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風の行く先  作者: 遥ゆとり
3章 大学編

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少し残酷な表現や、レイプを想起させる表現が含まれています。

苦手な方はご遠慮ください。


思いのほか長くなってしまったので、一旦ここで切ります。

「悪かったな、森庵にまで退院の手伝いをさせて」

「……いいよ。ちょうど休みだったし」

 梧が退院する日、翠と時雨はまだ帰国の後始末に奔走していて迎えに行けず、ちょうど休みだった緝が駆り出された。

 仕事に一区切りついたら、時雨も梧の家に来る予定になっている。

「座っててくれ」

 緝に向かってリビングのソファーを指し示し、梧は冷蔵庫を開いてみたが、ほとんど何も入っていない。

「……すまん。何か買ってくるか?」

 冷蔵庫を閉めて振り向いた梧に、緝は首を横に振った。

「大丈夫だよ。海風さん少し横になったら?ここまでの移動疲れただろ?」

 ここまでは梧の車を借りて緝が運転してきたが、何せ緝はこの春に免許とったばかりで、安全運転なのは良いが、それが余計に緊張し、梧は気が抜けなかった。

 緝もそれは気づいていただろう。

 緝が気まずそうな顔をしている。

「……だが……」

 梧としては、入院した時の荷物の整理もあるし、仕事もろくにしていないから目を通しておきたい気持ちもあった。

 迷っている様子の梧を見て、緝は頭をかいて、ため息をついた。

「良いから休め。顔色だってあんまり良くないぞ」

 そう言うと、軽く背中を押した。

「…………わかった。……荷物はそのままでいいからな。後で自分で片付ける。何もないが、テレビとか……、コーヒーメーカーも、部屋のものは好きに使って良いし、お前もゆっくりしててくれ」

 梧は休むよりも前に、部屋の中にあるものを説明しようとしたので、

「はいはい、わかったよ。いいから、早く休めって」

 呆れた口調で緝が答えると、渋々と言った様子で梧はベッドルームに向かった。

 手助けが必要かと思って、緝は梧がベッドに横になるまで見届ける。

 まだ申し訳なさそうな顔の梧に、「俺もゆっくりさせてもらうから」とあやすように言ってベッドルームのドアを閉めた。

 緝はほっと息を吐いた後、リビングに戻ると、持ち帰った入院の荷物を見下ろし、

「……やるか」

 と、呟いて腕まくりをしたのだった。



 2時間ほど経った頃、時雨が食材などの荷物を抱えて部屋に入ってきた。

 合鍵を持っているらしく、完全に我が家のように遠慮なく入ってくる時雨を見て、

「お疲れ」

 と、声をかけつつ、その慣れた雰囲気に今世(いま)前世(むかし)もお世話をしてしまう癖は抜けないんだなと思った。

 そんなことを思っている緝もまた、結局じっとしているのは性分に合わなくて、翠と一緒に暮らしていても、家事を一通りやってしまう。

 今も初めて来た家だと言うのに、なんだかんだ一通り、片付けと洗濯まで終わらせて、時間を持て余していたところだった。家主が寝ている間に他人の家で、我が物顔でのんびりすることもできずに、リビングのソファーに浅く座っていた緝は、時雨の荷物を見て立ち上がった。

「あぁ、そのまま座ってていいよ。悪かったね、森庵」

 そう言って、買ってきた荷物をダイニングテーブルの上にのせる。

「梧は?」

「たぶんまだ寝てる」

 それを聞いた時雨は頷いて、持ってきた袋の一つを持ってキッチンに入り、冷蔵庫に食材を入れていく。

「現地は緊迫していただろうし、病院も落ち着かなかっただろうからね」

「だろうな」

 緝はダイニングテーブルの上の袋の中身を確認しながら、取り出していきつつ、

「入院の荷物、わかるところには戻したんだけど、あとわからなかったからそっちのテーブルに置いた。もしかしたら、戻したところも違ってるかもしれないけど」

「ありがとう!あとは俺がやるよ。戻したところは見ておくけど、多少場所が違っても、梧が自分で戻すから大丈夫だよ。子供じゃないからね。お昼はどうした?食べた?」

 十分、梧を子ども扱いしているような気もしたが、その事は口に出さなかった。

「あー、いや。海風さんを一人にするのもなんだし、俺は霜槻さんがきたらどこか食べに行こうかと思ってた」

「そう?なら行ってきても良いけど、買ってきたものはなんでも食べてもいいよ。飲み物も好きに選んで」

 冷蔵庫に詰め終わり、ダイニングテーブルの上を一緒に整理し始めた時雨が言った。

「あー……、ならもらおうかな。今から外で何食うか決めるのも面倒だし」

「パンもあるし、おにぎりとお惣菜、お弁当でもいいよ」

「どんだけ買ってきてんだよ……」

 呆れる緝に、時雨の表情が強張る。

「あ、いや。余ったらうちに持って帰って紫露と食べるから」

 言いながら、適当におにぎりとお茶、総菜を一つ、時雨は選び取った。

 緝はお弁当を一つ手に取ると、聞かないほうがいいかとも思ったが、

「……奥さん、迎えに行かないのか?」

 結局、気になって聞いてしまった。

 今は食べない総菜を袋に戻して、テーブルの隅によけつつ、

「…………まあ…………、梧のこと、解決したら……ね」

 時雨にしては珍しく、歯切れの悪い言い方に、緝はため息をついた。

 梧のこと、と言うのは、今回の怪我のことではなく、前世の話だろう。

 ハルの、最期の話だ。

 二人の間で、妙に緊張した空気が流れた。

「……いいかげん、もう、話さないとな」

 トーンを落として緝が呟いたとき、

「……何をだ?」

 起き抜けの掠れた声が聞こえて、時雨も緝も体を強張らせた。

 声のした方へ視線を向けると、まだ眠そうな梧がそこに立っている。

「……あ……。……起こした?うるさかったかな」

「……いいや。ちょうど起きた」

「えっと……海風さんも、飯食べる?」

 二人は何となく話をそらした。

 寝ぼけていない梧だったらこんなわざとらしい逸らし方じゃ疑われるだろうが、梧は「……何があるんだ?」と、時雨と緝の手元に視線を落とし、袋の端を指先で引っ掛けて中身を確認している。

 すぐに話を問い詰めてくるようなことはなく、とりあえず二人はほっとして顔を見合わせた。

 梧がパンの袋を一つつまみ上げると、「コーヒー淹れようか?」と、時雨が言った。

 過保護が過ぎるな、と緝は二人にわからないように顔を顰めたが、いや、翠といる時の自分もそんなものかもしれないと思い直して、小さく息を吐いた。

 梧は首を横に振って、ペットボトルのコーヒーを同じ袋の中から見つけて「これでいい」と言って、リビングのソファーの方に向かった。

 まだゆっくりとした動きで、脇腹をかばいながらソファーに座ると、一度背もたれに頭を預けてため息をつく。

「まだ痛む?」

「……少しな」

 そう言ってから頭を上げると、コーヒーの蓋を開けて一口飲んだ。

 またいつ、梧が聞いてくるかわからないという緊張を孕んだ空気の中、時雨と緝は顔を見合わせた後、ダイニングの椅子に座って、二人も食事をすることにした。


 食事を済ませると、手際よく緝がごみを回収して、片付ける。

 時雨はまた、ソファーに頭を預けている梧を見つけて、水と処方されている痛み止めを持って、梧の方へ差し出した。

「……飲んでおくか?」

 梧はちらっと視線を投げてから、軽く頷いて頭を起こした。

 薬を取り出し飲み終えると、ダイニングに座った二人を見つめ、

「……さっき何を、言わなきゃならないと言っていたんだ?」

 と、思い出したように訊いた。

 二人は動きを止め、息を詰めた。

 梧はその様子を気にした様子もなく、ソファーにもたれながら、

「……そう言えば、時雨は俺が帰ってきたら話したい事があるって言っていたな。……そのことか?」

 と、軽く目を閉じながらさらに聞く。

 時雨と緝は視線を合わせ、覚悟を決めたように二人は頷きあう。

 時雨は息を軽く吐いてから、深く吸った。

「……そう。お前に話しておかなきゃいけないことがある」

 時雨の声が深刻な色を含んだので、梧は目を開けた。

 時雨は梧の方へ体を向け、真正面から梧を見つめている。

 その表情の真剣さに、梧も居住まいを正した。

「……前世のことか?」

 時雨は頷いたものの、躊躇って視線を下げて黙ってしまった。

 それを見て、緝が代わりに口を開く。

「……お前はまだ、ハルが死んだのは自分のせいだと思ってるか?」

 問われて梧は二人から視線をそらした。

 少しだけ間を置いて、梧は頷いた。

 だってそうだろう。ハルが妊娠しなければ、もっと言えば、カザネと出会わなければ、あんな死に方をしなくて済んだはずだ。

 風のように自由にしたいことができて、行きたいところに行けたはずなのに。

「……ハルの最期がどんなだったか、覚えてるか?」

「え?」

 梧は顔を上げた。

 そう訊かれると、どうだったか曖昧だった。思い出すのは、梧の夢の中で、胸を貫かれるハルの姿だ。

「……胸を、貫かれて……」

 梧が自信なさげにそう呟くと、緝が驚いた顔をして、首をかしげた。

「……胸?」

「それは、お前の夢だよ。梧」

 夢と前世で実際に起きたこととを混同していると気づいた時雨が、横から口を挟む。

「……そう……だな」

 梧は頷いた。

 梧の中のカザネの記憶も今やあいまいになってきていた。

「……実際は、ハルは毒矢を受けた」

 そう言われて、梧は額を押さえながら、頷いた。

 記憶が頭の中に蘇ってくる。

 

 火が迫る森の中で、ハルを逃がそうと奔走していた時、どこかから飛んできた矢に、ハルは肩口を貫かれた。

 サギリがその矢を確かめた時、傷口が僅かに変色しており、毒に気づいた。

 ハルは身重であり、毒が体内に回れば、胎児もろとも危ない。

 カザネはサギリに、ハルをすぐにゼンの元へ連れていくように指示した。

 カザネを守りたいサギリは渋ったが、ハルとその子供のことも捨て置けず、必ず戻ってくるとカザネに約束して、ハルと共に森の奥の宿へと逃げたのだった。

 

 カザネは、その後も森の地の利を生かして追手を足止めし続けた。

 結局、カザネは戦い続けた挙句、弟のマサナと刺し違えて死んでしまった。

 サギリがカザネの元へ戻ったかどうかは、梧にはわからない。だが、……今世で再会した時から、どことなく時雨が梧に対して申し訳なさそうな態度を取っているのは、サギリがハルを助けられず、カザネの死にも間に合わなかったせいだろうと思っている。

 戻る途中で死んでしまったのか、それとも、戻ったが間に合わなかったのか。

 どちらにせよ、そんなことを時雨が気に病むことはない。

 

 サギリはカザネのために尽くしてくれたのだから、可能であるなら、生き延びて幸せであってくれたらと願った。

 死んでしまったカザネのことなんか気にせずに。


 サギリは、いつも自分のことなど二の次だったから。


 だが、時雨はカザネの死後のサギリの話を聞いても、話したがらなかった。

 

「……ハルもお腹の子も、死んだんだろう?……それが、話したかったことなのか?…………もしも、謝りたいということだったら、気にする必要は……」

「違うんだ。……謝りたいのは、そのことじゃない」

 梧の言葉を、時雨が遮る。

 驚いて緝の顔を見ると、青い顔で俯いていた。

 しばらくそうしてから、ゆっくりと視線をあげ、梧と視線を合わせる。


「……俺たちは、ハルを助けられなかった。これは紛れもない事実だ。だけど、ずっと、助けられる方法があったんじゃないかと後悔してきた。…………ハルのことを、殺したのは、俺なんだ」

 —————……君が殺したんじゃないんだから”殺した”なんて言い方で、海風さんに説明したらいけないよ。

 緝の脳裏に、そう言った翠の言葉がよぎったが、やはり、こう言う言い方になってしまった。

「…………何を言ってるんだ、お前は…………」

 梧は驚いた顔で緝を見た。

 居た堪れず、視線を逸らした緝は、あの時の話を語り始めた。


 ――――――――――――


 森に火を放たれ、ゼンは宿を捨てることにした。

 止まり木のことを教えてくれたじーさんが、もしもこの宿が、誰か風のもの以外に知られるようなことがあれば、宿を処分するように言われていたからだ。

 基本的には、自然の迷路に囲まれた止まり木の宿には、そう簡単には近づけない。

 カザネとサギリは例外的に招いてしまったが、その頃から、ゼンはそのことをずっと考えて、スイとハル以外の風のものは出来る限り受け入れてこなかった。


 森に火が回り、迷路が機能しなくなっては、見つかるのは時間の問題だ。

 ゼンは自分で運べるだけの、必要なものだけを荷物に纏め、宿には油を撒いて跡形もなく焼くつもりだった。


「ゼン!!ゼン!いますか!?」

 今まさに油を撒こうとしていたところに、サギリがハルを連れてやってきた。

 ハルの青ざめた顔と、肩から伸びる矢羽を見て、全てを悟ったゼンは、ひとまず、今手持ちである薬草で、毒くだしを作ろうとしたが…………、それをハルが腕を掴んで止めた。

「……それじゃ……、こどもが……」

 作ろうとしている毒くだしでは、子供は助からないことを、ハルはわかっていた。

 もちろんゼンだって、救えるなら子供も救いたい。

 だが、現状でそれは不可能に近い。

 もしも子供も救える毒消しを作るなら、国外でしか取れない材料も必要になる。これから材料を調達している時間はなかった。

「この状況で、何言ってんだ!それしか方法は……」

「…………腹を……割いて、この子を…………」

「ハル!?」

 ハルの言った言葉に、サギリが声を上げた。

 ゼンも、考えなかったわけではない。

 だが……それでもゼンは、ハルの体を傷つけたいとは思わなかったし、その方法も、胎児にリスクがないわけではない。

 確実にハルが救え、もしかすれば、障がいは残っても、子供も助けられるかもしれない方法を選び取る方が最善だと思えた。

 

 じーさんが死んですぐの妊婦から胎児を取り出したのを見たことはあるが、生きた妊婦の腹を割いた経験は、ゼンにもなかった。


 だが、ハルの瞳は揺るがなかった。

 苦しいはずなのに、ゼンの腕を掴んで離さない。

 

「…………助けられるかは、わからないんだぞ」

 ゼンがそう言っても、ハルはわかっていると言わんばかりに頷くだけだった。

 ゼンがその時、ハルに対してどんな顔をしていたのか、わからない。

 ただ、ハルは優しい笑みを浮かべた。

「……たの、むよ……、ゼン……」

 死の間際だと言うのに、そんな表情をして願うハルを理解できずに見つめたあと、ゼンは「ああ、くそ!!」と、不甲斐ない自分に向かって、悪態をついた。

「サギリ殿、手伝ってくれ……!!」

 覚悟を決めた顔で、ゼンはサギリを見つめ、サギリも諦めたように頷いたのだった。


 ――――――――――――

 

「……どう言うことだ……?じゃあ、ハルと……、お腹の子は?」

 梧は呆然とした顔で二人の顔を見つめた。

 少し間を置いてから、

「……子供を腹から取り出しているうちに、ハルは死んだ。……子供は……なんとか無事に産まれた」

 と、緝が言った。

 その表情は、悲しみに満ちている。

 ハルを殺したのは自分だと言ったのは、こういう意味だったのか。

 緝の胸の内にある重みが、梧にもわかる気がした。

 誰かの死を、自分のせいであると抱えることが、どれだけ重く、辛いことか、梧は痛いほど知っている。

「……だが、その子を、今度は追手から逃がさなきゃならなかった。俺は護身術は何とかなるが、子供を守って戦うことはまず不可能だ。それは……サギリ殿にしか頼めなかった」

 緝はそう続け、時雨の方を見た。

 時雨は顔をわずかに伏せて、目を閉じて小さく震えている。

 それを見つめながら、

「……だから、サギリ殿はお前を……カザネを助けには行けなかった。俺が子供を連れて逃げるだけの力があれば、良かったんだが……」

 緝の言葉に、時雨は声を出さないまま、首を横に振った。

 緝は、時雨の様子を見て肩に手を置き、軽くさすったが、時雨は目を開けずに顔を伏せた姿勢のまま、動かなかった。

「俺は、近くの止まり木までの道をサギリ殿に教えて、子供を託した後、……後始末をした」

 緝は、すぐには次の言葉を継げなかった。

 何度か喘ぐように口を動かしたあと、息を吸って、ようやく声を出す。

「……何とか見つからずに国から出られても……ハルの遺体が暴かれ、子供が生まれていると悟られては終わりだ。……だから、俺は……、宿もろとも、ハルを跡形もなく……燃やした」


 あぁ……。


 梧もすぐには声が出せず、心の中でそう呟いた後、胸が苦しいほど強く締め付けられた。

 我が子のように育てたハルの腹を裂いた挙句に、跡形もなく燃やすなんて、どんな気持ちだったか。

 ゼンのハルに対する態度を見てきたカザネの記憶をたどれば、それがどんなに苦しいことか、計り知れなかった。

 居たたまれずに瞳を閉じると、燃え盛る宿を見つめたゼンの背中が、瞼の裏に見えるようだった。

 梧の頬を、一筋、涙が流れる。

 前世から思い出してみても、ほとんど泣いた姿など見せたことがなかった梧に、緝は息を呑む。


「……俺のせいで……」

 だが、梧の変わらない自責の呟きに、

「何で自分のせいだって言うんだよ。ハルは自分で選んだんだぞ、お前の子供を産むことを。ハルが望んだと思わないのか?お前は」

 緝は咎めるような口調になった。

 娘の気持ちを理解してくれない男に苛立っているようでもあった。

「……それは、思いもよらずできてしまった命を、無下にできなかったからだろう?」

 しかし、梧も引かなかった。

 ハルは、自由を望む風のものだ。子供ができてしまえば、満足に風の中に居られなくなる。

 それを、ハルが望んだわけがない。と、梧には思えた。

「……違う。ハルは間違いなく、産む方を選んだんだよ」

「え……?」

 緝のきっぱりと確信した言葉に、梧は驚く。

 呆れたような、悲しげな瞳を、じっと見つめ返す。

「……女が旅をしていれば、どんな目に遭うかなんてわからない。一見少年のように見えても、そういうのが趣味の奴もいるし、見境のない男に捕まれば、()()()()目に遭わないとも限らないだろ。だから、俺は薬を持たせてた。今で言う、アフターピルみたいな薬をな」

 そう言われても、梧の頭は、すぐには理解を示さなかった。

「戦禍の中でお前と出会った直後、宿に寄ったハルの荷物を確かめた時、その薬は確かにあった。ハルがその存在を忘れていたとは考えにくいし、飲んでいたら、子供ができることはほぼない。……こう言えば、さすがのお前にだってわかるだろ」

 嘘だ、と言いたかった。カザネを慰めるための詭弁だとも。

 だがそれよりも、喉の奥が熱く詰まり、言葉が出ない。

 そんな馬鹿な。と、思うのに、ハルが自分のことを愛しく想っていたのではないかと言う事実に、心は正直に喜んで、熱く心臓は脈打った。

 「それに、俺は……ハルから直接聞いた。”自分が女として、好きな男に抱かれたいなんて欲があるなんて思いもしなかった”ってな」

 緝の顔はひどく複雑だった。

 娘から暗に生々しいことを想像させる話を聞かされて、困惑しているような、怒りたいような、だが、幸せを願ってやりたいような、いろんな感情がないまぜになって、結局は、苦虫をかみつぶしたような表情になっていた。

 

 —————風に選ばれて、風の中で生きることがすべてだと思っていたのにさ。

 結局、どこに居ても、何をしてても、カザネのことがよぎるんだよ。夜になって、月が空を蒼く照らすと、あいつの髪と瞳の色を思い出してた。

 あいつの瞳の中に私が居る時、私の瞳の中にも、あいつを閉じ込めておきたいって思ってしまったんだよなぁ……。

 

 そう言ったハルの表情には、寂しさと虚しさが浮かんでいた。

 共に生きることは、きっと叶わない。子供も、災いの種にしかならないとわかっていたのに、可能性にかけてしまいたくなるほど、ハルはカザネを想っていた。


 梧は、口元に手を当てたまま、顔を真っ赤にして動けずにいた。

 カザネがハルを思うのと同じくらいに、ハルはカザネを想っていたのか。

 そのことが、今までの後悔をすべて吹き飛ばしてしまうほど、嬉しくてたまらなかった。

 記憶の中にある、カザネのことを見つめるハルの瞳がすべて、今までと違って感じられた。

 

 梧は顔を上げて、時雨の方を見た。

「子供は、……あの子は、お前が助けて育ててくれたんだな?」

 まだ浮かない表情をしたままの時雨を、嬉しそうな表情で見つめると、時雨は苦しそうに胸を押さえながら頷いた。

 その表情に、梧の顔が曇る。

「……時雨?」

 心配そうにその顔を覗き込む。

 俯いたままの時雨に、梧は立ち上がって時雨の前まで行くと、視線を合わせるように膝をついた。

「……っ、やめてください。立ってください、梧」

 時雨は申し訳なさそうに梧の腕を掴むが、梧は首を横に振った。

「どうしたんだ、なぜそんな顔をしている?」

 つかの間、梧と時雨は、カザネとサギリに戻った。

 口を開かずに俯いて視線を逸らそうとする時雨に、

「……あの子は、長生きできなかったのか?」

 そう、眉尻を下げて梧が聞くと、時雨は慌てて首を横に振った。

「いいえ!あの国から遠く離れた村で、すくすくと育ち、やがて妻も得て、子供もいました」

 梧は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐに嬉しそうに目を細めた。

「じゃあ何でそんな顔をするんだ。お前も幸せだったんだろう?」

 時雨はそれに頷かなかった。

 訝しむ梧に向かって、

「……でもそれは、本来なら、あなたが享受すべき幸せだったはずです」

 時雨は絞り出すようにそう言った後、深く項垂れ、手で顔を覆った。

 その時、初めて梧は、時雨が何を気に病んで、梧に対して申し訳なさそうな態度をとっていたのかを知った。

 驚きでしばらくの間固まり、梧は、小さくため息をついて、

「……なんだ、そんなことか」

 と言った。

「そんなことって……」

 その言葉に時雨が顔を上げると、梧は呆れた顔を見せたが、すぐに柔らかく微笑んだ後、時雨の肩に手を置いた。

「その子供のせいで、お前の人生がめちゃくちゃになってしまったのかと思った。だが、お前も幸せだったんだよな?……なら、良かった」

 その言葉に、時雨は眉根を寄せて、泣き出しそうに顔を歪めた。

「何も良くありません!私は殿下を助けられなかった上に、あなたが得るはずだった子供を育てる喜びまで奪ってしまったんです……!」

 時雨も涙を流した。一筋ではなく、とめどなく流れて、溢れて、止まらない。

 梧はその時雨の頭を自分の肩に抱き寄せた。

 時雨は梧に縋り付きながら、

「彼が成長するたびに、あなたの面影がよぎったんです。あなたがここに居たら、ハルが生きていたら……。俺があなた方を逃がして、二人の幸せを邪魔したりしなかったら……、あなたはあの子を自分の手で育てることができたかもしれないのに」

 今まで言えなかった後悔もすべて、堰を切ったように吐き出した。

 梧はその時雨の頭をあやすように優しくなでる。

「そんなことをしても、俺たちじゃうまくいかなかったさ。お前だから、あの子を無事に育てられたんだ。そのくらいの幸せや喜びじゃ、お前の人生のご褒美としても足りないかもしれない」

「……身に余りますよ……。俺はそれに見合うようなことはしていません。それに今世だって……」

 時雨がそう言った途端、梧の中で、何かが稲妻のように走り、一つの線がつながった気がした。

「ああ……、そうなのか……」

 梧が穏やかに、静かに呟いた。

 胸が熱く込み上げてきて、梧の目にも、涙がこぼれてくる。

「……あの子なんだな……、紫露は」

 時雨が梧の肩でピクリと反応したのがわかった。

 霜槻家に招かれ、紫露を抱かせてもらった時のことを思い出した。

 命の重みと温かさ、あの時感じたものは、それだけじゃなかったのだ。

 得も言われぬ親しみのような感情と、喜び。あの時にも、梧は涙を流した。

 あれは、我が子を抱いた愛しさだったのか。

 ようやく、梧の中ですべてが腑に落ちて、納得した。

 なんて、温かな気持ちだろう。

「……すみません」

 時雨が、小さな声で謝った。

「何故謝るんだ、時雨」

「今世は私の実の子供だなんて、どれだけあなたから奪えば気が済むのか」

 その言葉を聞いて、梧は瞬時に頭に血が昇るのを感じた。

 そんな言い方をした時雨の肩をぐっと掴むと、梧は時雨を引き剥がし、きつく睨みつける。

「どうしてそんなことを言う!」

 怒鳴るように言った梧に、時雨も緝も驚いて目を丸くした。

 時雨に対して、梧がこんな風にカッとして声を荒げるなんてことは、一度もなかった。

「お前は俺のためにずっと尽くしてくれた。お前に奪われたものなんて一つもないぞ。前世だって、俺やハルがもっと気をつけていれば、子供を危険にさらすこともなかったかもしれない。お前たちは、俺とハルの尻ぬぐいをさせられたようなものだ。……あの状況下で、ゼンもサギリも最善を尽くして、子供だけでも救ってくれた。失ったものも多く、後ろめたさもあっただろう。だが、今世なら違う。前世があろうとも、紫露はお前とお前が愛する杠葉さんとの子供じゃないか。紛れもなくお前自身の幸せだ。俺から奪ったなんて言葉で、幸せを遠ざけようとするな!」

 初めて梧から叱りつけられ、時雨は驚いた表情のまま固まって、梧を見つめ返すことしかできなかった。

 緝もまた、驚いた顔で二人を見つめた後、ふっと、息を吐いて、

「……痛いとこ突かれたな。霜槻さん」

 と、梧の成長に頬を緩めたのだった。

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