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風の行く先  作者: 遥ゆとり
3章 大学編

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「……逃げないから、離して。時雨さん」

 杠葉は諦めてそう呟くと、時雨の腕に優しく触れた。

 僅かに躊躇いつつもその手を解放すると、杠葉は時雨をゲストルームへと案内した。


 ゲストルームに入ると、時雨に一人用の椅子をすすめ、自分はベッドに腰かけた。

 時雨は静かに言われるがまま座り、杠葉に視線を送ったが、目を合わせないように顔を伏せられてしまった。

 ずっと連絡していなかったことを考えると、そんなことでショックを受けるのも筋違いだとわかっている。それでもやはり、心臓が潰れるような痛みが走った。

 

 もちろん、何度も連絡しようと思った。

 

 “帰ってきてください”

 “私にはあなたが必要なんです”

 “あなたが居ないと味気なくて、何もする気が起きない”

 “紫露も待っています”

 

 どの言葉も時雨の一方的な想いばかりで、杠葉の意思を無視している気がするし、心のどこかで“やっぱり家が一番いいわ”と笑って帰ってきてくれるんじゃないかと、期待している自分もいた。

 そうでなくても、杠葉の方から何か連絡をくれるんじゃないかと。


 実際には、一切なかったけれど。


 ふっと、吐息が漏れる音が聞こえて、時雨は顔を上げた。

 杠葉が苦笑を浮かべている。

「……杠葉さ……」

「……あなたっていつもそうね。困ったときは私から話し出すのを待ってるの」

 腰を浮かせた時雨を遮って、杠葉は静かな声でそう言った。

 その声に圧され、時雨はまた座り直した。

 今度は時雨が苦笑いして、静かに目を閉じる。

「……あの時もそうでしたね。大学のときの飲み会で」

「ええ。私の隣に座ったくせに一言も話しかけなくて、立ち去ろうとした途端に慌てて腕を掴んだりして」

「……何を話しかけたらいいかわからなかったんですよ。一度失敗していましたし」

「失敗って、初めて出会った時のこと?」

「そうです。あの時はあなたも前世を思い出してくれると思い込んでいましたし、あなたを見つけて舞い上がっていましたから」

 伺うように杠葉の方を見ると、少し怒ったような表情で口を引き結んでいて、時雨は首筋が冷たくなるのを感じた。

 思い当たることが多すぎて、何が杠葉の怒りに触れたのかわからない。

「あの後、いろいろと噂をされて大変だったのよ」

「……す、すみません……」

 時雨は太ももの上に置いた手を握り込んだ。

 時雨は前世を思い出してから、杠葉と再会した時に後ろ暗いことがないように品行方正に過ごしていたことがあだとなり、杠葉が時雨をたぶらかしたのではと言う根も葉もないうわさが出回ってしまったのだ。

 あの事を杠葉が根に持っていてもおかしくはない。

 その後、杠葉がため息をついた。

「……でも、しばらくするとその噂も消えていったわ。なんだかよくわからなかったけど、教授のスキャンダルとかもっとすごい事件が起きて、それどころじゃなくなった」

「……その頃……でしたっけ」

 時雨は視線を逸らして、はぐらかすような言い方をした。杠葉は時雨の顔を覗き込むように体を動かしたが、時雨は視線を合わせることはなかった。

「やっぱり、あのスキャンダルはあなたが告発したのね?」

 ぎくっと身を震わせたが、時雨は黙り込んだ。

 しかし、その事が余計にそれを確信に近づける。

「そういうところなのよ……」

 独り言のようなその呟きに、時雨は杠葉に視線を戻した。

 杠葉は目を伏せ、寂しそうな顔をしている。その表情に時雨は思わず立ち上がり、杠葉の前に静かに跪いた。



 杠葉の伏せた視線と時雨の視線が噛み合う。

 時雨は眉根を寄せ、苦しそうな表情をしている。でもその瞳は真剣さと誠実さを映していた。

 —————杠葉は、時雨はまた謝るのだろうと思った。

「……聞かせてください。何が“そういうところ”なんですか?」

 けれど、時雨はそう訊いてきた。

 この数か月、こんなことをしても結局何も変わらないまま終わるんじゃないかと思った。

 知らないうちに時雨は外堀を埋めて、杠葉が帰らざるを得ない状況を作ってしまうんじゃないかとも。

 時雨が臆病だからそんなことをしてしまうことがわかっていても、杠葉にとってそれは嬉しいことではなかった。

 そこに、杠葉の意思はないのだから。

「…………全部先回りしてしまうのよ、あなた。私の知らないうちに解決して、素知らぬ顔をするの。私には何の説明もしないまま、肝心なことはいつも伝えてくれない」

「はい……」

「あなたのこと、とても素敵な人だと思うわ。私にはもったいないくらい」

「そんなこと……!」

「聞いて、時雨さん」

 否定しようする時雨の言葉を遮って、杠葉は眉根を寄せた。

「あなたは私のことを愛しているし、仕事も一生懸命。家庭も大事にしてくれて、子煩悩。家事も率先してやってくれるし、何より優しい。完璧だわ」

 時雨は首を横に振る。

「そうね、()()()()()()は完璧なんかじゃないのかも。……なら、どうして完璧に見せようとするの?」

 時雨がそうあろうとする理由は、聞かなくてもわかる気がする。

 でも、時雨の口から聞きたい。聞かなければならない。

 時雨は一度、顔を伏せた。

「……怖いから……でしょうね」

 そのまま震える声で、時雨は言う。

 僅かずつ顔を上げながら、

「……あなたに、愛想を尽かされることが怖い……。俺は、あなたと居られるだけで幸せだけど……あなたにとって俺が、一緒に居たいと思えるほどの価値のある人間かどうかはわからないから」

 時雨の表情は切なげに歪み、懇願するように杠葉の腕を掴んだ。

 言外に“それでも一緒に居たい”と言っているように見えた。

 だけど、その言葉を飲み込んでしまうところもこの人の弱さだと思った。

「どうしてそんな風に思うの?…………前世の私が、あなたを置いていったから?」

 前世の話を拒んだのは杠葉だ。

 だから余計に、時雨の口をふさいでしまったのかもしれない。

 時雨の瞳に、戸惑いの色が浮かんだ。

「……いえ。……いや……それもあるかもしれませんが……、私はあなたほど美人で完璧な人を見たことがなかったから、あなたに相応しくなりたいと……思っ……」

 時雨の顔がみるみる赤くなっていき、言葉が途切れた。

 杠葉は驚きに目を見開いて、時雨のことを目をそらさずに見つめる。

「み、見ないでください……、こんな……情けない姿……」

 時雨は口元を覆い、照れたように杠葉から顔を逸らし、逃げるように背を向けた。

 背を向けてもその耳も首筋も、見える部分全てが真っ赤になっているのは隠しようもなかった。

「……えっ?」

 思いもよらない反応だった。

 杠葉に対峙する時雨は、いつも淡々としていて冷静だった。

 “杠葉さんは素敵です”

 “今日も綺麗ですね”

 “誰も彼も、あなたに敵う人なんて居ませんよ”

 付き合ってから、……いや、結婚してからの方が多かったかもしれないけれど、そんな歯の浮くようなセリフを言うときだって、ここまで赤くなることはなかった。

 せいぜい、頬をほんのり染める程度だ。

 あまりにもさらりと言うから、所詮、杠葉を繋ぎとめるための時雨の作戦の一つだと思ってしまうくらい、時雨の本心かどうかも疑わしかった。

「それって……私のこと?前世の私じゃなくて?……私が完璧じゃないことぐらい、あなたも知っているじゃない。買い物に行って必要なものを買い忘れたり、学校行事の日程を間違えそうになったり……」

「……前世のあなたと今世のあなたの容姿は全く違います。性格だって一緒じゃない。それに、そういう抜けているところはあなたの魅力の一つじゃありませんか」

「……そういう抜けているところを人は欠陥って言うのよ。それに、こんな風に家のことほっぼり出して、わがまま言って、逃げてしまうような人なのよ?私は」

「それはあなたのせいじゃなくて、俺が追い込んだせいです。あなたの魅力とは一ミリも関係がない」

 時雨のきっぱりとした譲らない言い方に、杠葉は唖然とした。

 杠葉が次に言う言葉が見つからずに黙っている間、時雨は深呼吸を繰り返して、冷静さを取り戻そうとしている。

 ようやく全身の赤みが引き始めて、時雨は平静を装う表情で、再び、杠葉に向き合った。

 真正面から見つめると、顎の筋肉に力が入っているのがわかる。

 ……もしや今までも、方法はわからないが赤面するのをこらえていたというのだろうか?

 さらりと言った歯の浮くような言葉も、いつも杠葉の目を真正面から見て言ってくれていたわけじゃなかった。

 肩を抱き寄せたり、頬を寄せたり、まともに顔は見てくれていなかったかもしれない。

 それもまた、想いは伝えたいけれど、照れてしまうからだった……?

 「嘘でしょう……?」

 杠葉は独り言のように呟いて、驚いた顔で時雨の瞳を見つめ返す。

「私は……前世の私の、身代わりじゃないの……?」

「……前世のあなたのおかげで出会いましたけど、俺は……真正面からあなたを見たあの時、一目ぼれしたんです。今世の、杠葉さんに」

 そう言った後、瞳を閉じて唇を噛み、必死に赤くなるのをこらえていた。

 みぞおちのあたりから、愛おしさがこみあげてきた。

「……どうして言ってくれなかったのよ」

「え?」

「一番大事なことじゃない、それ」

「あ、いや、でも……いつも愛しているって伝えて……」

 むっとして、口を尖らせ始めた杠葉に慌て、時雨が言い訳がましく言うと

「前世なんか関係なく、私を愛しているって伝えてくれなきゃ」

 杠葉はそうじゃないとそれを遮る。

「そういう意味で言ってました、俺は……」

「大事なところ、端折らないで」

 だんだんと語気が弱くなっていく時雨に、杠葉は首元に腕を伸ばして抱きついた。

 初めは驚いたのか時雨の腕が戸惑っていたけれど、そのうちぎゅっと腕に力を込めて抱きしめ返してくる。

 ようやく、杠葉は安心して体の力を抜き、時雨に体重を預けた。

「……私も怖かった」

「……すみません」

「あなたたちに、もう必要ないって言われるんじゃないかって」

「そんなことあるわけないじゃないですか」

「10か月も放っておかれたのよ。私が居なくても二人で楽しくやってるんじゃないかって不安だった」

 堰を切ったように、本音が溢れてくる。

「それは……ごめんなさい。……でも、紫露も俺も、あなたがずっと恋しかったです。あなたの手料理もないし、毎日コンビニ弁当やスーパーの総菜ばかりで」

 時雨は杠葉の肩に顔をうずめ、ぐっと杠葉の身体を引き寄せる。

「え?あなただって料理できるでしょう?」

「紫露と二人じゃ作る気起きませんよ。あなたに喜んでもらいたくて覚えたのに」

 拗ねた子供の様な時雨の声に、杠葉はまるで子供をあやすように頭を撫でた。

 この人の本性は、こんなにも子供っぽかったのかしら?

「……でも、体に良くないわ。紫露だって受験生なのに」

「わかってるけど、あなたが居ないと何のやる気も起きない。俺と紫露はあなたが居なきゃだめなんです」

 言いながら、時雨は顔を横に向け、杠葉の首元に唇を寄せる。

「ちょ……、時雨さんっ!」

 首に時雨の熱い息がかかって、杠葉が抗議の意思を示すが、時雨は無視してそのまま首筋に深く吸い付くような口づけする。

「っ……」

 杠葉が体をこわばらせて、息を詰めた。

 時雨の唇が離れると、杠葉がほっと力を抜いて吐息を漏らす。

 顔を上げた時雨と見つめ合い、甘い雰囲気が二人の間に流れた時—————。

「ちょっと、ルーカス、押さないでったら!」

「もうちょっとそっち行けよ、ミア!今イイとこなんだよ」

「俺全然見えない」

「カイにはまだ早いわよ、ほら、エミルを連れて向こう行ってて」

「えぇ~?」

「大きい声出すなって!」

 子供たちのひそひそ声が、時雨と杠葉の耳に届いた。

 時雨たちは慌てて体を離してドアの方を見る。

 薄く開いたドアの隙間から「あ、ヤベ……」というルーカスの声が聞こえたかと思うと、焦った4人がバランスを崩し、雪崩のように部屋の中に倒れ込んできた。

 二人と子供たちの目が合うと、子供たちは気まずそうな顔をした後、ひとまず作り笑顔を浮かべ、上二人が下の二人をそれぞれ抱えて慌てて部屋を出て行った。

「|Vad håller ni på med《ヴァド ホッレル ニ ポー メド》?!(あんたたち何やってんの!?)」

 しかし、その先でヴィヴェカに見つかったらしく、また一つ、雷が落ちたような声が家じゅうに響き渡った。


 時雨と杠葉は顔を見合わせ、ようやくほっとした笑顔を交わす。

「……帰ってきてくれますか?俺たちのもとに」

 その表情に、まだわずかながら不安を浮かばせながら、時雨は聞いた。まだ背中に回されたままの手が強張り、緊張しているのがわかる。

 杠葉は、そっと時雨の胸に頬を寄せて、

「…………あなたたちの傍以外に、私が帰るところなんてないわ」

 と、安心させるように柔らかな声で答えると、時雨が再びきつく杠葉を抱き寄せた。

 はあぁ、と、安堵したように大きく息を吐きながら、

「…………もう、絶対に離さない」

 時雨は強い決意をにじませて囁く。

 杠葉も時雨の背中に腕を回すと、優しくて温かい風が、二人の周りを舞っているような感覚を覚えたのだった。

 

 ————————————————


 今の時期、スウェーデンの夜は明るく長い。

 夕飯の後、ヴィヴェカの勧めで二人はテラスに出た。

 ヴィヴェカはエルダーフラワーのシロップを炭酸で割ったドリンクを二人に用意してくれたあと、白夜と時雨の訪問で興奮している子供達を寝かしつけに行った。

 今日はおそらく、時間がかかりそうだ、と嘆きながら。


「……今は白夜でしたね」

 もう9時を過ぎたというのに明るい空を見上げて、時雨が呟いた。

「ええ。まだ慣れないけど、みんな楽しそうにしているから、この雰囲気は好き。…………時雨さん、来たばかりで疲れていない?」

「……どうかな。今は平気だけど、途中で眠くなるかも」

「なら、これを飲み終わったら、部屋に行きましょうか」

「……そうしようか」

 二人はソーダを一口飲んで、夕焼けのような空を見つめて、ほっと息をついた。

「……私の前世って、どんな人だったの?」

 杠葉の質問に、時雨は顔を強張らせて杠葉の方を見た。

 空を見上げたままだった杠葉は、時雨の顔を一瞥した後、ふふッと笑った。

「いいの。もう平気」

 杠葉の笑顔にほっとしつつも、話を切り出すのを躊躇うように時雨は少しの間、黙っていた。

 

 夕焼けの空に、薄く現れ始めた星々を見上げて、時雨はようやく、口を開く。

「……彼女の名は、シェーナ。私たちの暮らしていた国とは別の、異国の女性でした。星読みという、星を見て吉凶を占う占い師のようなことを生業にしていました。彼女は、銀色に近い髪の色に青い瞳をしていて、今の東洋に近い容姿の私たちとは全く違い、その姿も相まって、彼女はとても神秘的な雰囲気で、私の目を惹きました」

 時雨は空を見つめていたが、その目に映るのは、現実の景色ではなく、前世の光景のようだった。

 だけど、不思議とそれが不安に感じない。

「……美人だった?」

 ほんの少し、からかいを含ませて杠葉が訊くと、時雨は困ったような顔で、少し間を置いた。

「……おそらくは」

 妙な言い回しに、杠葉は訝しげな表情になる。

 それをわかって時雨は続けた。

「彼女の顔には大きな火傷の痕がありました。片目はほとんど潰れて見えないようでしたけど……、傷を負う前は美人だったとは思います。……けれど容姿がそんな風でも、貴族階級の生まれだった彼女は、所作や仕草に品がありましたし、色白で、傷以外の場所は肌も綺麗でした。私は全く気になりませんでしたが……その顔の傷のせいで、家を追い出されて風のものになったそうです」

 杠葉の心臓が、冷たく縮まるように脈打った。

「ただ、彼女自身は顔に傷を負う前から家の中は居心地が悪く、ずっと風に呼ばれていた気がすると言っていました。火傷は風のものになるきっかけに過ぎなかったと。……彼女は真夏でもフードを目深に被り、顔には仮面をして隠していました。そんな風貌でしたから、旅は決して楽ではなかったでしょう。気味が悪いと攻撃されたり、襲われたり……」

 杠葉は、震える手で、胸元の服をかき寄せた。

 胸の中で、風がざわめきながら吹きすさぶようだった。

 時雨の表情が青ざめ、立ち上がって杠葉の元へ行くと、優しく抱き寄せる。

「やめましょう」

 そう言った時雨の胸に顔を埋めながら、杠葉は首を横に振った。

 不安げに脈打つ、時雨の心臓の音が聞こえる。その音を聞きながら、杠葉は、

「シェーナのこと、聞きたいわ。ううん、聞かなきゃならないと思う」

 と、時雨の顔を見上げた。

 困ったような顔で迷ったあと、時雨は杠葉の額にキスしてから、座っていた椅子を引き寄せ、杠葉のすぐ隣に座った。

 杠葉の手を優しく包み込むように握ると、続けていいのかを確認するように、杠葉の顔を覗き込んだ。

 杠葉は、静かに頷く。

 時雨は頷き返してから、静かに語り出した。

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