74 許すこと、許されること
夏休み中、心悠はほぼ毎日のように自主練も含めて夕方まで陸上の練習をしていた。
心地よい疲れを感じながら、その日も心悠が帰り道を歩いていると、路肩に見知った顔を見かけて、眉間にしわを寄せた。
その横を、無視して素知らぬ顔で通り過ぎようとしたら、
「ちょ、ちょっと!無視しないでよ、心悠先輩!」
と、声をかけられて、心悠は仕方なく足を止める。
「なに?何か用ですか?霜槻くん」
「……それ、やめてよ」
わざと他人行儀に言うと、紫露は悲しそうに眉尻を下げて返してきた。
その表情に、ほんの少しだけ罪悪感がよぎるが、心悠は態度を大きくは変えなかった。
黙っている心悠の表情をちらっと確認した後、短く息を吐いて、
「すみませんでした!」
と、紫露は頭を下げる。
「……何が?」
意地の悪い言い方だなと思いながらも、心悠は簡単に許すとは言い出せずにそう言った。
「……あー、えっと、心悠先輩なんて関係ないって、言っちゃったこと……」
ゆっくりと顔を上げながらも、紫露はうつむきがちにそう答える。
目を合わさない紫露にも、少し苛立ちを覚えつつ、
「……まぁでも、本当に関係はないから、間違ってはないんじゃない?間違ってないなら、謝る必要はないよね」
相手の逃げ道をふさぐような言い方は、良くないとわかってる。でもなんだか、上手く自分のことをコントロールできなくて、そういう言い方しかできなかった。何をこんなに意地を張っているのかもわからない。
「それはさ、そのこと自体に関係はなくても、心悠先輩は心配してくれてたのに、そんないい方しなくても良かったなって……意味でさ」
紫露は顔を上げて目を合わせたが、怒っている顔の心悠を見て、また気まずそうに視線をそらした。
「とにかく、反省してます!許してください!……たまき先輩にも怒られるし……、俺、二人から嫌われたらもう生きていけない」
紫露は再び深く頭を下げて、そう言い、なかなか顔を上げてこない。
ここまでしているのだから、もういいよと許してあげればいいのに、なんだか心悠は胸のもやもやが収まらなかった。
たまきと話して、心悠の気持ちに寄り添ってくれていた時には、少しすっきりして、許せそうな気がしていたのに。
「……たまきに言われなかったら、来なかったってこと?」
もうこれじゃあ、揚げ足を取っているだけだ。
「違うよ!……まぁ、背中は押してもらったけど……、このままじゃいけないとはずっと思ってて……」
「……なんで?」
「……なんでってそりゃ……、俺、心悠先輩に嫌われたままなんて嫌だから」
「……それが、なんでよ?別に、頻繁に連絡とりあうわけでもないし、困ってなかったでしょ?」
心悠は、紫露から何を聞きだしたいのか、自分でもわからないまま聞いていた。
「はぇ?なんでって……?困って……、困ってなかったわけじゃないっつーか……、俺……その、なんていうか……
、マジ……キモイかもしんないけど、……ぜ、前世の記憶があってさ」
紫露は緊張で青ざめながらも、心悠から目を離さずに、話し始める。
心悠の喉につっかえていたものが、なぜか、徐々に下がってくるような感覚がした。
「……知ってる。たまきから聞いた」
「へっ?」
紫露は間の抜けた顔をした。
「あー……いや、あんたが何者かは聞いてないけど、たまきと梧さんが前世で関わりがあったことは知ってる。紫露んちの両親もそうだってことも。紫露もそうなんだ」
今まで胸を覆っていたもやもやが嘘のように晴れてきて、心悠は自然と苗字呼びをやめていた。
「……えぇ~?なんだよぉ、めっちゃ勇気出したのに、そんなあっさり……」
紫露は、たまきに前世のことを話す時くらい、いや、それ以上に緊張しながら話したのに、聞いていたと言われて脱力し、しゃがみこんで頭を抱えた。
「……それは……ごめんだけど」
心悠のその静かになった声を聞いて、紫露は怒りが収まっていることに気づく。
顔を上げると、ほっとした表情で心悠に微笑みかけた。
「……許して、くれんの?」
首をかしげて、可愛い子ぶる紫露を見て、心悠が腕組みをして怪訝そうに顔を顰めた。
頬のあたりに握った手を持ってきて、ダメ押しにウインクをして見せる紫露。
心悠がその頭をこぶしで軽く小突くと、
「調子乗んな」
と、低い声で言った。
「いてっ。……も~、心悠先輩、素直じゃないんだからぁ」
大して痛くもないのに、大げさに頭を押さえて立ち上がると、心悠が睨みつけてきた。
「は?そういう態度なら許さないよ?……たまきにも報告するわ」
「あっ、嘘です。すんません。調子乗りました」
ぴしっと気をつけの姿勢を取ると、紫露は心悠に向かって敬礼をして見せる。
「ん。仕方ない。許してやる」
それを聞いて、紫露は途端に破顔し、歯を見せて笑った。
その紫露の表情に、心悠が一度、面食らったように目を見開いた。
けれど、すぐに肩をすくめて下唇を出して見せ、ようやく本来の笑顔になる。
紫露はそれを見て、目を細めて穏やかな表情でその心悠を見つめてから、
「……っは~、マジ良かったぁ~」
と、ほっとして胸を撫でた。
「私も……ごめん。ちょっと意地になってた」
気まずそうな顔をした心悠に、
「ん。それは、そんな感じしたけど。まぁ、悪いのは俺なんで。それは良いっす」
ポケットに手を突っ込み、嬉しくてニヤけた顔で答えるが、心悠は紫露のその言い方に引っ掛かったようで、片眉を上げる。
「……なんか……その言い方、ムカつくな?紫露のクセに」
「え、なに?俺のクセにって。それはひどくない?不問にしたのに」
口を尖らせる紫露に、
「それだよ!不問って上から目線じゃん」
と言って、心悠が指摘するように紫露に指を向けた。
「はぁ?そんなつもりないし!もー、やめやめ!そういうのなし!俺、心悠先輩と喧嘩したくないし」
紫露は不穏な空気を壊すように、両手を振る。
「……私も別に、紫露に喧嘩売ってるつもりないんだけど」
「そーかなー?……まぁ、心悠先輩らしいっちゃらしいけど」
首を傾げた心悠に、そう言って笑いかける。
「……まぁ……良かったっす。許してもらえて」
はにかんだ顔で、紫露が言うと、心悠が頷いた。
「……帰りましょうか。送ります?」
「いいよ。もうすぐそこだもん。紫露の方が気をつけて帰んなよ」
「あー……はい。じゃあここで。……また連絡します」
久しぶりの心悠とのやり取りをちょっと名残惜しく感じながら、紫露は言って軽く頭を下げた。
「おー。……今度はちゃんと返事返せよ?」
「それは、もちろん!もういろいろ解決したんで」
「そ?……それって、私も聞いていいやつ?」
「あ、うん。心悠先輩が嫌じゃなければ」
「……じゃあ、今度聞かせて」
心悠の表情が、なんだか嬉しそうに見えた。
夕暮れ時の逆光で、見間違えたのかもしれない、と紫露は思ったが、目が離せなかった。
「じゃ、またね」
そう言って背を向ける心悠を、しばらく立ちすくんで見つめた後、紫露も踵を返すと帰路についた。
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「……気が狂いそうですよ、会えないなんて……。たまきは俺と会えなくても、仕方ないと理解して我慢できるのに、俺の方はまったく……」
そこまで言って、梧がため息をついた。
何がどうなってこんなことになったのか、翠はスウェーデンのダイニングバーのようなところで、食事をつまみながら困惑していた。
スウェーデンでの仕事で数日がたち、外で食事をとりましょうと梧に誘われたのは良いものの、少し酔いの回った梧がそんな正直に気持ちを吐露してくるとは思わず、翠は驚いた表情で彼の方へ視線をむけた。
彼は、カウンターの上で組んだ手に、額を乗せて俯いている。
「……毎日会いたい、できることなら帰る家に居てほしい。毎日のように欲が増すんです。大人ぶってたまきのお祖父さまの提案を保留にしないで結婚の話を進めればよかったと思うくらいに……」
何やら葛藤している梧の言葉に、翠は動きを止めた。
「……ん?……待ってください。結婚の許可……いただいているんですか?」
付き合ってから2回しか会っていないのに?と、思ったがそれは口にしなかった。
おおかた梧のことだから、付き合ったその日に挨拶にでも行ったのだろうと胸中であたりをつける。
「許可というか……、お祖父さまが年齢を気にされていて、早く花嫁姿を見たいと……」
「ん?おぉ……。……あれ?そのこと、霜槻さんには……?」
「……あれからバタバタしていて、その話まではしていません……」
半分ほどビールの残ったグラスを撫でながら、梧は答えた。
「あぁ、なるほど」
知っているとすれば、やけに時雨が静かだなと思っていたが、伝えていないと聞いて納得した。
知っていれば、今頃大騒ぎで具体的な日程が決まっていきそうな感じがする。
ふと、関係ないのに、翠は妙に緊張してきて、居住まいを正して、「んん」と喉を鳴らして整えた。
「……と、なりますと……、祖父母の方は反対していないから……結婚はいつでもできると……?」
「……いや、たまきの方はそういうわけには……。学生ですし、まだ結婚なんて考えてもいないようでしたから」
「あ、そうですか。それもそうか……」
でも、逆にたまきの気持ちさえ決まれば、結婚まではスムーズということである。
羨ましさも少しありつつ、翠は頬が緩んだ。
そうか、結婚してもいいんだな。ふと、そんな言葉が頭をかすめる。
前世の記憶はないのだが、緝から前世の話を聞いているせいか、そんな風に思ったのかもしれない。
だが、それとは別に肩の荷が下りたような安堵感が胸に広がった。
「……孤崎さんは、森庵に触れたいとか、そういうことで相手とのズレはないんですか」
「はいぃい?」
油断していたところに、突然、思いもよらないことを聞かれて、声が裏返ってしまった。
なんてことを聞くんだと顔を上げると、梧の表情は真剣そのものだった。
「……いや……、あの……そーゆープライベートな話は……」
苦し紛れにそう言って回答を避けると、
「あぁ……、それはそうですね……。不躾に、すみません」
「あ。いえ……」
残念そうな表情をして、グラスを傾けた梧を見て罪悪感が残る。
翠もそういう悩みがなかったわけではない。男同士だし、相手はかなり年下だ。
どうやって、どこまで触れていいかどうかはさんざん悩んだし、本当にいいのかという葛藤は常にあった。
翠の場合、緝の方が割と積極的なことに助けられている一面もあり、一緒に暮らしていく中で、話し合ったり喧嘩したりしながら、折り合わせてきたところもあるから、こうだからこうすれば?というような模範解答のようなものは持ち合わせていない。
「……お、お嬢さんの方が、嫌がっている、とかですか?」
自分でプライベートだと断っておきながら、聞くのはどうかと思ったが、梧は首をかしげただけで、それを責めることはなかった。
「……嫌がっているというか……この前は、泣かせた後にキスしようとして、拒否されました」
そういうことも言っちゃうんだ……。と、内心思いつつ、酔いがさめて我に返った後、梧が後悔しないと良いなと願った。
「……俺ばかり、触れたいと思っているのかと思うと……、なんというか……、自分の自制のなさが恥ずかしいという気持ちと、たまきと気持ちのズレがあるんじゃないかとか、いつか暴走して……たまきを傷つけるんじゃないかと……」
そう言うと、苦しそうな顔で胸元を押さえた。
その表情が、あまりにも深刻さを帯びていて、翠は眉根を寄せた。
「……もしかして……、ハルのこと、思い出してますか?」
問われて、梧の目がハッと見開いた。その後、頭を抱えるようにして、テーブルに突っ伏する。
翠は眉間にしわを寄せたまま、梧の肩に手を置く。
「そのことは、解決したんじゃないんですか?ハルはあなたのことが好きだったんでしょう?望んで受け入れたって聞いてますよ」
「……わかってます。聞いたし、嬉しかった。前世の想い出の、何もかもが違って見えた。……だけど、今世の……、たまきが同じかはわからない。彼女はハルの記憶がないんですから。そもそも俺の好きとたまきの好きは一緒なのかとか……いろいろ考えてしまって」
……これはまた重症だなぁ……と、翠は自分の額を打った。
翠としても、身に覚えがないわけではない。散々釣り合うかどうかを悩んだ過去がある。
未だに緝の家族に許されていないことで、口には出さないが、このままでいいのかと考えている。
突っ伏したまま、深いため息をつく梧を横目に、翠はグラスに残ったビールを飲み干し、もう一杯注文した。
翠もため息をついた後、少し迷いながらも、口を開く。
「……触れたいっていうのは、まぁ……、本能みたいなところはありますけど……」
静かに話しだした翠の声に、梧がゆっくりと顔を上げる。
「結局は、確かめたいんじゃないですかね?……どこまで自分が、相手にとって許容されているのか、許容できるのかっていうことを」
「……許容?」
聞き返してきた梧をちらっと見てから、翠は苦笑いを浮かべた。店員からビールを受け取り、一口飲んでから、
「究極、俺たちは、自分が相手の居場所になって、相手が自分の居場所になることを望んだりしますけど、そこに至るまでってやっぱり怖いじゃないですか。拒絶されないかな、本当は嫌なのに無理してるんじゃないかなとか。今の海風さんみたいに考えちゃうことは、俺にもありますよ」
そう続けた。
「……触れていいって言われることは、受け入れてもらえてるって確実にわかることでしょう?許諾を形として、認識できる。だから、安心するんじゃないですか?……逆に、拒否されると不安になる」
なんだか、その翠の話が、梧の中で妙に腑に落ちた。
梧が尊敬のまなざしでじっと見つめていると、翠は照れかくしでビールをあおり、グラスを半分ほどを空けた。
「……いや、それだけじゃなくて、純粋に愛しいっていう、愛情表現の意味もありますよ?触れたいっていうのは。……けど、不安を手っ取り早く解消しようとする道具にもなりえてしまうっていうことです……」
「……何となく、わかります」
自分のグラスに視線を落とし、それを一気に飲み干すと、梧も、もう一杯注文した。
「どうしたらいいんでしょう」
不安げな顔で、梧が呟いた。
翠は、そう問われて少しの間考えながら、緝のことを思い浮かべた。
緝と一緒にいるとき、翠は以前ほど不安を感じない。
その理由は、一緒に暮らしている、ということだけではない気がする。
「……話をするしか、ないんじゃないでしょうか。まぁ、手っ取り早く一緒に暮らすとか、会う回数を増やすことで言葉以外でも仕草とか、雰囲気とかでわかってくることもあると思いますが……。そればかりに気を取られてしまうと、気持ちが置き去りになることもあるので。……まだ自分の中で形になっていないことも、ゆっくり言葉を交わしているうちに、どうしたいかが見えてくることもあると思います」
目からうろこが落ちるような思いだった。
あんなにじりじりと胸の奥で燻っていた焦りが、消えていく。
「お嬢さんもまだ、海風さんと付き合えたことに戸惑っていて、自分がどうしたいかがわかっていないだけかもしれないです。本当に嫌だって意味の拒絶ではないんじゃないですか?」
「……そう、かもしれません」
梧はたまきの表情を思い出しながら、そう呟いた。
記憶の中のたまきは、いつも赤い顔で照れているようだった。まだ状況に頭がついていっていないだけで、嫌がっているようには見えなかった気がする。
運ばれてきたビールを受け取り、すぐに口をつけた。
「……“恋人”だから、“夫婦”だからこうすることが普通なんだって行為を急ぐよりは、今のうちに行為に至る気持ちを確かめ合った方がいいかもしれません。……って、なんか、偉そうだな。俺……。俺も恋愛経験豊富なわけじゃないんで、これで正解とは……言い切れないんですけど」
自信なく、翠が予防線を張ると、梧は首を横に振った。
「いえ、その通りだと思います。焦っていて、大事なことを見落とすところでした。……まぁ、でも……たまきに会いたいのも、触れたいのも変わりませんが……」
そう言った梧の横で、翠がはははっと笑った。
「……俺も、早く緝くんに会って触れたいんで、それは良いと思います」
それを聞いて、梧もははっと声を出して笑う。
二人はビールを飲んで、はぁ、と息を吐いた。
「そうと決まれば、早く不具合を解決して、帰らないとですね」
「……気持ちはそうですが、仕事に関しては時間いっぱい、他のシステムも含めて確認作業まできっちりしないと、もう一度来るのは嫌ですから」
酔って弱々しく恋愛相談をしてきたとは思えないほど、梧はきっぱりと言った。
さすが経営者と言うべきか、真面目というか、冗談として流してくれないのもまた、梧らしいな、と、翠は思った。
「あー……、はい」
ビールを一口飲んでから、翠は微苦笑を浮かべて、そう返事をしたのだった。




