頭の中では“私とりゅーくんの仲なのに?”がリフレインしている。
「おっとぉ……」
たまきの発言に心悠が小声で反応し、よっちんも口元を押さえる。
憐れみと好奇が入り混じる2人の視線に、琉輝は耐えきれずわなわなと震える。
「……お前らなぁ……」
「え?どうしたの、りゅーくん」
顔を赤くしたり青くしたりしている琉輝を心配して、たまきが声をかけた。
「今のはたまきが悪いかもなー」
呑気な声で付け足すさっちょん。
「え?私何もしてないよ!?」
驚いて、琉輝とさっちょんの顔を交互に見ながら、
「どういうこと?……りゅーくん、私のこと嫌いだったとか?」
「は、はぁ!?お前を嫌いなわけねーだろ!」
悪気はないとわかっていても、琉輝の感情は振り回される。
「わーお」
よっちんが小さく声を上げた。
“私のこと嫌い?”に対して“お前を嫌いなわけねーだろ!”は、もはや告白ではないかと、周囲がざわつく。
当の本人たち2人だけが、そのことに全く気づいていなかった。
「あーもう!……自分が彼氏できたからって調子乗ってんじゃねーぞ!?」
言うと琉輝は、屋台から出て、たまきの方へ近づく。
「えぇ!?……ちょっ、調子なんか乗ってないよ!?」
言いながら琉輝と一定の距離を保つように、後退りする。
「おでこ出せ……」
目の据わった琉輝のただならぬ様子に、慌ててたまきはおでこを両手で隠すと、その格好のまま逃げ出す。
「待て!」
たまきと琉輝の追いかけっこが始まった。
「……これはまぁ……たまきが悪いかな」
言った後、心悠は軽く準備運動を始め、いつ止めに入るかを見計らっている。たまきの膝に支障が出ないうちに止めないとならない。
「しっかし、不憫だねぇ。りゅーきくん」
憐れむよっちんに、
「たまには完全に意識されてないし、王子には敵いっこないし」
本人には聞こえてはいないが、さっちょんは追い打ちをかける。
「さぁて、そろそろかな?」
準備運動を終え、琉輝に照準を合わせ始める心悠をよそに、
「……ん?」
よっちんが、たまきたちとは違う方向に視線を投げた。
何やら、群衆の一部がざわめいた気がしたのだ。
「どーかした?よっちん」
さっちょんが聞くと、よっちんは「あっ」と声を上げ、驚きに目を見開いている。
「なに?……んー?」
目を凝らしてよっちんのその先を見ると、さっちょんも何かに気づいて「……えっ!マジ?」と嬉しそうに顔を緩ませ、興奮したように心悠の背中を叩いた。
「いたっ!なに?さっちょん」
臨戦態勢だった心悠が眉根を寄せてさっちょんの方を振り返ると、その顔が人混みの方に釘付けになっていて、心悠もそっちを見た。
「あ……」
小さく声を上げ、慌ててたまきと琉輝の様子を確認する。
「逃げんな!たまき!」
「やだぁ!りゅーくんのデコピン痛いもん!もぉ、なんで!?私、何にもしてないのに!」
何も気づかず、2人は追いかけっこを続けている。
「……あれ、止めないとヤバくないか?」
よっちんが言ったのを聞いて、
「たまき!」
心悠が大声でたまきを呼んだ。
「心悠!?え?何?」
逃げ回りながら心悠の方を見ると、両腕を頭上でクロスして、バツを作っている。
琉輝を気にしつつ、たまきはおでこの手を離さないまま、速度を落とした。
バツの後に、たまきの後ろを指さしている。
「バツ?なに?どゆこと?」
それを好機と捉えた琉輝がその手を伸ばそうとしたその瞬間だった。
琉輝の手に気付くのが少し遅れ、避けようとしたたまきが少しよろけた。軽く、背中が誰かにぶつかる。
やってしまった!とたまきは思った。
心悠が知らせてくれたのは、人がいるから気をつけろと言うことだったのか、と思って、すかさず、
「ごめんなさ……」
と、謝って振り返ろうとしたが、そのまま、背中側から腰に手を回され、おでこを隠しているたまきの手を大きな手が包んだ。
ふわりと香った匂いにたまきはハッと気づいて、そのまま顎を上げてその人を見上げる。
「……何してるんだ?たまき」
上から覗き込んできたのは、思ったとおり梧だった。
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—————会えてないんだって?なんで早く言わないんだよ。こっちはどうにかするから、すぐ行ってこい。
時雨に背中を押され、梧は大学に向かった。
正門の入り口に到着すると、その人波に驚く。
大学の学祭ともなれば、敷地も広いし、規模も今までの比ではない。
今日、たまきはサークルの模擬店に出ると言っていたから、受付でもらった案内図をもとに、そこへと急いだ。
こうして人波をかき分けて進んでいると、たまきを初めて見つけた、中学の文化祭を思い出す。
時雨が紫露の文化祭に寄りたいと言うから、付き添うだけのつもりが、偶然にもハルの生まれ変わりを見つけて、前世の後悔に苦しんでいた梧の日々が、息を吹き返しそうな予感がした。
ただ、たまきは何も覚えていなかったから、ハルが前世の関係を、今世では断ち切りたいという意思がそこにあるのかと思い込んで、梧はこれ以上関わらずにいようと思っていた。
だが、縁はつながり、たまきは梧の前世の後悔を溶かしていった。
たまきが……病気になり、それでも奇跡的に回復して、たまきにとって最初で最後の高校の文化祭では、すれ違いから、たまきに拒絶されたと思って梧は塞ぎこんだ。
たまきのいない人生など、どうでも良くなるくらいに。
だが、すれ違いを越えて、梧とたまきは想いが通じ、今回はその後初めての文化祭だ。
文化祭は出会った場所で、すれ違った場所だから、いい思い出に塗り替えたいという思いが、梧にもあった。
もしもたまきが、学祭に来て欲しいと思った理由が、梧と同じだったなら、と、淡い期待を抱いて、たまきを探す。
「逃げんな!たまき!」
誰かがたまきの名前を呼ぶ声が聞こえて、梧は首を巡らせた。
男の声だった。
「やだぁ!りゅーくんのデコピン痛いもん!もぉ、なんで!?私、何にもしてないのに!」
今度はたまきの声だ。
あまり梧の前では出さないような、少しはしゃいだような声に聞こえる。
ざらりとした感情が、梧の中に生まれた。
翠と話して、引いたはずの焦りがジリジリと胸の奥で燻り始める。
梧の視界に、走り回る学生の姿が入ってきた。
往来ではなく、屋台の裏側で追いかけっこをしている。
1人は紛れもなくたまきで、もう1人は、……以前カフェでたまきと一緒にいた男に、背格好が似ていた。
梧は自然と歩調が速くなった。
「たまき!」
心悠が叫ぶのが聞こえた。
御堂が来ているのか、と頭の隅をよぎるが、視線はたまきから逸らせなかった。
梧に背を向けたままのたまきが、速度を緩め、男がたまきに手を伸ばすのが見える。
—————嫌だ。
頭に血が上り、その言葉だけが梧の頭の中に浮かんだ。
たまきがその手を避けようとバランスを崩した。梧はその背中を受け止める。
「ごめんなさ……」
誰かにぶつかってしまったのだと思ったたまきが、謝って振り返ろうとする。
だが、梧はその腰に手を回して、抱きしめた。
額を覆っているその手を包みこみ、梧はたまきの顔を覗き込む。
「……何してるんだ?たまき」
見上げてきたたまきの表情が、梧を見つめたまま固まった。
自分がどんな顔をしているのか、それがたまきに見せていい表情なのか、自信がなかった。
たまきが固まって怖がるほどの表情をしているのかもしれない。
梧は視線を、たまきの方へ手を伸ばしていた琉輝に向けた。
目が合うと、彼は慌ててその手を引っ込めたが、それ以降は、蛇に睨まれた蛙の如く、動かなくなった。
感情が抑えられず、頭がくらくらしてどうにかなりそうだった。
ふと、梧の腕の中で、たまきがみじろぎする感覚があって、無意識に力を込めてしまっていた腕を緩めた。
くるりと体を反転させ、スーツの襟を遠慮がちに掴んでくる。
梧と目が合うとたまきは目を細め、笑みを向けてきた。
梧の心臓が、震える。
さっきまで昂っていた感情が、たまきの表情ひとつで、すっと穏やかに引いていくのがわかった。
「梧さん、来てくれたんですか?」
梧が怒りに支配されていたことを、まるで気づいていないかのようにたまきが弾んだ声を上げたので、梧は面食らう。
「あ、でも……お仕事は……」
たまきは表情を曇らせた。
なぜかわからないが、たまきは、額を覆う手はそのままで話し続けていた。
梧は心に余裕ができたのか、その格好が可笑しくてふっと破顔した。
目の前で硬直している男など、もうどうでもよかった。
たまきの額からその手を剥がし、そっと握ると、たまきが「あ」と、自分が額を隠したままだったことを思い出したようで、恥ずかしそうな顔をする。
「……仕事は、時雨たちが代わってくれた」
そう言うと、たまきはほっとした表情を見せる。
「……たまきは……、待っててくれたのか?俺が来るのを」
その質問にたまきは目を見開いたが、ためらいがちに顎を引き、頬を染めて頷く。
梧の胸の奥が熱く締め付けられて、愛おしさが込み上げる。
会えない間考えていた、たまきと梧の想いが同じものじゃなかったらという不安も、嘘のように消えていった。
たまきもきっと、同じ気持ちでいてくれると、信じられる気がする。
今はただ、感情のままにたまきに触れたかった。
梧はたまきの額に優しく口付けを落とす。
唇にしなかったのは、ほんの少し残った理性のおかげだろう。
ゆっくりと顔を上げた梧は、穏やかで甘い笑みを浮かべ、たまきを愛おしげに見つめたまま、いつものように頬に触れる。
たまきは一瞬、何が起きたのか分からず思考停止したが、一拍置いて、周囲から「ひゃあああ!」と奇声が上がって、たまきはここが大学の構内だということを思い出した。
その途端に全身の血が沸騰したのかと思うくらい熱くなり、自分でもはっきりとわかるくらい、真っ赤になった。
「……はわっ……、ひょっ……」
恥ずかしさから動けなくなったたまきが、意味不明の声を上げる。足に力が入らず崩れ落ちそうになって、
「……たまき!?」
梧が慌てて受け止める。
「足が痛むのか?」
心配で切迫した声を出したが、たまきは梧の胸にもたれながら、首を横に振った。
「……る……」
「うん?なんだ?……どうした、たまき」
たまきが何かを呟いた声が聞こえて、梧が聞き返した。
「……こはるぅ……」
自分ではこの状況をどうしたらいいかわからなくなったたまきは、弱々しい声で心悠を呼んだ。
……梧は、感情のままにやりすぎたのかもしれないと内心反省しながら、顔を上げて、
「……御堂」
と、呼んだ。
「……んぇ?私?」
目の前で繰り広げられた甘いやりとりを、呆気に取られて見ていた心悠は、突然名前を呼ばれて驚いた。
梧の手招きに、2人の元へ駆け寄った。
「……たまきが呼んでる」
気まずそうな顔の梧の言葉に頷いてから、たまきの肩に触れた。
「たまき、どした?」
声をかけられると、半泣きの顔で心悠を見上げ、「心悠ぅ……」と、子供のように腕を伸ばしてきた。
梧の顔色を窺うと、なにやら反省している子犬のような顔で頷いたので、心悠はたまきの手をとって抱きよせる。
「どーした、たまき」
首に手を回して抱きついてくるたまきを、子供をあやすように頭を撫でて宥める。
「おやぁ、誰かと思ったら君でしたか」
そこに一人の白衣の男性が現れた。
おそらく教授だろう。
ふと、心悠の脳裏に、さっちょんから聞いていた話がよぎる。この人はもしかして、と思った時、
「なんでここにいるんですか、……父さん」
と、梧が驚いた顔で、その男性に声をかけたのだった。




