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風の行く先  作者: 遥ゆとり
3章 大学編

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 紫露は自室の窓から空をぼんやり見上げた。

 今年、受験生の彼は、一流大学を目指して日々勉強に打ち込んでいる……。が、時雨と分担している家事の疲れが少しずつ蓄積してきていた。

 家事をすることには慣れた。

 だけど、家に帰ってくれば、いつも笑顔でお帰りなさいと出迎えてくれた母が居ない。

 それは日に日に、寂しくなっていった。

 何かすれば褒めてくれて、笑ってくれて、抱きしめてくれる母が居ないことは、想像以上に堪えている。

 今、自分がしていることが正しいのかどうかも、迷ってしまう。


 —————あなたは、今思ってる道を進んでみなさい。大丈夫。間違ったと思っても、そう思った時にまた考え直せばいいだけだから

 

 どんな気持ちで、杠葉はああ言ったのか。

 今世の家族を大事にしないで、自分は何をしているのだろう。

 時雨だって、杠葉が居なくなってからは、心から笑っているところなど見ていない。

 

 去年の七月に母が出て行ってから、もう九ヶ月ほど経つだろうか。

 早く迎えに行けばいいのにと思う一方で、前世のことに何一つケリがつけられていないのに、行っても同じことの繰り返しになってしまう気がする。

 母の気持ちが晴れないまま、再び我慢させることになるのだ。

 ただ、前世のことを聞きたくない杠葉に、どう説明していいかもわからない。

 でも、結局は聞いてもらわなきゃいけないだろうな。と、紫露は思った。

 ……杠葉はどう思うだろう。

 ショックは受けるだろうなと思うと、居たたまれない。

 梧にも、たまきにもいつかは話さなきゃいけない秘密が、紫露の胸に重く圧し掛かっている。

 さっさと話して仕舞えばいいのに、それすら、”時雨と緝の気持ちが決まった時に”なんて逃げ道を作って、梧たちのためと言って勉強することで何かをやってるつもりになって、結局は逃げているにすぎない。

 

「あ~~~~、も~~~~~~」

 紫露は声を上げて伸びをした。

 さっきから、参考書が1ページも進まない。

 諦めてベッドに寝転がると、紫露はため息をついた。

 

 杠葉のことを、ないがしろにしてきたつもりはない。

 紫露は前世では母と言う存在を知らなかったし、初めて出会った母がこんなにも子供のことを無条件に愛してくれるものなのかと幸せな気分になった。

 それがいつしか、居てくれることが当たり前になって、年頃になるとその存在を恥ずかしく思えたりもして。

 そんな息子でも、何でもかんでも受け入れてくれる杠葉に甘えて、時雨も紫露も、前世のことばかりに気を取られすぎた。

 杠葉は、今世しか知らない。それなのに、一人、置いてけぼりにしてしまった。


 痛む胸を押さえながら軽く目を閉じると、スマホの通知音が鳴った。

 胸がどきりとした。

 心悠だろうか。

 ……いや、あれだけ怒っていた心悠が連絡をしてくることはないか。と思い直して、のそりと起き上がった。

 机の上からスマホを取ると、珍しく、相手はさっちょんだった。


 ”ねー!紫露ぉぉおおおおおお!たまが不幸になってもいいのかぁああああ!!”


「……は?」

 突如として送られてきた謎のメッセージに、紫露は眉根を寄せた。


 ”何ごと?たまき先輩になんかあった?”

 

 嫌な予感に胸がざわめく。

 体調が悪いのだろうか。でも、それなら不幸なんて言い方はしないだろうと思いつつメッセージを返すと、はぁ!?という、怒った顔のスタンプが押され、

 

 ”いいんだな?たまが、王子以外の人と付き合っても!いいんだな!?”

 

 本当にさっちょんかどうか疑わしいほど、荒ぶった内容が届いた。

 王子ってアオ君のことだよな……と、鈍った頭で考えた後、

「え?は?たまき先輩が……、アオ君以外と?」

 ようやくメッセージの内容が頭に入ってきて、紫露は慌てた。

 一番最近の記憶は、去年の夏の、インターハイのパブリックビューイングだ。

 あの時の二人は、なんだか甘い雰囲気で、良い感じだった。

 紫露は杠葉と時雨のことで頭がいっぱいだったし、あの雰囲気なら安心だと、勝手に思い込んで、その後気にしていなかった。

 

 ”うそ?なんで?PVパブリックビューイングのとき、ラブラブだったじゃん!”

 

 ”いつの話してんだよぅ!たまは大学で幼馴染に再会して狙われてるし、王子には別に恋人がいるらしいじゃん!!たまが見たって!!”

 

「っはあ!?アオ君に恋人ぉ!?」

 紫露は思わず立ち上がり、大声を上げた。


 ”ねーねー!ほんとーに、恋人居るの!?本っ当に、いいの!?たまが、ぽっと出の男に奪われても!!”


「だ、だめだよ!だめだめだめ!!」

 紫露は1人部屋の中で、スマホに向かって言ったのだった。

 


 ――――――――――――――――

 

 

「……五月病かなぁ」

 ベッドの中で縮こまる緝の横で、翠はベッドに腰かけて緝の額に手を当てた。

 額は熱く、翠はその額に冷却シートを貼った。

「……風邪だろ……。これを五月病とは言わない……」

 四月も末に差し掛かり、緝は熱を出した。

「……それもそうだね」

 翠からすれば、ここまで良く持ちこたえたものだ、と感心するくらいだ。

 去年の秋の末、緝は梧と会っているときに、彼に伝えなければならないことを思い出した。

 いや。忘れていたわけではないだろう。胸の奥にしまい込んでいた記憶を、はっきりと、伝えなければと自覚したようだった。

 だが、あの頃、就職先にはある程度の目途はついていたが、資格試験と卒論で多忙を極める時期で、緝は青い顔のまま、黙々とそれに向かって勉強を続けた。すべてが終わったら、梧に話そうとずっと頭の中で考えながら。

 

 見事、資格を取得し、卒業も滞りなく迎えられた後、家族の反対を無視して、再び翠のマンションに、今度は正式に引っ越した。

 その後、就職した薬局で働きながら、梧に話す機会をうかがっていたのだが、結局それが祟って、熱を出したのだ。

 緝が律儀なのは、今日が勤務の休みの日だと言う点だ。体調はなんとなく、ずっと悪かったが、熱を出したのは今日の朝になってからだった。

「……ハルのことだけどさ……」

 弱っているときに言うことじゃないと思いながら、翠は静かに言った。

 緝はピクリと反応を示したが、返事はなかった。

 その髪をさらりと撫でながら、

「……俺は話を聞いただけだけど、……君が殺したんじゃないんだから”殺した”なんて言い方で、海風さんに説明したらいけないよ」

 優しい声で言った。

 緝はベッドの中で身じろぎしながら、

「…………殺したようなもんだよ…………。他に、方法があったかもしれないのに……、俺はそれを選んだんだから」

 そう言った声が震えているのは、風邪のせいじゃないだろう。

 翠はゆっくり撫でている手を止めていない。

「ハルが望んだんだろう?」

「死にたいと、望んでいたわけじゃない……。……仕方なかったから選んだんだ……。あいつだって…………本当は…………」

 緝の声に、涙が混じる。

 体調が悪いと、思いのほか涙腺が弱くなる。

 情けなさからさらに身を縮めて布団の中に潜り込んだ、緝の震える体を翠は覆い被さるように抱きしめる。

 やがて堪えきれない嗚咽が、布団の中から聞こえ始めた。

「……緝くん。覚えてない俺が言ったんじゃ、説得力はないかもしれないけどね。…………俺は()()の判断で良かったと思ってるよ。…………ハルの望みを、叶えてくれてありがとう。……先に死んで、お前1人に全て背負わせて、悪かった……」

 まるで、スイの記憶があるかのようなその言葉が、わずかに緝の心を軽くする。

 緝を気遣い、翠が演じた言葉でも、その気持ちがありがたかった。

 ……伝えなければ。

 梧が、もしもまだ、自分のせいだと思っているなら。

 お前のせいじゃないんだと言うことを。

 熱と涙で朦朧とする頭で、緝は静かに決意を固めた。


 ――――――――――――


「何を言ってるんだよ、梧」

 時雨は取引先の海外工場でトラブルがあったとの連絡を受け、梧と共に休日出勤していた。

 梧が連休明けから現地に行って確認してくると言い出したので、時雨は慌てた。

「取引先からも数人行くというから、そこに同行させてもらう予定だ。先方には許可をとった」

 こんな時に限って、梧の対応が的確で素早い。

 にこりともしない淡々とした表情で、梧はパソコンに向かっている。

「デモも起きてるんだろ?危険だ。1人じゃ行かせられない。おれも…………」

「お前はダメだ。紫露を一人にするつもりか」

 言いかけた時雨の言葉を、梧は遮る。

 あれ以来、杠葉がいないことははっきり伝えていないが、どうやら霞から聞いて、とっくに知っていたようだった。

 鋭い視線で真正面から梧に見つめられて、時雨は反論できずに一瞬、黙った。

「……なら、先方に任せよう。お前1人で行く必要はないよ」

 しかし、ここで引きさがるわけにもいかない。

「……まだ数日ある。先方もそれまでにデモはある程度落ち着くと考えているから、問題ないだろう。うちだって一部出資しているし、知らん顔というわけにはいかないだろう」

「……先方はどのくらい滞在するって?」

「1週間以内には帰ってくるつもりだと言っていた。俺は、確認が済めば先方を待たずに先に戻るさ」

 それでも時雨は、納得できない顔のままだ。

 それと、時雨には気になっていることがある。

 以前にも海外に確認に行ったことはあるが、時雨の判断に対して、こんなふうに食い下がって強行しようとすることはなかった。

「…………なにか、自棄になっていないだろうね?」

 ここ最近、梧に感じている違和感を、時雨は口にした。

 梧は、一瞬だけ、キーボードをたたく手を止めた。

 去年の秋から、梧の様子がおかしい。

 まるでたまきと出会う前に戻ったように、寝不足な顔をして、仕事に打ち込んでいる。

 梧の方から、たまきの話は一切しない。

 たまきと何かあったのかと聞いても、「何もない、彼女は彼女の人生があって、それを邪魔するつもりはないだけだ」と言っただけで、それ以上何を聞いても答えなかった。

「……なっていない。心配するな」

 梧は時雨から視線を逸らして答えた。

 時雨の胸の不安を消してくれるような返答ではなかったが、時雨もいろんなことを黙っている手前、強く言うこともできないが……、梧をこのままにしておけない。

 もう、いい加減、逃げ続けるのをやめなければならない。

「どうしても行くのか?」

 トーンを落として、真剣な顔で時雨が梧を見つめると、梧もその視線を受け止め、頷く。

 その顔は、どう説得しても曲げないときの顔だ。

 こんな時に思い出したくもないが、ゼンの様子を見に行くと言って、戦地に向かう時と似た表情だった。

 時雨は深くため息をついた後、諦めたように顔を上げた。

「……そうとなれば、準備を万端にする。なるべく最短で、安全に梧が帰ってこれるように」

「……心配し過ぎだ」

「し過ぎるくらいがちょうどいいんだよ。何が起きるかは、わからないだろ?想定できることには対応できるようにしておく。梧も、連絡手段だけはいくつか考えておいてくれ」

 言うと、パソコンとスマホを駆使し始める。

「……ああ」

 梧もパソコンに視線を戻す。

「それと……」

 しかし、時雨が口を開いたので、またそちらに視線を向けると、複雑な表情の時雨と目が合った。

「…………帰ってきたら、話したいことがある」

 言われて梧は、一瞬たじろいだ。

「……話したいこと?」

 聞き返した梧の言葉に頷き、時雨は真剣な眼差しで梧を見つめ続ける。何を、と聞きたかったが、その眼差しに圧され、梧は「……わかった」とだけ、答えた。



 ――――――――――――――――――――


 紫露は部屋の中で落ち着かずにうろうろしていた。

 今日に限って時雨はトラブルがあったと言って休日出勤でいないし、梧のことを聞こうにも聞けない。


 梧に、たまき以外で恋人ができるとも思えないのだが、落ち着かない。

 さっちょんがまた聞きした話によれば、2人はとてもお似合いに見えたらしい。

 梧が2人きりで会うような女性なんているのかどうかも、時雨に確認したかった。

 

 これは紫露の勝手な思いでしかないけれど、どうしても梧とたまきは、二人で幸せになってもらいたい。

 もちろん、二人が想い合っていないのなら仕方ないけど……、パブリックビューイングの時の二人の表情は絶対、二人ともお互いを好きなはずだ。

 そういうことには、どちらかと言えば疎い紫露にだってわかる。

 たまきと出会う前の梧から考えたら、信じられないくらい優しい顔をしていたし、たまきだって、照れながらも好きが溢れていた……と思う。

 何より、二人が一緒にいるとき、紫露もとても満たされた気持ちになる。

 

 単純にすれ違っているだけなら、それを解いてあげないと。

 そう思ってこぶしを握り締める。


 その時、玄関のドアが開く音がした。


 ハッとして、紫露は部屋を出て、リビングの方へ向かう。

「父さん!」

 しかし、時雨の姿はそこにはなく、物置の方からごそごそと物音がして、

「紫露?どうかした?」

 と、声がした。紫露がそちらへ向かうと、時雨が旅行用のグッズをいくつか取り出しているところだった。

「……またすぐ出かけなきゃいけないんだ。なにかあった?」

 手を止めずに時雨が聞くと、

「え?あ、うん。けど、……父さんどっか行くの?」

 一瞬、母のところに迎えに行くのかと思ったが、自分の荷造りをしている感じではなかった。

「いや……、梧が海外工場の様子を見に行くって言い出したんだ。連休明けまでにいろいろ準備しておかないといけなくて」

 そう言いながら、いくつかあるスーツケースの大きさを見ている。

「……海外工場って……、今日トラブルがあったってところ?」

「ああ。」

「……大丈夫なの?なんか、デモが起きてるんじゃなかったっけ?」

 最近勉強しながら、梧たちの会社の仕事も調べていて、海外工場のことも知っていた。

 その現地で、デモが起きていることも。

 日本と違って、海外のデモは暴動にも発展して、危険なことがある。

 紫露の胸に、不安が広がる。

「そうなんだけど、行くって聞かないんだよ。何があったんだか、なんだか昔みたいに仕事仕事になっちゃって……」

 ぶつぶつと言いながら、自分の部屋と物置、寝室と行き来しながら、何かを探している。

 ほとんどのものの場所はわかっているつもりだったが、普段使わないものはそう簡単ではなかった。

 杠葉が居ればすぐ見つけてくれるだろうに。

 紫露は時雨のうしろをうろうろとついて行きつつ、

「……アオ君って、恋人居ないよね」

 と、訊いた。

 時雨は動きを止め、紫露の方を振り返った。

「なんて言った?今……」

 紫露が言った言葉を聞き取れはしたのだが、あまりに突拍子もないので聞き返した。

「アオ君に、恋人いないよね?」

 紫露ははっきりとした口調で、もう一度言うと、時雨は少しの間、硬直したまま思考停止した。

「…………たまきさん以外にってこと…………?」

「そう」

 ようやく意味を理解したように、一つ質問をした後、眉間にしわを寄せ、空中に視線を迷わせた。

 いくつかのピースが繋がりそうで繋がらない。

「……誰がそんなこと?」

「……中学の時の部活の先輩から連絡が来た。たまき先輩が、アオ君と女の人が会ってるとこ見たらしい」

 時雨はそれを聞いて、頷きながらもため息をついた。

 おそらくたまきのことだから、それをストレートに梧に聞けなかっただろう。

 と、なれば、それが原因で、梧はたまきに避けられているのかもしれない。

 そうだとすれば、梧の様子にも納得がいく。

「たまきさんが見たのは……最近じゃないよね?きっと」

「……たぶん、去年の秋くらいじゃないかな」

 さっちょんからそう聞いたわけじゃないが、心悠が紫露の家を訪ねてきたのがそれくらいの時期だった。

 おそらく、心悠が紫露に聞きたかったこともそれだろう。

 紫露はあの時ちゃんと話を聞けば良かったと思って、項垂れた。

「……なるほどね」

 時雨の中で、全てが繋がった気がした。

 まず、梧に恋人なんてありえない。もしそうなら、あんな顔で仕事に打ち込んだりはしていないだろう。

 それに、梧が会う女性なんて限られている。社員か、霞くらいだ。

 社員と社外で会うことはほぼないから、たまきが見たのはおそらく霞だ。

 去年の秋ごろなら、霞は仕事で帰国していて、梧にも何か用があると言っていた気がする。

 杠葉の一件があって、時雨は平常心ではなかったから、さらっと流してしまって忘れていたが。

「しかも……たまき先輩、大学で幼馴染に再会したらしくて……、狙われてるっぽい」

 拗ねたような顔で言う紫露に、時雨は目を丸くした。

「狙われてるって……。それはまぁ、選ぶのはたまきさんだけど……」

 時雨がそう言うと、紫露は途端に不機嫌そうな顔になって黙る。

 ただ、言いつつ時雨も内心穏やかではなかった。選ぶのは自由だが、誤解したままでは納得できない。

「事情はわかった。どうにかするよ」

 そう言うと、紫露は少しほっとした表情で顔を上げた。

 だが、すぐにまた不安そうな表情になり、

「アオ君、本当に危なくないの?」

 と、訊いた。

「……大丈夫だよ。時間はないけど、できうる限り準備してから向かわせるから」

 紫露を安心させようと時雨は言ったが、その表情はわずかに硬い。

 心配そうな顔のままの紫露の頭を撫で、抱きしめた。

「大丈夫」

 もう一度、自分にも言い聞かせるようにそう言う。

「……帰ってきたら、梧に前世のことを話す。たまきさんとのことも、解決させないと」

 紫露から体を離して、その顔を見つめた。

 紫露の表情が一瞬曇ったが、すぐに覚悟を決めたように頷き、「そうだね」と答える。

 時雨も頷くと、頬を緩め、

「じゃあ、紫露も準備を手伝ってくれ」

 と言って、その背中を軽く叩いた。

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