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風の行く先  作者: 遥ゆとり
3章 大学編

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 たまきは、空きコマの時間を潰すために移動していた。

 中庭の近くを通りかかった時、ふと風を感じてそちらに視線を向けた。

 いくつか並んだベンチには、休憩したり、読書をしている学生が目立つ。

 今日は天気が良くて、風も爽やかだった。

 初夏の花の匂いが、鼻をくすぐる。

 風がもう一度、誘うように頬を撫で、たまきは誘われるがまま、中庭に出た。

 

 風の吹くまま、中庭を散策する。

 そのまま中庭を抜けた先には、旧校舎に使われていた古い建物があった。遠目に見たことはあったが、モダンなデザインのオシャレな外観だ。

 普段鍵がかかっているはずのその入り口が、薄く開いているのが見えて、たまきは引き寄せられるように近づいて、中をそっと覗いた。建物の中は薄暗い。

 普段はそんなことしないのに、ふと、たまきは興味本位で中に入ってみた。

 

 薄暗い廊下を奥に進んでいくと、カタンと何か物音がした。

 びくっと身を震わせ、たまきは恐る恐る辺りを見渡す。

 奥の扉から差し込む光が、揺れているのが見えた。

 空気が流れているのを感じる。注意深く観察すると、わずかに扉の隙間から風が入ってきて、扉を揺らしているのだと気づいた。

 おそらく先ほどの音も、その風のせいだったのだろう。

 たまきはその扉の前まで行き、ためらいながらも扉を押し開けた。

 するとそこは、外につながる小さなテラスがあった。

 日当たりが良く、風が通っている。

 テラスに置かれたベンチに目をやると、白衣に身を包んだ人影がいることに気づいて、たまきの心臓は飛び跳ねた。

 かろうじて声も音も立てずに済んだが、たまきは自らの口を押さえ、息を潜めて身を縮める。

 よくよく見れば、静かに目を閉じて昼寝をしているその人は、傳だった。

 たまきは足音を殺しながら来た方向に戻ろうとした時、

「……おやぁ、珍しく僕以外にもお客さんがいらっしゃいましたか」

 と、振り返らないまま、傳が言った。

 たまきはぴたりと動きを止め、静かに振り返る。

 彼はいまだに振り返っていなかったが、ここで逃げ出すのも気が引けて、諦めて声をかけた。

「あ、えっと……なにをされてるんですか?」

「風が心地良かったものですからねぇ。少し昼寝を」

 傳はそう言って、ゆっくりと振り返ると、目を見開いた。

「君でしたか。……冴島さん」

 たまきは苦笑いを浮かべた。

「すみません……」

 たまきは反射的に謝った。どうも、傳とは相性が良くないのか、悪いところばかり見られている気がする。

「謝らないでください。僕だって無断で侵入していますからねぇ」

 そう言って、人差し指を口元に当てた。

 無断で侵入という言葉に、たまきは罪状を突き付けられた気がして身がすくむ。

「……どうです?もはや共犯ですから。お時間があるなら、君もこちらへきて風の声に耳を傾けませんか?気持ちがいいですよ」

 と、不敵な微笑みをむけてきた。

 共犯と言われ、いよいよ、たまきは困って立ちすくんだ。

 それに、比喩だとはわかっていても”風の声”と言う言葉も妙に胸に引っかかる。

 行くことも戻るもできずにいると、傳は無言で圧をかけるようにさらに微笑みを深くした。

 たまきは一瞬首をすくめ、

「あ……。お邪魔します……」

 と、苦笑いのまま、傳の座っているベンチの端に小さく縮こまりながら浅く腰掛けた。

 微笑んだ傳が頷き、視線を外に向けた。

 たまきも軽く会釈をした後、見える木々の方へ視線を向ける。

 さわさわと梢を揺らして風が吹き抜ける。

 確かに風も、その音も、とても心地が良かった。

 たまきは目を閉じて、しばらくその風の音と感触を味わう。

 風がゆったりと流れて、時間すらものんびりと感じられた。このまま目を閉じていたら、寝てしまいそうだと思って、目を開く。

 見えるはずもない風の軌道を追って、木々の揺れに視線を巡らせる。

 

 この前、さっちょんたちから心配されて以降、ちゃんと規則正しく睡眠をとるようにしているものの、眠りの質がいいとはいえなかった。

 よく覚えていないけれど、よくない夢を毎日見ている気がする。

 毎日、起きると胸が不安でたまらないのだ。

 

 念のために受けた、保健センターでの血液検査の結果は、ほぼ規定値内だった。

 問題はないと言われながらも、一部の数値で軽微な上昇が見られ、その点は注意深く観察していくようにと言われた。

 漠然とした不安を抱えて、たまきは結果とどう向き合えばいいのかわからなかった。

 周りの人たちに、無闇に心配もかけたくはない。

 

 こんな時、なぜだか、梧のことが思い浮かんでしまう。

 病気の話を聞いてもらいたいわけではない。ただ会って、顔を見たい。それだけ。

 

 もう、たまきに対して、笑いかけてくれることはないかもしれないのに。

 頼ってはいけないのに。


 そんな風に自制をかけるたび、たまきの胸は軋んで、俯いた。


「……心地よくありませんか?」

 静かな声で、傳が訊いた。

 たまきの表情がすぐれないのを見たのだろう。

「いえ!」

 傳が隣にいたことを思い出し、慌てて首を横に振る。

 傳は木々に目をやりながら、

「悩み事は、風に流してしまえばいいんです。少しの間でも、忘れて風の音に耳をすませていたら、いつの間にか解決策が見つかることがあります」

 と、目を閉じて、風を受けている。

 ふと、たまきの元にも風が吹き、頬を掠めていくと、たまきは思わず聞きたくなった。

「……傳先生にも、前世があるんですか……?」

 ”風”を多用し、どこか達観した物言いをした傳に、風のもののイメージが重なったのだ。


 だが、そう言った途端、傳は目を開け、一瞬で空気が変わった。

 穏やかな表情のままではあるが、その瞳は笑っていない。

「……それは、どういう意味?」

 傳は体を起こし、黙ったままのたまきを見つめる。

「あ……の……、」

 さすがのたまきも、この傳の反応はマズい気がして、その場を去ろうと腰を浮かせた。

 その腕を、傳が掴む。

 たまきは立ち上がって後ずさるが、腕を離してくれそうにもない。

「君は何を知っているんです?……海風の名前を聞いて、どうして僕に梧のことを聞かないんですか?あの子に、何も言うなと言われているんですか?」

 傳は距離を詰め、矢継ぎ早に言ってくる。

 声を荒げはしないものの、その顔は怖いほどに必死だった。

 たまきは、どうしてそんなに必死なのかわからず、青ざめて傳の顔を見上げる。

「前世とはなんです?……梧は……、あの子は、ほんとうは誰なんですか?()()()()()()()()()()

 傳の問いに、たまきはハッとする。

 梧はいつから、前世の記憶を持っていたんだろう。

 もしも初めからではなかったら、それまでの梧は、今と同じ性格だったんだろうか?

 今と違う性格で、突然、前世のカザネの性格に変わってしまったなら、家族はとても戸惑ったはずだ。

 前世の話はただでさえ信じ難いから、梧は何も知らない両親に、変わってしまった理由も言えなかったかもしれない。

 逆に親からすれば、理由もわからないまま息子が変わってしまったのだから、その理由を知りたいし、必死にもなるだろう。

 

 たまきの視線が、驚きから傳を気遣うようなものへと変わったことに気づき、我に返った傳がたまきの手を離した。

「失礼。すみませんね。取り乱して……」

 と一言言ってため息をつき、ベンチの元の位置まで戻ると、俯いて、額を押さえている。

 

 たまきはベンチに戻って腰をかけると、その横顔を見つめた。

 どうしようか迷ったが、たまきは口を開いた。

「……梧さんは……私に何も言ってません。先生がこの大学にいることも知らなかったし、どんな関係なのかも……」

 静かにそう言うと、傳が顔を上げる。

「……聞かなかったのは……、その……、梧さんと去年から会ってないんです……。私が……、なんて言うか、逃げちゃったので……」

「逃げた?」

 傳が眉を顰め、たまきは気まずそうに、

「あのっ、だから、先生のせいじゃなくて……、梧さんは、間違いなく梧さんですし……。先生に確認しなかったのは、梧さんのことをどうして知ってるのか聞かれても、答えられないなって思って……」

 と、慌てながら続けて、俯いた。

 傳はますます訝しがり、首を傾げた。

「……どうして逃げたの?梧が何かした?」

 先ほどとは打って変わって優しい口調で傳は問う。

「いえ!そんなことないです!梧さんはいつも優しいから……」

 たまきは両手を振って否定した。


 傳は、梧が優しいと言う言葉に驚く。

 少なくともたまきは、梧のことを怖いだとか無愛想だとは思っていないのだ。

 息子ではなくなってしまったかのように変わってしまった彼だけれど、そう言う一面があることに、ホッとした。

 桐子の心配が杞憂であることにも。

 

 たまきの言葉を静かに待つ傳に、たまきは困ったような顔で傳の表情を窺った。

 誤魔化せるような感じではない。

「……梧さんには恋人がいるのに、梧さんといると、私は甘えてしまうから……」

 そう言って、たまきは俯いた。

 口に出すと、より胸に刺さるものがあった。

「…………恋人?あの子が?」

 傳が心底驚いた顔でのけぞる。

 そのあと、少し考え込むような仕草をした後、真剣な顔で、

「……あの子がそう言ったの?」

 と、訊いた。

「え?あ、いえ……、見かけたんです。素敵な女性と一緒にいるところ……」

「……んんー?」

 たまきの言葉に傳は唸って首を傾げる。

 たまきはその傳を見つめた。

「……そう言えば、どうして私が梧さんと知り合いだってわかったんですか?」

 たまきの質問に顔を上げ、傳は「あぁ」と呟いてから、

「君、入院していた時があっただろう?……そのとき、梧が時間外にお見舞いに行ったことがなかったかい?」

 と、微笑んだ。

 たまきは、入院した次の日の朝、目が覚めたら梧がいたことを思い出し、「あ……、はい、ありました。朝早くに」と頷くと、傳も頷いた。

 

 傳の話によれば、あの病院は面会時間に厳しくて、危篤以外で時間外のお見舞いはほぼ入れないらしい。

 ところが梧は顔を見るだけでも入れて欲しいとお願いをした。

 規則ですからと言う看護師に、梧はしばらく粘り、そこに知り合いの医師が通りかかって彼の素性を看護師に説明し、短い時間だけ入れてもらえたという。

 梧の母親である桐子は、たまきの通っていた病院に共同研究でたびたび出入りしている医師の資格を持つ研究者らしい。

 その医師は傳とも顔見知りで、梧の両親はともに医師の資格を持つ研究者で信頼できると念を押したことで、特別に許可が下りたのだそうだ。

 

 —————傳は敢えて言わなかったが、正直それだけでは許可する理由には弱い。梧が前日にも病室を訪ねていたことと、たまきの精神状態が芳しくなかったことも要因にはなったようだった。

 

「……その後で桐子さんが事情を聞いて、君の名前を知ったんです。まぁ、君がこの学校に入学してくるとは思いませんでしたけどねぇ」

「……そう……だったんですか」

 

 たまきは何も知らなかった。

 あの日のたまきは不安がいっぱいで、1人で目を覚ましたらどうなっていたかわからない。

 目が覚めた時に梧がいてくれて、とても心強かった。

 忍び込んだなんて冗談を言って、梧が笑って、たまきの気持ちがほっとできたのだ。


「それで、さっきの話だけどね」

「さっき……ですか?」

 たまきは、前世の話が蒸し返されるのかと身構えたが、

「梧に恋人って話。……なんだかしっくりこないなぁ」

 傳は違う話題を振ってきた。

 ホッとした半面、その言葉にたまきは軽く眉を顰め、首を傾げる。

 たまきは間違いなく梧と女性の姿を見たし、その時の梧の服装は、いつもよりおしゃれな服装だった。女性と話している梧の表情は照れていたように見えたし、あれが恋人ではなかったとしたら、どういう関係だと言うんだろう。

 たまきがそのことをそのまま傳に伝えると、

「君が嘘をついてるとは思ってはいませんけどねぇ」

 と、言ったきり、難しそうな顔で首を傾げた。

 流れる沈黙の間を、風が吹き抜けていく。

 

「……霞ちゃんってことはないかなぁ」

 しばらく考え込んだ後、傳が独り言のように呟いた。

「……かすみ……さん、ですか?」

「うん。梧の知り合いで、女性と言うと彼女くらいしか思いつかないんだ。……そうだなぁ……。確か、ブランドの十五周年だったか十周年の時に、パーティーに呼ばれて、写真を撮ったはず」

 傳はそう言うと、スマホを取り出して写真を探し始めた。

 霞と言う名前も、ブランドという響きにも聞き覚えはなかった。たまきが首をかしげて傳を見つめていると、気づいたのか、視線はスマホに落としながら、口を開いた。

「霜槻霞さんって言うんだ。Fri Vindっていうブランドのオーナーをしていてね」

「霜槻?」

 唐突に知った名字が聞こえてたまきは思わず繰り返した。

 傳は一度たまきの方へ視線を投げ、

「時雨くんのことは知っているんだね」

 と、言って、微笑んだ。

「……はい。中学の後輩のお父さんなので……」

「ああ、なるほど。……あった。これだ。十年前だね。十五周年の時だ」

 そう言って、傳が自分のスマホを見せてくる。

 そこに映っていたのは、以前、たまきが街で助け、あの日、梧と一緒にいた女性で間違いなかった。

 十年前と言ったけど、会った時とほとんど容姿に変わりはない。

「こ、この人です」

 たまきが驚いて言うと、傳は満足そうに頷いた。

「よかった。……親とは言え、息子のことを良く知らないから、違うかもしれなかったけど、合ってて良かった」

 そう言って微笑んだ表情が、少し寂しげに見えた。

 梧から両親のことを聞いたことはなかったけれど、仲があまり良くないのだろうか。

 たまきも微笑みを返した後、それでも気になって口を開く。

「…………でも、この人が梧さんの恋人ってことは……」

「ないね。霞ちゃんはパートナーも子供もいるよ。梧が霞ちゃんを好きってことも……ないと思うなァ。照れていたように見えたのだって、おおかた、霞ちゃんが梧をからかったんじゃないかな」

 傳が即座にきっぱりと否定した。

 たまきは頭の中の整理が追いつかなくて、一点を見つめたまま、動けなくなる。

「……あ、梧さんに、恋人がいない……?……それって……、えっと……。どうしたらいいんだろう……」

 あまりに混乱して、たまきは訳の分からないことを小声で呟いた。

 真剣な顔のたまきに、傳はふっと笑う。

 すぐにチャンスだ、と、思えないところが、たまきらしいのではないか。

 まだ彼女を知って日も浅いが、そんな風に思った。

 

 彼女がお嫁に来てくれたら、きっと楽しいだろう。梧だけじゃなく、桐子の表情さえ、ほぐしてくれる気がする。

 

 そう思うと、ふとその頬に、手を伸ばしたくなった。

 頬に手を伸ばすのは、桐子の癖だった。

 表情が豊かではなく、感情を表現することが苦手な桐子なのに、どういうわけか、家族の頬を触る癖があった。

 彼女なりの愛しさの表現なのだろうと思っているが、今の傳がたまきに対して手を伸ばすのは、からかいたくなったからだ。彼女がどんな反応をするのか、見てみたくなった。

 

 しかし、頬に触れる前にたまきがハッと気づいて顔を上げ、目を見開いて傳を見た。

 眉尻を下げて驚いたその顔に、傳も手を止めて驚く。

 単純な驚きと言うよりは、懐かしさ……、照れ……、切なさ……、いろいろな感情が混ざり合ったような表情だ。

 ……この反応は、もしや……と、傳は思った。

「……もしかして、梧が君の頬に触れたことがあるの?」

 言うと、たまきの頬が僅かに紅潮し、唇をきゅっと引き結んだ後、遠慮がちに頷いた。

 伸ばした手を引っ込め、自分の口元に持ってきて押えると、手の下でふふふ、と笑う。

「そう……、そうなんだね」

 傳は緩む頬を抑えられなかった。

 どちらにも似ていないと思っていた梧は、しっかりと桐子の癖を引き継いでいることが、存外嬉しく思えた。

 傳の様子に戸惑っているたまきの顔を横目で見て、「梧は君のことが好きなんだよ」なんて言ったら、今度はどんな表情をするだろう。

 それを聞いたときの彼女の反応を想像するだけで、胸が躍る。もちろん、それが野暮だと言うことくらい、傳にだってわかっているし、やらないが。

 

 彼女といる時の梧の姿も気になるが、彼女を桐子に会わせたら、どんな反応をするだろうか。

 たまきを見ていると、自分の家族に会わせて互いの反応を見てみたいと掻き立てられた。

 だが、そんなことをしたら、……いや……今の状況だけでも、桐子には怒られるだろう。

 

「あの……、先生……?」

 傳が一人妄想を膨らませていると、たまきはからかわれていることに気づいたようで、少し怒ったように眉を寄せ、軽く口を尖らせた。

 まだ視線には緊張が滲んではいるが、どうやら、少しは気を許してくれたようだ。


「あぁ、ごめん。君があまりにも可愛くてね」

「かわっ……!?」

 反応が可愛いのは嘘ではないが、彼女の反応が良さそうな言葉を選んだ。

 

 案の定、真っ赤になって照れてくれた彼女と、まだしばらく遊んでいたかったが、急にスマホが鳴った。

 傳はこんな時間に誰だろうと画面を見て、驚く。


 時雨からだった。

 さっき話題に出した十年ほど前のパーティーで、連絡先を交換したっきりだ。

 楽しい雰囲気から一変し、傳に嫌な予感がよぎった。

「もしもし?」

 傳は立ち上がり、少したまきから離れて電話に出た。

 傳の表情が硬くなったのでたまきは訝しんだが、ハッと気づいて時間を確認し、そろそろ授業の準備をしなくてはと腰を上げた。

『海風傳先生のお電話で、間違いありませんか?』

「はい。……時雨くんだね?」

 傳が時雨の名前を呼んだので、たまきは傳の顔を見た。

『ええ、そうです。大変ご無沙汰しております。急にご連絡を差し上げて申し訳ありません。……実は、梧くんのことで……』

 躊躇いがちな時雨の深刻な声に、傳の胸の不安が濃くなっていく。

「……梧が、どうしました?」

 声を抑えたつもりだったが、気になってたまきの方へ視線を向けると、聞こえたらしい彼女の表情が途端に曇った。

『……今、彼は仕事で海外に行っているんですが、現地で起きていたデモが内乱に発展したんです。反政府軍による通信妨害が起き、彼と連絡が取れなくなりまして……。取引先にも確認して、同行者とも連絡が取れないと言うことでしたので、外務省経由で大使館に安否を確認してもらってはいるのですが、まだ返事がなく……』

 時雨の声は明らかに沈んでいく。

 傳は事情を聞きながらも、どこか現実味が湧かなかった。

「…………連絡が取れなくなったのは、今日のことですか?」

 そのせいか、ひどく頭は冷静だった。

『……はい。今日の朝までは連絡が取れていましたが、以降全く取れなくなりました。大事な息子さんを危険にさらしてしまい、どうお詫びしたらよいか……』

 わずかに震える声は、傳に詫びると言うよりは後悔しているような口ぶりだった。

「まだ梧がどうなったかわかっていないんでしょう?第一、どうなったところで、あなたのせいではないんですから、謝る必要はありませんよ」

『しかし……、私がついていれば…………』

「ついて行っていたら、あなたも連絡が取れなくなって、私たちはこんなに早く知れなかったかもしれません。何も今からすべて後ろ向きにとらえる必要はないですよ。……現地の情報ついてはこちらも研究者仲間を通じて当たってみますから」

『……すみません。ありがとうございます』

 後悔は消えていないような沈んだ声で、時雨は答える。

 

 ……時雨の梧に対する態度は、過保護すぎるほどだ。

 いつ、どこで、どんな縁で出会ったのかはわからないが、実の親子の傳よりも、梧は時雨を信頼しているようだった。

 

「いいえ。そちらも何か分かったら教えてください。桐子さんには連絡してみましたか?」

 傳は複雑な心情を押し殺して、落ち着いた声で言った。

『はい。ですが、お出にならなかったので、傳先生にご連絡しました』

「でしょうね。今研究がノッてますから、スマホを見ていないでしょう。彼女には私から連絡しておきます」

『では、そちらはお任せします。引き続き、何かありましたらすぐご連絡しますので……』

「ええ、よろしくお願いします」

 そう言って傳は電話を切ると、聞こえた内容に青ざめているたまきの方へと向き直った。

 彼女は小さく震える手を握りしめながら、

「……梧さんに何かあったんですか?」

 深刻な声で聞いた。

 傳は笑顔を作り、「……大丈夫だよ」と優しい声で言った。

 だが、たまきの表情は緩まない。

「連絡が取れなくなったって……!」

 話を聞かれた以上、ごまかせないのはわかっていたが、今の状況で、どう安心させるかが思いつかなかった。

 傳は仕方なく、ひとまず、今、聞いたすべてを話した。

「……そん……な」

 たまきは目の前が真っ暗になりそうだった。

 たとえ梧に恋人が居ようが、たまきの傍に居ないとしても、現代で梧が危険にさらされ、居なくなることなんか想像もしなかった。

 ……目を開けたら、家族を失うことだってあることを、たまきは知っていたのに。

 病気のことがあって、無意識に自分の方が居なくなる気がしていた。


 —————たまきは急に怖くなった。

 梧と二度と会えなくなったら、どうしたらいいんだろう。

 

「冴島さん」

 傳の声で、たまきは我に返った。

 傳の顔を見上げると、真剣な顔で、

「冴島さん、授業は?」

 と、聞かれ、たまきはハッとして時間を確認した。

 まだ始まっていないが、急がないと間に合わない。

「……すぐ行きなさい」

 それをたまきの表情で察したのか、傳はたまきの背中を押した。

「……で、でも……」

 何もできないとわかっていても、たまきはためらった。

「梧のことは何とかなるよ。大丈夫。あの子は運が強い子だからね。いいから君は行きなさい。君の本分は学生だろう?」

 傳は何の根拠もなかったが、大丈夫と言ってたまきの背中をもう一度押した。

 それでも、たまきが遠慮がちに傳を見つめたので、「何かわかったら教えるから」と言うと、ようやくたまきは走り出した。


 テラスを風が吹き抜ける。

 傳は木々の間から空を見上げた。

 しばらくそうした後、傳はスマホを手に取り、電話をかけた。

「……ああ、僕だ。そこに桐子さんは居る?……いや、緊急の用なんだ。代わってくれ」

 白衣を翻し、傳は話しながら、自分の研究室の方へ早足で歩きだした。

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