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風の行く先  作者: 遥ゆとり
3章 大学編

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56

 ふわりと風が頬を打って、たまきは目を開けた。

 そこはさわさわと草が揺れる草原だった。心地の良い風が流れて、たまきはしばらくその風を受けていた。

 

 —————たまき?


 風に乗って、声がした。

 聞き違えるはずもない。梧の声だった。

 風はまるで弄ぶように、たまきの周りを廻っている。


 —————……無理をしているんじゃないだろうな?ちゃんと寝ているか?


 離れている時間にすれば半年程度だが、梧の声が懐かしくて胸が締め付けられる。

 探してはいけないと思うのに、たまきはあたりを見渡した。

 それなのに、梧の姿はどこにも見当たらない。


 —————……君の大丈夫は信用できないからな。


 実際の声はそんなに冷たくなかったはずなのに、梧の声がひどく冷たく響いて、たまきの胸は、ぎゅっと握られたように痛んで、冷えていった。

 あたりを見渡すことをやめ、たまきは立ちすくんだ。

 そうだ、たまきは梧を傷つけた……。だから、嫌われても、仕方がない。

 すると、風が強く吹き抜けた。

 たまきは驚いて目を閉じ、薄く目を開けた先に、一瞬、人影が見えた気がした。

 だが、風が止んだ後、どこを探しても、その人影は見当たらなかった。

 

 —————じゃあな……、……さよなら。

 

 どこかから梧の声が響いて、たまきは慌ててあたりを見渡して梧を探す。

 たまきはひどく不安になった。

 梧がたまきに、さよならと言ったことは一度もなかったから—————。


 ―――――――――――――――

 

「……梧さっ……!!」

 たまきは言いかけて目を覚ました。

 荒い息で見覚えのない天井をしばらく見つめた後、ベッドサイドに視線を移すと、驚いた顔の琉輝と目が合った。

「……大丈夫か?」

 琉輝が静かな声でそう問いかけると、まだ夢から抜け出せない頭で、たまきはしばらくぼんやりと琉輝を見つめた。

「……りゅうくん?」

「おう。……もしかして、寝ぼけてる?」

 そう言って琉輝が顔を覗き込む。

「……そう……かも」

 言うと、琉輝が眉間にしわを寄せて、口を尖らせた後、たまきの額に手を伸ばした。

 たまきが首をすくめて目を閉じると、琉輝が軽く指先をはじいてデコピンを食らわせる。

「った!」

 たまきは、慌てて額を両手で押さえて布団の中に逃げた。

「ったく、無理してんじゃねーよ」

 さすがに保健センターで大きな声は出さなかったが、琉輝は呆れた声で言った。

 大きなため息をついた琉輝に、また狙われないよう額を押さえたまま布団から顔をのぞかせると、

「……ごめん」

 と、たまきは謝った。

 琉輝はちらっとたまきを一瞥した後、

「今度から気をつけろよ」

 と、言って、視線をそらした。

 その逸らし方がぎこちなくて、意味もなくカバンをあさっているので、たまきはふと気づいてしまった。

「……さっちょんから、聞いた?…………私の、病気のこと……」

 琉輝は動きを止め、気まずそうな顔をした。

「悪ぃ……」

 しばらく間を置いて、琉輝がそう言うと、たまきは「そっか」と言いながら、ベッドから起き上がった。

 起き上がるたまきに慌てて心配そうに手を伸ばす琉輝に、手のひらを向けて「大丈夫」と断る。

 琉輝は所在なくその手を握りしめて、自分の膝の上に戻した。

「ごめんね。りゅうくんに伝えてなくて」

 琉輝に向かってぎこちなく微笑んだ後、たまきは視線をそらした。

 しばらく沈黙が続いた後、琉輝が小さく息を吐いた。

 それが、たまきに失望したため息のように聞こえて、たまきは体を強張らせる。

「……いや。俺も、たまきに言ってないことあるから」

 しかし、琉輝が言った言葉は、たまきにとっては意外な言葉だった。

 たまきが顔を上げると、いつになく真剣な顔の琉輝と目が合った。

 一瞬、苦笑して視線を逸らした後、再びたまきと目を合わせると、琉輝は静かに話し始めた。

「俺のオヤジさ……、震災の後しばらく経ってから鬱になったんだよ。……それで、働けなくなって……、母さんが頑張って働いてさ。何とか家族を養ってくれてるんだ」

「えっ?」

 たまきが驚いて声を上げる。

 うっすらだが、琉輝の家族のことはたまきにも記憶がある。

 お父さんもお母さんも明るい人で、鬱なんて想像もできなかった。

 琉輝は、驚くたまきに軽く頷くような仕草をしてから、話を続ける。

「オヤジと母さんは喧嘩する日が増えて、なおかつ俺と妹が年子だから、二人高校出すのに金がかかったりしてさ。そんな中でも妹は私立行きたいって言い出すし……」

 琉輝が高校に進学した頃、家庭内は荒れまくっていた。

 父親は不安定でその場の勢いで離婚を切り出し、離婚はしないという母と喧嘩になった。

 琉輝は母を心配して高校を辞めて働くと言ったが、母から烈火のごとく怒られた。

 見かねて祖父が援助すると言ってくれたのに、父親はプライドが傷ついたのか、それを受け入れず、また揉めて、妹は塾と偽って帰りが遅くなり、その度に琉輝がそれを探しに行った。とにかく、その頃の家の中は悲惨なものだった。

 

 そんな時、母親は仕事の能力を認められて、関東にある本社に転勤する話が出た。

 それを受ければ、母は単身赴任になるが、妹も私立に行かせてやることができるし、生活にも余裕ができる。

 母は迷った。この状況で家を出てよいのかどうか、不安だっただろう。

 父は母が迷っていることで、自分が捨てられると思ったようだった。

 今まで以上に荒れて、暴れた。琉輝でも止められないほどに。

 それこそもう離婚するしかない、となったとき、息子は鬱だからと口を出すのをためらっていた祖母が父を叱りつけた。

 普段静かな祖母がキレたものだから、家族全員驚いたことを覚えている。

 

 祖母は父に、どれだけその場の勢いで離婚を切り出しても、母はそれを受け入れなかったこと。父を一人にすることなく、家族として支えることを望んでいることを言って聞かせ、それがどれだけ大変なことかお前にわかるのかと言うと、琉輝の両親に離婚届を書かせたうえでそれを預かり、祖父から資金の援助を貸し付けと言う形で受けさせ、父に家を出て、治療のための施設に行くように言った。

 その上で母に転勤を受けるように言い、琉輝と妹は祖母が面倒を見ると約束したのだった。

 父親は、穏やかだった祖母に叱られたことが効いたのか、それを静かに受け入れた。

 琉輝はそのまま地元の高校に通い続ける予定だったが、家庭の事情が同級生にも知れていて居づらかったし、祖母の負担や母親を一人にしたくないということを言い訳にして、母親と一緒に引っ越したのだった。

 正直に言うと、家族がバラバラになり、母が自分たち家族を見限ることも怖かった。

 「……けど、こっちに来てもなんだか馴染めなくってさ。野球も、地元じゃ割とうまい方だったけどこっち来たら全然歯が立たなくて、馬鹿にされるし……」

 琉輝は思い出して、言葉を詰まらせた。

 馬鹿にされたのだって、自分が大きな口を叩いたり、素直に人に頼れなかったせいもあるんだと思うと、情けなかった。

「……大変、だったね」

 たまきが静かにそう言った。

 顔を上げると、眉尻を下げたたまきが、心配そうに琉輝の顔を見つめている。

 琉輝は苦笑いを浮かべたまま、首を横に振った。

「……たまきと再会して、マジで嬉しかったし、すげぇ、救われた」

 たまきと居る時間は、琉輝にとって救いだった。

 馬鹿にされるかもとか、見下されるとか、家族のことも、考えなくていい時間だったから。

「私は何にもしてないよ。りゅうくんが頑張ったんだよ」

 さっちょんから聞いた話じゃ、たまきは一人でも、ずっと頑張っていた。

 家族を亡くして、慣れない環境でも両親とつながる部活を選んで努力して、なのに病気になって部活ができなくなって、辛い中でも勉強して留年を回避して。

 逃げ続けた琉輝とは、比べ物にならない。

 病気で仕方ないとわかっていても、逃げているようなオヤジの態度が大嫌いだったのに、琉輝だって同じだった。

 なのに、たまきは、そんな風に言ってくれる。琉輝にはもったいない言葉を。

 琉輝はいまだに、たまきのことが心配だと素直に伝えることすらできないのに。

「……俺はお前みたいに頑張ってねぇよ。逃げてるだけだ」

 そう言って項垂れる琉輝に、たまきは手を伸ばした。

 そして、その頭頂部めがけて指をはじく。

「いてっ!」

「いたっ!」

 琉輝が声を上げるのと同時に、たまきも声を上げた。

 頭を押さえた琉輝がたまきを見ると、指先を押さえて痛がっている。

「りゅうくん石頭?すっごい痛かった」

 琉輝にデコピンをするには、たまきの指先の方が負けてしまったらしい。

 頭頂部に急に痛みが走ったから驚いたが、思えば痛いと声を上げるほどの激痛でもなかった。

 琉輝は痛がるたまきを見て、吹き出し、笑い出した。

「え、ここで笑う?」

 たまきが言うと、

「……マジかよ。か弱すぎだろ」

 琉輝は思わず”可愛いな”と言いそうになって、口元を覆ってその言葉を飲み込んだ。

 その姿勢のまま、肩を揺らして笑っている。

「もー!りゅうくんの頭が硬すぎるんでしょ?笑うことないじゃん」

「ありえねぇ……」

 琉輝が笑っていると、ベッドを囲んでいるカーテンがシャっと勢いよく開けられ、

「静かにしなさい。他に休んでいる方もいるんですよ」

 と、常駐の医師が厳しい表情で注意してきて、たまきたちは首をすくめ、「すみません……」と、声をそろえた。

 二人は顔を見合わせると、ふっと声を上げずに微笑み合った。

 琉輝は声を抑えて、

「……もう大丈夫なら、学食行くか?さっちょんが場所取ってる」

 と、たまきに聞いた。

「え?もうお昼?私、どのくらい寝てた?」

「一時間半ぐらいじゃないか?2限の前だっただろ」

 琉輝は立ち上がり、たまきの荷物を持った。

「そうだっけ……」

 たまきがベッドから降りると、琉輝は手を差し出した。

 その手を借りてたまきはベッドから立ち上がると、

「……大丈夫か?」

 琉輝は心配そうな顔でもう一度確認した。

「うん」

 たまきは微笑むと、自分の荷物を受け取ろうと手を差し出した。

「持つよ」

 だが、琉輝はそう言って、医師に「すみませんでした」ともう一度謝って頭を下げると、そのまま廊下へ出て行った。

 たまきも頭を下げ、琉輝の後を追う。

「持てるよ?」

 たまきが琉輝に言うと、琉輝は「学食までは持つ」と、譲らなかった。

「……ありがとう」

 たまきはお礼を言った後、琉輝の隣を歩いた。

 そして、しばらく歩いたところで、

「私も……、逃げてるだけだよ」

 と、呟いた。

 琉輝は驚いてたまきの顔を見たが、たまきはニコっと微笑んだっきり、前を向いて歩いている。

 ”何から?”と、聞けずに、琉輝も前を向いた。

 

 —————たまきは寝ている間、少しうなされて、目覚めるとき、”梧”と呼んだ。

 梧とは、この前検索して出てきた“海風梧“……さっちょんの言う王子のことだろう。

 琉輝の脳裏に、この前検索したサイトの写真が思い出される。

 

 たまきは、その梧になら、何でも話すだろうか。何から逃げているのかとか、病気のことも。

 琉輝じゃ、たまきの支えにはなれないだろうか。

 未熟な自分に歯噛みしながら、琉輝は横目でたまきを見つめたのだった。


 ――――――――――――――――


「海風社長、大丈夫ですか?」

 工場の視察を終え、ホテルに戻るために日陰でタクシーを待っていると、同行者から声をかけられた。

 わかっていたつもりだったが、この時期の現地の気温は予想以上に暑い。

「ええ、今のところ問題ありません……」

 汗はとめどなく流れているが、ひとまず体調の悪さは感じていない。

 どちらかと言えば聞いてきた本人の方がひどい汗で、疲れた顔をしている。

「そちらこそ、大丈夫ですか」

 梧が聞き返すと、彼は声もなく頷いて、「何とか……」と、微苦笑を浮かべた。

 今回の視察は、梧のほかに取引先からの同行者が三人。もはやビジネススタイルは諦め、全員が通気性のいいポロシャツとリネン素材のスラックスを着用し、首元までカバーする布付きの帽子をかぶっている。

 それでも、肌をなでる風は熱を帯びていて、時折吹き抜ける突風が砂埃を舞い上げた。

 梧は、すでにぬるんだ手元のペットボトルの水を一口含んで、ため息をついた。

「う~ん……」

 若い同行者の一人がスマホを見ながら、唸り声を上げた。

「……どうしました?」

 梧が声をかけると、彼は深刻そうな表情なまま顔を上げたが、梧と目が合って、ぎこちなく笑顔を作った。

「……デモの影響で、予定のルートが封鎖されているようです」

 と、スマホの画面を見せる。

「迂回するとなれば、さらに時間がかかるかもしれません。……タクシーもすぐに捕まるかどうか……」

 彼の表情が強張っていく。

「……構いません。確実に、安全に戻れるルートを選びましょう」

 梧がそう言って笑みを浮かべると、彼はわずかにほっとしたような表情をした。

 その後方で、以前から梧を知っている同行者たちは、優しく笑みを浮かべたその表情に驚いているようだった。

 梧が優しくないというわけではないのだが、いつも無表情に近い硬い表情ばかりでいることが多い。

 黙っていると機嫌の善し悪しがわからず、普段は間を取り持ってくれる時雨が居ないと聞いて、どうなることかと思っていたが、思いもよらぬ柔らかな表情に、その場の空気が和んだ。

 全員、男ばかりだが、イケメンの笑顔の破壊力はすごい。

「しかし、思ったより設備の損傷が少なくて助かりました」

 緊張のほぐれた若い同行者が言った。

「そうですね。部品さえ手に入ればすぐに生産を再開できるでしょう」

「はい。部品の手配は進めてもらっています」

 同意した梧に、彼は笑顔を向ける。


 彼はまだ2年目の新人らしい。

 空港で会った時には意気揚々としていて、梧に対して、学生の時に企業されただなんてすごいです!お時間があればお話を聞かせてくださいなどと言っていたが、現地に入って現状を確認していくうちに、徐々にテンションが目に見えて下がっていった。

 だが、梧に微笑みかけられたことで、何とかモチベーションを取り戻したようだ。

 梧はそれをまた、微笑ましげに見つめた。

 

 梧が表情を緩めたのは、場を和ませようと考えたわけではなかった。それほど器用な男ではない。

 ただ、年齢は違うが、若い同行者の振る舞いや話し方が、何となく紫露たちを思い起こさせて、自然と梧の表情が緩んだというだけだった。


「海風社長は、恋人はいらっしゃるんですか?」

 若い同行者は、おそらく、柔らかい表情の梧に気が緩み、何気ない世間話のつもりで投げたのだろう。

 近年、こういう話題はビジネスシーンではハラスメントやプライバシーの観点から嫌煙されることが多い。

 流石の梧も唐突な質問に、真顔で静かに固まった。

 それを見た他の同行者2人が青ざめ、慌てて彼に近づいて口を押さえる。

「すみません、海風社長。不躾なことを……」

「申し訳ありません!」

 口々に謝り、若い同行者にも頭を下げるように促すと、彼はしゅんとした表情で「……申し訳ありません」と頭を下げた。

「あぁ、いえ。少し驚いただけです。……恋人はいないんですよ。私は無愛想ですから、人から好かれません」

 二人に言った後、若い彼に気を遣わせないように自嘲気味にそう言って、梧はため息をついた。

 すると彼は慌てて首を横に振り、

「そんなことないでしょう、社長はお優しいですし、イケメンですから!ご自分で気づいてないだけですよ」

 と、慰めるように力説する。

 他2人がヒヤヒヤした顔で彼をまた嗜めようとするのを見て、「構いません」と、梧は苦笑して2人を止めた。

「……ありがとうございます」

 ひとまず誉め言葉と受け取って、そう若い同行者にお礼を言うと、梧はふと、視線を逸らして空を見上げた。


 —————優しい、か。


 梧の脳裏に浮かんだのは、たまきと最後に会った時の、たまきの表情だった。

 あんな顔を、させるつもりはなかった。

 思い詰めたようなたまきの表情を思い出し、視線を下げて、軽く目を閉じる。

 —————彼女の気持ちに気づかないで、優しいなんて、ありえないな。

 どれだけ忘れようとしても、関わらず生きようと思っても、たまきのことが頭を離れることはない。

 彼女を笑顔にさせる資格なんてないくせに、彼女の笑顔を見たいと望んでしまう。

 —————彼女には、もう、笑顔にさせてくれる人がいるだろうに。

 以前、カフェで見かけた時、誰か男といた。

 男は背を向けていたからどんな人かはわからなかったが、背格好からたまきと同じくらいの年頃だった。


 梧は目を開く。

 同じ年頃なら、同じ悩みを共有でき、たまきも遠慮せずに言いたいことが言えるだろう。

 きっと幸せに、なれるはずだ。


 梧の胸の奥が、ズキンと深く刺さるように痛んだ。


 この胸の痛みすら、傲慢だと思う。

 もう二度と、彼女に会うことはできない。

 そう思うと、何もかも、どうでもよく思えた。

 

「あ、タクシーが来ましたよ」

 若い同行者が、向かってくるタクシーを見つけて声を上げた。

「やっとホテルに戻れますねー」

 ほっとした表情の彼に、梧も頬を緩めた。

 

 到着したタクシーに乗り込んでいると、突然、爆竹が弾けるような音が立て続けに鳴った。

 とっさに、梧は身を縮め、1番最後に乗り込もうとしていた若い同行者の腕を引いて先にタクシーに押し込む。

「(早く!早く乗るんだ!)」

 タクシーの運転手が焦ったように車内から叫んでいる。

「な、なななな、なんですか!?今の音!?」

 慌てた様子の若い彼に「大丈夫だから落ち着け!」と、言ってさらに押し込む。

「海風社長、早く!」

 中からも若い同行者を引っ張り込んで、他の同行者が焦った様子で言う。

 また同じような音が数発鳴って、梧はタクシーの中に滑り込むように乗り込んで素早くドアを閉めた。

「(全員、乗ったな!?ひとまず逃げるぞ)」

 タクシー運転手が言って、車が走り出す。

「じゅ、銃声ですか?今の……」

 呆然と同行者の一人が誰ともなく聞いた。

「わ、わかりません」

 もう一人が答える。

 車内はしんと静まり返り、猛スピードで走るタクシーのエンジン音だけが響く。

「……海風社長?」

 若い同行者が、震える声で梧を呼んだ。

「……っ、」

 梧は歯を食いしばり、熱さからくる汗とは違う、脂汗を流して顔を歪めている。

 脇腹のあたりを押さえている梧を見て、全員が息を呑んだ。


 ――――――――――――――――


 ガシャンと大きな音を立てて、時雨のデスクからマグカップが落ちて割れた。

「大丈夫ですか!?」

 大きな音が鳴ったので、翠が思わず立ち上がる。

 時雨も思わず立ち尽くしてしばらくそのマグカップを見つめた。

「……ああ、大丈夫です。中身は飲んでいましたからこぼれてはいません……」

 言いながら、時雨は割れたマグカップの傍に屈みこむ。

「……でも、マグカップが」

「高価なものじゃないですから」

 時雨はマグカップのかけらの方へ手を伸ばす。

「あぁ、素手で触らないで!今、ほうき持ってきます」

 言うと翠は部屋を出て行った。

 時雨は言われた通りかけらには触れずにそのかけらを眺めながら、ふと、嫌な予感が胸によぎった。


 —————梧、無事に戻ってくれよ。


 時雨は、祈るように握り締めた拳を、額に当てて目を閉じた。

 

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