48
「梧!」
時雨が慌てて、部屋に入ると、梧を呼びながら寝室に向かった。梧がベッドの中で身を縮めているのを見つけ、駆け寄り、
「梧!?」
頬を軽く叩きながら梧を呼ぶ。
朦朧とした顔の梧の頬は、燃えるように熱い。
「……しぐれ」
梧はうわごとのような声で時雨のことを呼んだ。
時雨はスマホを取り出して電話をかけながら、
「今、医者を呼ぶから」
そう言って梧のうつろな瞳を覗き込んだ。
電話がつながると少し梧から離れ、
「……あぁ、もしもし?霜槻です。先生、梧が風邪を……熱が高くて……、ええ、意識はあります。ですが、すぐに来てください!」
と、珍しく取り乱した時雨はそれだけ伝えて電話を切り、スマホを放って再び梧の顔を覗き込む。
「梧?梧!わかるか?」
梧は何も言わずに頷く。ひとまず意識があることにほっとすると、時雨は買ってきたものの中から氷枕を取り出して頭に当てたり、ホットタオルを作って汗を拭った。
梧に電話を切られた後、どうしても心配で、時雨は何度か電話をかけた。だが、電話に出ない梧に、時雨は嫌な予感がして、会社を抜けて様子を見にきたのだった。
落ち着かない様子で医師を待ちながら、十分もしないうちにかかりつけの医師が駆けつけ、診察と点滴をしてもらう。
ようやく様子が落ち着いてくると、梧は静かな寝息を立てて眠り始めた。
「……何事かと思ったよ。君が慌てているから」
「……すみません」
玄関まで医師を見送りつつ、時雨は気まずそうな顔をした。
「まあ、心配することはないよ。ただの風邪だね。喉はだいぶ腫れているから、しばらくは無理して喋らせないほうがいいかな。薬は飲み切るようにね」
「……わかりました。ありがとうございます」
頭を下げて医師の帰りを見届けた後、時雨は静かに寝室に戻った。
寝息は静かだが、梧は眉間に皺を寄せて、苦悶の表情をし始める。
ベッドサイドに座ると、時雨は小声で、
「何かあったのか……?」
と、独り言を言った。眠っている梧を起こすつもりもないし、目が覚めたところで聞けないだろう。
今の時雨には、面と向かって問う資格がない。
部屋の中には、脱ぎ捨てられたコートや服が、そのままにされていて、雨に濡れた後にすぐに着替えなかったのではないかと思えた。
梧は自分で行くと言ったが、時雨が来なかったら、病院に行かなかったかもしれない。
たまきと出会う前の梧は、自分の体調を顧みないことが何度かあった。
そのたびに時雨が諭して、時には無理やり病院に連れていって休ませた。
その頃を思い出すような部屋の雰囲気に、嫌な予感がよぎる。
いや、さすがに今はたまきが居るのだから大丈夫だろうと、かぶりを振って、時雨は寝室を出ると部屋を片付け始めた。
時雨は窓を叩く雨の音に外に目をやり、昨日から降り続く雨を見つめた。
—————そういえば、あの時も、雨がひどかった。
時雨は、ふと、久しぶりに前世のことを思い出した。
戦の最中、一度だけカザネとはぐれた、あの時のことだ。
戦争自体は終盤に近い頃ではあったが、まだまだ予断を許さない時期ではあった。
サギリは、他の騎士と共に敵を退けた後、必死にカザネを探した。
見つけられないうちに、サギリは大雨にあって動けなくなり、ひとまず雨を凌げる場所で身を潜めるしかできなかった。
もしもその間にも、カザネの身に何かあったらと思うと、生きた心地がしなかったのを覚えている。
自分が見ていない間に、梧の身に何かあったらと思うと、今も肝が冷える。
寝室の方を見つめてから、また、窓に視線を戻す。
あの頃のサギリは、カザネを失ったら自刃する覚悟だった。守れなかった責任を取るというだけの理由ではない。カザネのいないこの世に、留まる意味はないと思ったからだ。
それほどまでカザネの存在はサギリの中で大きい存在だったのに、……今では梧を追い詰めている。
時雨は、まだ窓の外を眺めたまま、ソファに腰を下ろした。
世が明けて、雨が弱まった頃、ハルが目の前に現れた。
まるで幻でも見ているかのように驚いたサギリに、ハルは苦笑いを浮かべた。
—————幽霊でも見たような顔だね。サギリ殿。
随分と、大人びた表情だった。
最後に会った時から随分と経っていたから、当たり前か。
だけど、雰囲気が変わった。……血のつながりはないはずなのに、スイによく似ていた。
—————尋ね人ならこっちだよ。
そう言うと、ハルはサギリに背を向けた。
カザネたちと出会った、サギリにとっては全ての始まりの日。あの日、カザネを探して街へ出て、森の入り口でスイに導かれた、あの日を彷彿とさせた。
ハルは、一人で旅をするようになって、本当に”風のもの”になったのか……と思いながら、サギリはその背中を追った。
……なぜ、俺の居場所がわかったんだ?
サギリが小声でそう問うと、
—————さぁ……。何となく行ってみたら居たから。時折そういう時がないかい?こっちじゃないかなと、わかるときがさ。
そう答えた。
わかるようで、わからない答えだった。
……そうやって、カザネ殿下も見つけたのか?
—————……そうなんだろうね。まさか、本当に、会えるとは思ってもみなかったけど。
……会いに、来たのか?
ハルは、その質問には答えなかった。
ハルとカザネが会うことを、快く思っていないことを知っているから、ハルは答えなかったのかもしれない。
ただ、その時のサギリに、ハルを責める気持ちはなかった。
なら……、サギリは何を期待して、その質問をしたのだろう。
危険を冒してまで、ハルがカザネに会いに来たのだと言ったら、サギリは何と返すつもりだった?
宿に行けなくなってからのカザネは、抜け殻のようだった。
毎日、布をかぶって顔を隠し、生きているか死んでいるかわからない日々に戻ったカザネを、サギリは胸を痛めて眺めていた。
たとえ、王族でなくとも、風のものと生きていくのは難しい。
鳥を捕まえておくことが難しいように、風は自由を好む。どれだけ愛しても、一緒にいたいと願っても、ふと居なくなってしまうのだから。
それは、ゼンもサギリもよく知っていた。
いつか二人を、引き離さなければならない。
だがそれが正しいのかどうか、サギリもゼンも、常に迷っていた。
サギリたちの迷いが、あの悲劇を招いたのかもしれないと、何度も思った。
敵軍が撤退し、ゼンの無事を確認した後、それぞれの場所へと戻るカザネとハルは、互いに名残惜しそうに見つめあっていた。まさか、結ばれた後だったとは思いもしなかったけれど。
……いや、思い返してみれば、二人の間には、そんな雰囲気もあったかもしれない。
サギリも心の奥では気づいていたのに、わからないふりをしていただけかもしれなかった。
時雨になっても、あの頃の後悔は尽きない。
あの時、カザネを自由にしてあげれば良かったと思う。
適当に死体をでっち上げ、死んだことにして王宮から逃がせば良かった。
ハルとともに行かせてあげれば。
たとえその先で、風によってハルと旅を続けることができなくなっても、カザネとハルなら、二人で互いに考え、ともに歩む方法を導き出すこともできたのではないか。
……もちろん、簡単ではないだろうけれど。
少なくともあんな死に方をせずに済んだのではないか。
時雨は、深くため息をついた。
意味のない後悔だ。
自分たちは、今世を生きているのに。まだ前世のことを考えているなんて。
ここからは、梧とたまきがこの先を考えて行けばいい。もう二人を阻む身分差はないのだから。
二人がともに歩めるなら、それほど嬉しいことはない。
だが、それには前世での秘密を、そのままにしておくことはできない。
梧がたまきを想うとき、脳裏には愛しさと同時に、彼女の傍に居てもいいのかという罪の意識が残り続けている。それを取り除いてやらなければならない。
いい加減、覚悟を決めなくては。
そう考えるたびに震える手を、時雨は強く握りしめた。
――――――――――――
心悠は、文化祭が終わった後、紫露に電話をかけてみた。
だが、出やしないし、折り返しも来やしない。
最近の紫露の様子から期待もしていなかったが、もどかしく感じた。
文化祭の翌日、天気も悪いし練習をする気分にもならなくて、心悠は家の中で、もやもやとたまきのことで悩んでいた。
かといって、梧のことを探るのが良いことなのかわからない。
もし本当に恋人がいるのだとはっきりしてしまったら、どうしたらいいかわからない。
たまきに、諦めて次に行けばいいよ、とは簡単には言えない。
梧は、挫けそうになるたまきのことを、何度も助けてくれた。
一日、さんざん悩んで一人でぐるぐると考え続けていたが、心悠は自分らしくない!と、立ち上がり、夕方になって雨が上がったのを見て、霜槻家に向かうことにした。
霜槻家の前で、心悠は妙な違和感に顔を顰めた。
もうあたりは陽が落ちてきていて薄暗くなっているのに、家に電気が灯っていない。
訝しく思いながら、玄関の呼び鈴を押してみた。
だが、当然ながら応答はない。
確か、杠葉は専業主婦でいつも家にいたはずなのに、と、庭の方を覗き込むが、人の気配は一切なかった。
何が起きているんだろうと、きょろきょろとしていると、
「……え、なんで?」
と、後ろから声がして、心悠は振り返った。
そこには紫露が驚いた顔で立っていて、買い物帰りのようで、エコバックを持っている。
心悠の視線に気づいて、紫露はそのエコバックを後ろに隠した。
「……どういうこと?」
訝し気な視線を紫露に向け、心悠は訊いた。
しかし、紫露は「何のこと?」と言うと、心悠の脇をすり抜け、玄関の前に立った。心悠の方を振り向きもしないで鍵を開けようとしている。
「杠葉さんは?いないの?」
紫露は答えない。
「……具合悪いとか?入院してるとかじゃないよね?」
「んなわけないじゃん」
心悠の質問に答えながらも、動揺しているのか、なかなか鍵穴に鍵を差し込めない。
「え?じゃあ何で誰もいないの?……その買い物、なんなの?」
袋に入っているのは、パンや総菜、すぐ食べられそうなものばかりのように見えた。
「……何でもないって。ただの買い出し」
ようやく鍵を開け、紫露はドアに手をかけた。
「嘘つけって。連絡取れなかったのも、なんかあったからじゃ……」
心悠は紫露に一歩近づく。
「何もないって……」
呆れたように息を吐き、紫露は振り向こうとはしない。
なにが起きてる?心悠の頭に疑問が浮かぶ。
何かよくわからないが、歯車がかみ合わなくなっていくような、足元がおぼつかないようなところに立たされているような、奇妙な違和感が胸に広がる。
「じゃあ、杠葉さんどこに居るの!」
言いようもない不安に駆られ、心悠が声を上げると、
「心悠先輩に関係ないだろ!」
思わず紫露も声を荒げた。
しかし、すぐに我に返って、紫露は慌てて心悠の方へ振り返った。
心悠はわずかに俯いていて、表情が見えない。
「あ……」
「…………ああ、そうだね」
何か言わなきゃと焦って言葉にならなかった紫露より先に、心悠の方が答えた。冷え切ったその声に、紫露の背筋に冷たいものが走る。
顔を上げた心悠の表情は一見するとただの無表情なのに、静かな怒りに満ちているようだった。
心悠のそんな顔を、紫露は初めて見た。本能的に、非情にマズいことだけがわかる。
心悠自身、自分でもよくわからないまま、腹の底からふつふつと湧き上がる怒りに、頭がおかしくなりそうだった。
心悠は、前世のこともわからない。
たまきの苦しみも、全てをわかっているわけではない。
紫露が陸上を辞めた理由も、隠している何かを話さない理由も、心悠には知ることもできない。
知る必要なんてないと、心悠には何もできることなんかないと、蚊帳の外に出された気持ちだった。
「……確かに、お前とは何の関係もないよな。ただ、同じ校区で、小中と同じ学校だっただけで」
「あ、いや……ちが……」
言い訳を口にしようとしたが、
「お前の気持ちは、よく分かったよ、霜槻さん。……誰がお前なんか頼るか」
心悠はそう言い捨てて、踵を返し走り出した。
「えっ、ちょ……」
見る見るうちに心悠は遠ざかり、紫露は呼び止めることもできなかった。
「……あぁ、もう……、何で」
紫露は頭をガシガシと掻いて、自分の不甲斐なさに項垂れた。
—————……誰がお前なんか頼るか。
ふと、心悠の言葉を思い出して、紫露は顔を上げる。
「……なんか、あった……?」
紫露は顔を顰めて、心悠の走り去った方向を見つめた。
ただ、見たこともないほど怒っている心悠に、気軽に、何かあった?と聞く方法が、思いつかなかった。
――――――――――――――
「ただいま」
時雨が家に帰ってくると、いつもなら勉強道具を広げているはずの紫露が、買ってきた荷物を置いてダイニングでぼーっと座っている。
「……何かあった?」
声をかけると、
「え?あぁ、お帰り」
と、紫露は息を吹き返すように我に返った。
時雨がコートを脱いでいると、「俺も着替えてくるわ」と部屋に向かった。
小首を傾げて、時雨も着替えに部屋に引っ込む。
紫露は部屋着に着替えながら戻ってくると、ダイニングテーブルの上の買い物袋から、買ってきたものを出して整理を始めた。
時雨も戻ってくると、
「そっちこそなんかあった?……顔色良くないけど」
と、紫露は声をかけた。
時雨はダイニングに腰掛けると、ため息をつく。
紫露はテーブルに総菜を置き、残りの食材をしまってから、お湯を沸かす準備を始めている。
「……梧が風邪をひいてね。様子を見に行ってた」
「え!アオ君、大丈夫なの?」
食器棚からマグカップを取り出していた紫露が、心配そうな顔で振り向く。
「まだ熱は少しあるけど、症状は落ち着いたから帰ってきたんだ」
梧には何かあったら必ず連絡をくれるように話をして帰ってきた。
梧は渋々頷いていたが、困っても連絡はしてこないかもしれない。
明日の朝また様子を見に行こうと考えながら、時雨はもう一度ため息をついた。
「……そっか」
紫露は二人分のマグカップにそれぞれティーパックを入れ、沸いたばかりのお湯を注ぐ。
その一つを時雨の前において、紫露は向かい側に座った。
「……で?」
ティーパックの紐を揺すりながら、紫露はちらっと時雨の方を見た。
「何悩んでんの?」
同じようにティーパックを揺すっていた時雨はそれを聞いて驚いた顔をした後、さっと手を引いた。
震え出す手を紫露から隠したかった。
苦笑いを浮かべ、テーブルの下でぎゅっと手を握りしめる。
「…………前世のことを、梧に話さなきゃならないと思って……」
紫露は一瞬、不安そうな顔つきになったが、ため息をついて、
「まぁ、……そうだろうなと思ってた」
諦めたように微苦笑を浮かべた。
「…………今すぐじゃないけどな。梧も、今は体調が悪いし、話すとなれば森庵とも相談しないと」
言い訳を並べる時雨の顔には、まだ迷いが見えた。
「……俺の前世と……、ハルさんの最期のことも、伝えるってこと?」
マグカップを眺めながら、紫露が聞く。
時雨は黙ったまま、少し間をおいて頷いた。
紫露が、ハルの最期のことを緝に聞こうとした時、緝は時間が欲しいと言った。
話すのに覚悟がいるような内容なのだと思う。
紫露は初めは聞きたいと思ったが、しばらく経って、聞くことが怖くなった。
「…………ハルさんは、…………俺のせいで…………」
「違うよ。お前のせいでも、誰のせいでもない」
時雨は紫露の言わんとすることを察して、すぐに言葉を遮ってきた。
気持ちを落ち着けるように、紫露はため息をついた。
「…………じゃあ、親父のせいでもないよな?」
紫露が顔をあげ、時雨の瞳をまっすぐ見つめた。
それが、前世の紫露の視線と重なる。
「カザネさんとハルさんが死んだのは、親父のせいじゃないってことだ」
「……それは……」
「そうだよ。親父は俺を育ててくれたじゃないか。今世で俺が、親父の子供に生まれたのも、親父のせいじゃない。だから、…………後ろめたく思わないでよ」
時雨は目を見開いて紫露の顔を見たが、すぐに視線を下げて黙り込んだ。
すぐには、そうだな、なんて言えないだろう。
だけど、このことを解決しないと、杠葉とのことも解決しない気がする。
前世とちゃんと向き合って、ちゃんと今世を生きなきゃ。
「……みんなの覚悟が決まったら、俺のこと、アオくんに話していいよ。逃げてばかりも居られないし。…………風呂、沸かしてくるね」
言うと、紫露は立ち上がってバスルームに向かう。
紫露も、震える体を、時雨に勘づかれたくないと思った。
話していいと言っておきながら、怖かった。
給湯のスイッチを押した後、紫露はそのままバスタブのふちに額をつけて、目を閉じる。
紫露の正体を聞いて、……梧は、どう思うだろう。
それを、たまきも知ったら……?
……どうか、嫌わないで。……変わらないで。
紫露は、二人の笑顔と……その輪の中にいる自分の、満たされた胸の温かさを思い出して、たまきに前世のことを話した時と同じように、切実に願っていた。




