49
木々を揺らしていた風が、ふと、止んだ。
それに気がついて、窓を開けると、いつもなら肌を打つ風を感じない。
妙に静かだった。
スウェーデンは水辺の多い国で、風が止むことはほとんどない。
海に近いこの街ももちろんそうだ。
「(風が止んだ)……?」
急に窓を開け、なにやら呟いた彼女の声に、杠葉は首を傾げた。
「……どうかしましたか?ヴィヴェカさん」
声をかけると、彼女—————ヴィヴェカが振り向く。
その顔には、額から眉間を通り、右頬にかかるくらいの大きな傷跡があった。
若い頃に事故で負った傷らしいが、この傷をきっかけにパートナーである霞と親しくなれたことから、彼女はそれを“勲章”として誇らしく思っている。
「……ユズ、ヴィヴィでいいって言ってるでしょ?」
不満げに顔を顰め、流暢な日本語で言う。
ヴィヴェカは霞の影響で、日本語が堪能だ。
「……ヴィヴィ……さん」
杠葉が遠慮がちに言うと、ヴィヴェカは「さんはいらないの」とため息をついた。
「あら、またやってるの?そのやりとり」
そこへちょうど、子供達を寝かしつけた霞がリビングにやってきて、呆れ顔をした。
「みんな、寝た?」
「ええ、ぐっすりよ。杠葉ちゃんが昼間上手に遊んでくれるから、助かってるわ」
ヴィヴェカと霞は女性同士のカップルだが、精子提供による出産と、養子も含めて5人の子供がいる。
一番上は22歳で独立しているが、16歳から3歳までの子供が家に居て、賑やかだった。
杠葉はこっちに来てから、時間を持て余して日本のことばかりを考えてしまうかと思っていたけれど、子供たちと触れ合ったり、ヴィヴェカのスケッチに付き合ったりしているうちに、思いのほか時間はあっという間に過ぎて行った。
「で?ヴィヴィは何をしていたの?」
霞が近づくと、ヴィヴェカは腕を広げて霞を受け入れる体勢になった。霞は愛し気にヴィヴェカの頭を撫で、顔の傷も指先で撫でたあと、その腕の中に納まった。
肩にもたれかかりながら表情を伺うと、ヴィヴェカは少しだけ神妙な顔になって、窓の外に視線をやった。
「……(なんだか、風が止まった気がしたの)」
「(本当に?)」
霞も窓の外を見るが、木々は揺れて見える。
さっきまではすべてが静止しているように見えたのに、今は静かに木々が揺れていた。
……先刻の違和感が、気のせいかと思うほどだった。
「(気のせいかもしれないけど……)」
「(いいえ。あなたが言うんだから、きっとそうなんでしょう)」
杠葉も、子供たちと話しながらだんだんとスウェーデン語には慣れ始めていたが、会話すべてにはまだついて行けない。
杠葉は二人の雰囲気もあって席をはずそうと腰を浮かせた。
しかし、気づいた霞が、
「ヴィヴィが、一瞬、風が止まった気がしたって言うの」
と、今の話の内容を話した。
それを聞いて、杠葉の顔が顰められる。
「……風が止まった?」
水辺が近いこの家の周りで、風が止むことはほぼあり得ない。
「……それってどういう……」
言いながら、杠葉の顔に不安の色が浮かんでくる。
杠葉は前世を覚えているわけではないが、”風”が止まったと言われると、何となく嫌な予感がした。
「……帰りたくなった?」
ヴィヴェカが言う。
杠葉は言葉に詰まった。
それを聞いた瞬間、霞が体を起こして、ヴィヴェカの方を訝しんで見つめる。
「ヴィヴィ、あなた……」
杠葉を試すための嘘かと思ったのだ。
「違う違う。風の話は本当」
肩をすくめて、ヴィヴェカは慌てて首を横に振った。
霞は目をすがめてヴィヴェカを見つめてから、ため息をついて「……信じてるけど」と、呆れたように言って、腕の中に戻った。ヴィヴェカはその霞の額にキスをして抱き寄せると、ほっと微笑んだ。
だが、杠葉はまだ不安げな表情で胸元を押さえた後、振り払うように軽く首を横に振った後、微苦笑を浮かべて「私、もう休みますね……」と言うと、客間へと向かって行った。
その背中を見送りながら、霞がヴィヴェカを軽く小突いた。
「(なに?)」
「(あの子をあんまり不安にさせないでちょうだい)」
頭を抱えてため息をつく霞に、
「(そんなつもりなかったんだけど……)」
と、困った顔でヴィヴェカは答えた。
敢えてスウェーデン語で話したのに、伝えたのは霞でしょ?と、言いたかったが、無意味に恋人を怒らせる必要もないのでヴィヴェカはその言葉は飲み込んだ。
「(あの子たちにとって、風は特別よ)」
「(でもユズは覚えてないんでしょ?)」
「(記憶はね。でも感覚はあるんじゃないかしら)」
「(……そう。そうかもね)」
「(今は、少し煩わしいことから離れて、自由になってもらいたかったのに)」
とはいえ、霞も”風が止まった”というヴィヴェカの言葉には、少し引っかかっている。
スウェーデンの人たちは自然を大事にしているから、自然の変化に対する感覚が霞たちより敏感だ。
「(……霞、本当の自由って何かしら?)」
「(え?)」
真剣な顔でヴィヴェカが問うたのを、霞は驚いた顔で見つめ返した。
その問いに、霞はすぐには答えられなかった。
「(帰る場所があってこその自由よ。霞だって、弟夫婦が別れることを望んでるわけじゃないでしょう?)」
「それは当然よ」
ヴィヴェカの言葉に、霞は思わず日本語で返した。
急に霞は不安そうな顔になった。
「”風”が止んだのは、不吉な予兆なの?」
そう言ってヴィヴェカの、淡いブルーの混じったグレーの瞳を見つめ返す。
ヴィヴェカはハッとして、霞を抱き寄せた。
「(私は、あなたのことも不安にさせたのね)」
髪にキスを落とし、霞の背中を撫でながらヴィヴェカは言う。
「私は大丈夫よ。あなたがいるもの。……だけど、杠葉ちゃんは不安だと思うわ」
「……そうね。配慮が足りなかった」
霞はヴィヴェカの背中に手を回し、ヴィヴェカはその霞に頬を寄せながら答えた。
ヴィヴェカは、窓の外を再び見つめた。
「(風が止んだのを見たのは、私も初めてだわ。深刻なことにはならないとは思うけど、すべてが解決するのは簡単じゃないのかもしれない)」
霞は目を閉じて、「……そう」と、沈んだ声で呟いた。
「(そんなに心配しないで、ハニー。きっと、もうすぐ全部がうまくいくわよ)」
安心させるようにヴィヴェカがそう言うと、腕の中で、霞が静かに頷いた。
――――――――――――――
杠葉は客間として用意された部屋のベッドにもぐりこんで、身を縮めた。
なんだか胸騒ぎがして、どうにも落ち着かない。
思えば杠葉は、大学生の頃に出逢ってからというもの、時雨から離れたことがなかった。
電話をしてみようかしら。そんな風に決心が揺らいだけれど、杠葉はぎゅっと目を閉じて首を横に振った。
きっとそれじゃあ、何も変わらないままになってしまう。
暗闇の中で天井を見上げながら、杠葉は時雨との出会いを思い出していた。
—————やっと見つけた……!
知らない男性から腕を掴まれ、杠葉は初め、何が起きているのかわからなかった。
—————僕と君は前世で出会っていたんですよ。覚えていませんか……?
驚いた顔で固まっていた杠葉に、時雨は真面目な顔で言った。
全く身に覚えがない。人違いではないかと言おうとしたが、大学内の人目の多いところで始まったドラマのような展開に、周りの人は騒然とし始め、杠葉は恥ずかしくなって、時雨の頬を叩いて怯んだ隙に逃げ出した。
その後、杠葉と時雨が大学内の有名人になったことは言うまでもない。
相手が同じ学部の霜槻時雨という先輩であるということはすぐにわかったが、名前や経歴を聞いても、何一つ思い当たらない、知らない人だった。
彼は優秀な学生で真面目な人だったらしく、杠葉のことを、彼をたぶらかした悪女ではないかと言う噂が一瞬流れた。
講義で注目されたり、ひそひそと陰口を叩かれたりと杠葉にとっては大迷惑だったが、人の噂というのはうつろうもので、教授のゴシップや何かで、数日のうちに学生たちは興味をなくして、不思議と普通に過ごせるようになった。
時雨もあれっきり、杠葉に接触してこない。
学部が一緒だから講義が一緒になったり、図書館で見かけたりすることはあったが、時雨は杠葉を避けているようだった。
あんな衝撃的な出会いをしておきながら、その後何も話しかけてこないとなると、余計にあれはどういうつもりだったのだろうと気になる。
それに、彼の言葉がずっと胸の中に残っていた。
————僕と君は前世で出会っていたんですよ。
前世なんて知らないし、記憶にない。彼なんて、もちろん知らない。
それなのに、なぜか胸がざわめいてやまない。
胸の中で、風が吹きすさんでいるようだった。
だけど、あの人のことを知りたいと思う自分が、なんだか罠にはまったみたいで、杠葉は流されたくないと必死に抗っていた。
この気持ちは、あの劇的なシチュエーションが産んだ勘違いに違いないと思っていたから。
彼とは三歳差で、すぐに卒業していくだろうし、会わなくなればきっと薄れていくと思った。
けれど、彼は大学院に進んだ。
真面目で優秀な彼はTAになり、教授の助手として杠葉の受ける講義にやってくるようになった。
だけど、彼は杠葉に特別に話しかけたりはしない。他の生徒と同様に事務的な接し方だった。
最初のあの出来事を意識してしまっているのは杠葉の方だけだと思うくらい、彼は淡々としていた。
外見は悪くなく、さわやかで柔和な物腰の彼は、女子たちからそれなりに人気があったようで、助手として参加した時は、毎回、休憩時間には囲まれて質問攻めにあっていた。
勉強の質問という名目だったようだが、「女性のタイプはどんな人ですか?」なんて言葉も時折聞こえたから、そういう目的の子達もたくさんいただろう。そういう質問は勉強外だから秘密ですよ。と軽く躱し、優しい微笑みで彼女たちに対応する時雨に、杠葉はなんだか苛立った。結局、前世なんて運命めいたことを言っておきながら、誰でも良かったのでは?と思う。
だから、絶対に目を合わせたり、自分から話しかけたくはなかった。
そんな膠着状態のまま、ある時、サークルの飲み会の二次会に、誰かが院生の先輩たちを呼び、そこへ時雨もやってきた。
そういう場に来る人ではないと思っていたから驚いたが、さらに驚いたのは、あんなに避けていた杠葉の隣に座ったことだ。不覚にもドキドキして、また前世のことを言って、口説いてくるつもりかと身構えた。
だけど、時雨は隣から席を変えないものの、杠葉に話しかけたのは、来た時に「ここに座っても良いですか?」の一言だけだった。
あとは同じテーブルの杠葉以外の学生と話している。
まぁ、杠葉も頑なに、こちらからは話しかけはしなかったけど。
隣に座る必要なんかないじゃない。と、また腹が立ってきて席を移動しようとしたとき、テーブルの下で時雨が優しく腕を掴んだ。
—————どこへ行くんですか?
まるで意識されていないと思っていたのに、そんなことをされて杠葉は一瞬たじろいだ。
途端に胸がざわついて落ち着かない。
—————……先輩は他の方とお話されてますし、隣は誰でもよくありませんか?
努めて口調は穏やかにしたが、表情は冷たくなってしまう。
もしかしたら、杠葉が意識していたことがわかるような言い方になってしまったかもしれない。
お酒を飲んでいたから、自制が効かなかった。
彼は怯むことなく、すがるような瞳で杠葉を見つめてきた。
—————……話してもいいなら……、あなたと話したい。いけませんか。
杠葉から話しかけてもらえるのを待っていたのか、許可が必要だと思っていたのか、時雨はそう言った。
腕を掴む手にわずかに力がこもる。
断ろうと思った。嫌です。と言ってやろうと。
だけど、時雨の顔を見ていたらなんだかそうはできなくて、杠葉はそのまま、座り直した。
—————ありがとう。
時雨がほっと微笑んで、手を離した。
掴まれた場所がスッと冷えて、杠葉は腕をさすった。
出会いの時は道ゆく生徒の注目を浴びていたけれど、他の学生たちは各々で盛り上がっていて、杠葉と時雨のことなど、気にも留めていない。
—————前世って、……なんでそんなことおっしゃったんですか?
話したいと言ったものの、なかなか話しかけてこない時雨に痺れを切らして、杠葉から声をかけた。
それにもなかなか答えない。
初めて出会った時、あんなことを言って杠葉を呼び止めた積極さとは裏腹な、不器用すぎる接し方に、本当に同一人物かと疑ってしまう。
—————私には前世の記憶があると言ったら、信じますか?
てっきりあれは君の気を惹くための冗談だったと言われるものかと思った。
だけど彼は、至極真面目な顔でそう言った。
杠葉は答えられなかった。にわかには信じられない。
でも、嘘ではない気がした。
—————いえ。いいんです。前世の話は忘れてください。ええと……、あなたは何がお好きですか?食べ物や、ご趣味でも……。何にご興味がおありで?
困った様子の杠葉の様子を察して、彼はそんなことを言った。
話題が思いつかないにしても、ご趣味やご興味だなんて、今思い出しても笑えてくる。
酔っていたこともあって、杠葉は笑いが止まらなくなってしまった。
そこで打ち解け、時雨と杠葉はよく話すようになった。
時雨は勉強の教え方も上手で、研究室の彼の席でよく勉強を教えてもらったりもした。
卒業を間近に控えた彼から交際を申し込まれて、杠葉は快諾したのだった。
付き合ってからの彼も優しくて、怒ることも、杠葉を否定することも、嫌がることも、全くしなかった。
時雨は誠実で、真面目で優しい、完璧な人だった。
だけど、杠葉が大学を卒業する頃、時雨が梧と再会した。
まだ小学生だった梧は子供とは思えないほど、とても大人びた表情をしていて、時雨はその梧に対して傅くように振舞った。
梧と時雨は前世で、主従関係だったと言う。
梧が現れ、前世の話をまるで当たり前のように話しているのを聞いているうちに、杠葉はだんだんと不安になっていった。
時雨はずっと触れずにいてくれていたから、前世のことなど忘れかけていたし、杠葉にとっては物語のようなものに過ぎなかった。
興味本位で一度だけ聞いたときは、二人はお互いを思い合っていたが、前世の杠葉は旅人で、ある日ふといなくなって以来、二度と再会はできなかったとだけ、時雨は教えてくれた。
前世が現実のものだとわかると、時雨が好きなのは今世の自分ではなくて、前世の自分なのではという疑問が浮かんだ。
杠葉は身代わりなのではないかと。
その頃、時雨は杠葉にプロポーズをした。
けれど、杠葉は迷った。
どれだけ杠葉が今世を見てほしいと思っても、一緒に現実を生きていってほしいと願っても、時雨は前世を忘れることも、切り離すことができない。
前世が時雨と杠葉を出逢わせてくれたとわかっていながら、不安だった。
いつか、それが、決定的な溝になりはしないかと。
杠葉は結婚を断ろうとまで思った。
杠葉が迷っているのを知って時雨は慌て、前世のせいですか?と訊いてきた。
そう訊かれても、杠葉は答えられなかった。
時雨に前世を捨ててほしいとは言えない。きっと梧と離れることも不可能ではないのかと思った。
それは、時雨の大切な一部だから。だけど、前世があるからこそ不安なのだとも素直には言えなかった。
見かねた霞が間に入って、時雨には内緒で杠葉にこう言った。
「本当に不安なら、結婚しなくてもいいのよ。前世なんてありえなし、信じなくてもいい。時雨には、二度とあなたの前に現れないように、あなたの生活圏内には絶対に入らせない。国外追放だってできるわ」
その時の霞の気迫で、その言葉が冗談でもなんでもなく、本気であることが伝わってきた。
結婚を断ろうと思いながらも、時雨とは離れたくなくて迷っていた杠葉に、霞は時間をくれた。
梧もまた、自分が邪魔なら二度と会わないから、時雨を受け入れてもらえないかと懇願された。
前世で時雨は、身を尽くして梧に支えてくれたから、幸せになってほしいのだと。
その切実な顔が、忘れられない。
杠葉は迷いながらも、この先、時雨のいない人生で幸せに暮らす自分がどうしても想像できなくて、悩んで悩んで覚悟を決めて、プロポーズを受けることにした。
霞は立会人となって、時雨に条件を突き付け、どんな時でも杠葉の味方になると言ってくれた。
杠葉も結婚するにあたり、杠葉の前世の話はしないでほしいという条件をつけ、時雨は承諾した。
結婚当初の時雨は、隠しているつもりだったようだが、緊張した顔で仕事から帰ってきて、杠葉が「お帰りなさい」と出迎えるたびにホッとしていた。
きっと、杠葉が居なくなっていないか心配しながら帰ってきていたのだろう。
両手を広げて時雨を出迎えて、抱きしめることが杠葉の日課だった。
杠葉はできることをしようと思った。
時雨の前世のトラウマを取り除くために、自分のことよりも時雨のことを優先し、休日も離れずに一緒にいた。
そうしていれば、いつか、前世の記憶の有無なんて関係がなくなる。
そう信じていた。
だけど、結婚から一年ほどたって紫露が生まれた時、杠葉が恐れていたことが起きた。
産まれたばかりの紫露を見た時の時雨は、ひどく狼狽した。それを見せないように振舞っていたけれど、杠葉にはわかった。
紫露もまた、時雨と前世で関りを持つ子なのだと。
せめて記憶がなければと思ったけれど、紫露の記憶が戻るのは早く、5歳になった頃、杠葉のいないところで時雨のことを「親父」と呼ぶのを聞いてしまった。
前世での彼らの関係を、知ることが怖かった。
自分の産んだ子供が前世を背負わされることも、別の人の子供だと言われることも。
それを知ってか知らずか、二人は杠葉に前世のことを隠し続けた。
そのこと以外は、一般的な家庭と同じだったと思う。
いや、少し過剰に愛されていたかもしれない。
時雨は周りに誰が居ても甘い視線で杠葉だけを見つめてきたし、紫露も成長しても反抗期などほとんどなく、家族との時間を大事にしてくれた。
梧のことも初めこそ苦手だったけれど、少し不器用だけど誠実な子で、甘え下手だとわかってからは、からかいながら家族みんなで甘やかした。
近頃になって、たまきや他の前世の関係者が増えていくと、杠葉はふと、こんなことを考えた。
—————二人にとって、私は必要だろうか。
今でも時雨が、杠葉が自分の元から去ってしまう不安と戦っていることはわかっている。
紫露が自分の子として生まれてしまったことに負い目を感じていることも、紫露が梧を見つめる視線に複雑な感情が混じっていることも、梧のために今勉強を頑張っていることも、気づいていた。
杠葉は、大丈夫、と何度も心の中で唱え続けてきた。家族が安心するように微笑んで、強がり続けてきた。
でも、紫露が生まれた時点で、杠葉の役割は終わっているんじゃないだろうか。そんな考えが、頭から離れない。
怖い。そのことが、とても怖かった。
—————もしも、あなたが思い描くような幸せが、梧くんや、……他の周りの人に訪れなかったら、時雨さんはどうする?
杠葉が時雨に言った言葉を思い出す。
私たちには決まった幸せがあるわけじゃない。他人を思い通りにできるわけでもない。
だけど、あの時の時雨は、何も答えなかった。
もし、梧たちが望むような幸せを手に入れられなかった時、時雨は今の幸せを、自分にはふさわしくないと手放してしまうような気がした。
“資格がない”と。
まるで武士か騎士のように、潔く。
それに巻き込まれる杠葉は、たまったものじゃない。
時雨にとって杠葉は、手を離しても平気なんだと思われているのかもしれない。
前世の杠葉は、そんな風に強い女性だったのかもしれなかった。
だけど杠葉は違う。
時雨が杠葉が離れていくことを怖がるように、杠葉も時雨と紫露が自分から離れていってしまうことが怖い。
自分から離れておきながら、あぁ、別にいなくたってなんとかなるな。それなら杠葉のことを解放してあげよう。なんて思われたらどうしようと思う。
もう、二人とは一緒に居られないかもしれない。
毎晩、その事に震えているなんて、時雨や紫露は思いもしないだろう。
この気持ちをいくら言葉で伝えても、伝わらない気がしてしまう。
「……そんなことないって、言って……、時雨さん」
杠葉はベッドの中で、自分を抱きしめながら呟く。
今夜は特に、日本にいる家族のことが恋しくてたまらなかった。




