創作をはじめられない理由 「失敗するのが怖い」
2017年末から、「創作をはじめるひと」「創作しつづけるひと」を増やしていこうとエッセイを書いています。
それを、今回から『自分のため』の創作ノートシリーズとしてまとめていくことにしました。
創作するひとが増えれば、おもしろい作品がたくさん生まれます。
また、創作するひとが増えれば市場が活性化します。
市場が活性化すれば、創作するひとたちのための書籍、ツールなどが増え、いまよりさらに創作活動がしやすくなります。
創作活動がしやすくなれば、もちろん筆者にも恩恵があります。
つまり、創作するひとを増やす活動は、『自分のため』の活動でもあるのです。
そういうわけで、『自分のため』シリーズをはじめるより前から、創作に興味があるひとを見つけては「やってみようよ」と声をかけることはしていました。
「いつか、本を出版してみたいんだ」
「時間ができたら、マンガを描いてみたいんだよね」
「前はやっていたんだけどね……。でももう一度、本腰をいれてやってみたいとは思ってる」
こんなことを言うひとを見かければ、すかさず誘います。
「毎日10分だけでもはじめてみようよ」
「いつかじゃなくて、いまでもいいんじゃない?」
ずいぶんおせっかいだなと、自分でも思います。
でも、創作するひとを増やしたいという“目的”があるので、できるだけ押しつけがましくないように提案をすることにしています。
提案を受けたときの反応は、ひとによって違います。
「いまは忙しくてムリだから」と断ってきたり、「そうだね」とあいまいに笑ったり。
返ってくるさまざまな反応のなかで、ずっと心にひっかかっているものがありました。
それは、「“失敗”するのが怖い」「ダメだったら恥ずかしい」というものです。
表現は違いますが、この反応は“失敗”という概念が、創作活動を邪魔するハードルとなっていることを示しています。
創作活動を邪魔するハードルと聞けば、対処しないわけにはいきません。
そういうわけで、今回は“失敗”という名のハードルについて考えていきたいと思います。
■“失敗”とはなにか?
そもそも“失敗”とはなんでしょう?
往々にして普段よくつかっている言葉ほど、ハッキリと定義を口にすることができないものですね。
まずは、“失敗”の意味を確認していきましょう。
■“失敗”の定義を確認する
“失敗”(デジタル大辞林より)
物事をやりそこなうこと。
方法や目的を誤って良い結果が得られないこと。しくじること。
「彼を起用したのは失敗だった」
「入学試験に失敗する」
「失敗作」
あらためて“失敗”の意味を調べなおしてみて、あなたはどう感じたでしょう。
意外な意味におどろき、目からうろこが落ちた心地がした人もいるかと思います。
筆者の場合、“失敗”は「方法がまずかったり情勢が悪かったりで、“目的”が達せられないこと」「方法や“目的”を誤って良い結果が得られないこと。しくじること」のイメージでとらえていました。
そのため、「なにかに挑戦したとき、さまざまな要因に影響されて“目的”に到達できない」ことだけを、“失敗”と呼ぶのだと認識していたようです。
しかし、「物事をやりそこなうこと」が“失敗”の定義にくわわると、また認識が変わります。
「物事をやりそこなうこと」が“失敗”だというのなら、なにかに挑戦したときだけでなく、“目的”があるのに、なにも行動をおこしていないときは“失敗”の範疇に入っているとも考えられます。
これを『自分のため』の創作ノートのテーマである、創作におきかえるとこうなります。
「創りたいものがあるのに、なにも行動をおこしていないとき」は、すでに“失敗”のなかに入りこんでいる。
やってみて、うまくいかなかっときだけではなく。
やりたいことをやっていない時点で、“失敗”がはじまってしまっている――。
やろうやろうと思いながら、いろいろなことを先延ばしをしてきた過去を思い浮かべると、なんとも耳が痛く、身が引きしまる思いがします。
■「“失敗”が怖くてはじめられない」にふくまれている矛盾
“目的”に到達できなかった状態。
それが、“失敗”の定義であることがわかりました。
その要因は、方法・環境・状況などさまざまですが、“目的”に到達できなかった状態が“失敗”と表現されるわけです。
また、なにも間違えていなくても、“目的”に到達できなかった状態と違いがありません。
つまり、行動をはじめていない状態は、すでに“失敗”しかけているということになり。
そのまま一切行動しなければ、いつか“失敗”が確定してしまうわけです。
この定義をもとにすると「“失敗”するのが怖くて、創作活動がはじめられない」という発言には、大いなる矛盾がふくまれていることがわかります。
どうやらこの大いなる矛盾が、心にひっかかりを生んでいたものの正体だったようです。
ここまで確認して、またあらたな疑問がわいてきました。
“失敗”は“目的”に到達できなかった状態。
では、“失敗”であると確定する要素とは、いったいどんなものでしょうか?
■“失敗”を確定する要素
“失敗”の確定に不可欠なのが、説明のなかにも出てきた“目的”です。
“目的”に到達できなければ“失敗”。
ここまでは迷いようがありません。
つぎに、創作における“目的”とは、いったいどんなものでしょうか?
その内容は、まさにひとそれぞれです。
例として、筆者の“目的”を出してみましょう。
創作における筆者の“目的”は、そのものズバリ「作品を創る」ことです。
もちろん、各作品にはそれぞれに違ったテーマがあります。
しかし、創作活動をしている理由は「創りたいから」であり。創作活動の“目的”となると、「目の前にある作品を創る」ということになります。
「作品を創る」という“目的”の場合、到達できなかったされるのは「作品が創られなかった」ときのみです。
では、「作品が創られなかった」と判定されるのは、いつのことでしょうか。
たとえば、書き途中の作品が完成しなかったとされるのは、いったいいつになると思いますか?
1年、2年、3年……10年、20年。
どれだけの年月が経ったとしても、完成しないと言い切れるのは、筆者が創作に関わる行動ができなくなったときだけ。つまり、寿命を迎えたときだけとなります。
つぎに、事例として出したさまざまな反応を、おなじように見直してみましょう。
「いつか、本を出版してみたいんだ」
「時間ができたら、マンガを描いてみたいんだよね」
「前はやっていたんだけどね……。でももう一度、本腰をいれてやってみたいとは思ってる」
いつかと考えている彼らも、まだ“失敗”していません。
定義上、“失敗”しかけていますが、まだ確定したわけではありません。
発言を見直してみると、彼らの“失敗”が確定するのも、筆者と同じように寿命を迎えたときということになります。
ここで、さらなる疑問が湧いてきました。
“失敗”しかけているけれど、実際は“失敗”していない彼らは、いったいどんな“失敗”を怖がっていたのでしょうか?
■“失敗”したと勘違いしやすい要素
創作すること自体が“目的”の場合、生きているかぎり、創作活動に“失敗”はありません。
むしろ、創作を開始した時点でなにかを創ったことになるので、“失敗”を回避したことになります。
そこまでは理解ができました。
「いつか本を出してみたい」と言っていたあのひとも、生きているかぎり“失敗”は確定しません。
「時間ができたら、マンガを描いてみたい」と言っていたあのひとも。「もう一度、本腰をいれてやってみたい」と言っていたあのひとも同様です。
では、彼らはなにを怖がっていたのでしょうか?
いったいどんなことを“失敗”だと勘違いしていたのでしょうか?
考えを深めていくヒントは、「いつか本を出してみたい」と言っていた、あのひとが残してくれていました。
本を出すなら賞に出さないといけない。
出版社は、年に一度か二度、大きなコンテストを開催している。
そんな風に話していたので、「じゃあ、コンテストに挑戦してみなよ」と伝えたところ、返ってきた反応はこうでした。
「うーん、いまは会社が繁忙期で。きっと間に合わないだろうし、もし“失敗”したら恥ずかしいから……」
■混同しやすい“ふたつの概念”
この「もし“失敗”したら恥ずかしい」という反応を見て、奇妙に思いませんでしたか?
さきほど確認したとおり、“失敗”は“目的”が達成できないと判明したときに確定します。
このひとにとっての“目的”は「いつか本を出してみたい」でした。
つまり、本を出せないまま寿命を迎えたとき以外で、“失敗”は確定しないのです。
しかし、このひとは“失敗”が恥ずかしいから挑戦しなかった。
なにかが噛み合っていない。そう感じませんか?
おそらくこのひとは、とある“ふたつの概念”を混ぜて考えていたため、このような発言をしたのでしょう。
無意識に混ぜて考えてしまっていた“ふたつの概念”――それは“目的”と“目標”です。
■“目的”と“目標”の定義をハッキリさせる
“目的”と“目標”。
この“ふたつの概念”について語る前に、まず定義を確認します。
目的(デジタル大辞林より)
実現しよう、到達しようとして目指す事柄。
目標(デジタル大辞林より)
そこまで行こう、なしとげようとして設けた目当て。
これだけではイメージしづらいので、たとえ話をします。
あなたはこれから、フルマラソンに参加するところです。
「いつかフルマラソンを完走する」と心に決めて、ずっと練習にはげんできました。
参加にあたって、すでにフルマラソンを完走したことがある知人に、こんなアドバイスをもらっています。
「いきなりゴールをめざすな。有名なマラソン選手は、走っている最中は、つねにつぎの電柱をめざしていたそうだ。お前も遠いゴールをめざさずに、つぎの電柱というスモールゴールをめざして走れ」
知人のアドバイスにしたがい、つぎの電柱、つぎの電柱とスモールゴールを重ねつづけたあなたは、ついにフルマラソンを完走することができました。
いまのたとえ話には、“目的”と“目標”が入っています。
あなたには、どれが“目的”で、どれが“目標”かわかりますか?
ここはもったいぶっても意味がないので、答えを出してしまいましょう。
“目的”……いつかフルマラソンを完走すること。
“目標”……次の電柱。
たとえ話の答えを確認したところで、いつか本を出したいあのひとの“目的”と“目標”にもどってみましょう。
あのひとの“目的”と“目標”は、こうなります。
“目的”……いつか本を出すこと。
“目標”……出版社が開催するコンテスト。
そうです。
つまりあのひとは、“目的”ではなく、“目標”を達成できないことを“失敗”と呼ぶのだと勘違いしていたのです。
■“目標”を達成できなくても“失敗”ではない
ずいぶん遠回りしてきましたが、最初のテーマに戻りましょう。
「創作をはじめたい」と考えているひとをなやませ、創作活動を邪魔するハードルとなっていた“失敗”。
この“失敗”は、あなたの“目的”に紐づいています。
そしてほとんどの場合、あなたの“目的”はとても遠い場所に存在しています。
また、“目標”に到達できないことは、“失敗”とは呼びません。
ただ“目標”に到達できなかっただけです。
“目標”は、経由地のひとつに過ぎません。
“目標”に到達できなかったときは、あらたな“目標”を設定し、また走り出せばいい。
もしくは、最初から複数の“目標”を立ててもいいでしょう。
“目的”地はひとつですが、経由地である“目標”は、いくつあってもかまわないはずです。
最終的に“目的”を達成できればOKなので、まったく問題はありません。
さて、あなたにとっての創作活動における“目的”は、どんなものが考えられますか?
「小説家になる」
「マンガ家になる」
「イラストレーターになる」
こういったものを“目的”としてあげたひとは、“ふたつの概念”――“目的”と“目標”を混同しています。
「小説家になる」は“目標”です。
あなたにとって、本当の“目的”とはどんなものでしょうか?
あなたが「小説家になる」ということをめざしている場合、なぜ「小説家」になりたいかを考える必要があります。
あなたはなぜ、「小説家になる」ことをめざしているのですか?
スゴイと言われたいから。
自分がかっこいいと思うから。
好きだから。
なににも邪魔されずに、小説をずっと書いていたいから――。
あなたがめざしているものが「小説家」でも、「マンガ家」でも、「イラストレーター」でも。
その名称自体は“目標”であり、本当の“目的”は「なぜ、それをめざしているのか?」のなかにあります。
考えてみてください。
あなたはなぜ、その“目標”をめざしているのですか?
質問によって導かれた答えが、あなたの“目的”です。
出てきた“目的”は、目の前にある“目標”よりも、ずっと遠い場所にあるはずです。
“目的”に決まった期日があるならば、その期日に“失敗”が確定します。
もしもその“目的”に、決まった期日がないのなら、“失敗”が確定するのは、あなたが寿命を迎えたときだけです。
そんな遠い未来にある“失敗”の確定を怖がり、“失敗”しかけた状態をつづけていて、なにかいいことがあるでしょうか?
特別ないように思えたなら、あなたはもう“失敗”のハードルを克服できています。
ハードルを克服できたなら、さっそく創作活動をはじめてみましょう。
メモにアイデアをかくのでも、創作のための資料や道具をあつめるのでも、とりあえずの“目標”を決めるのでもいいでしょう。
なにかをはじめるときは、いきおいが必要です。
いまのスッキリした気持ちを忘れないうちに、最初の行動をおこしてみてください。
さあ、なにからはじめてみましょうか?
疑問・質問があれば感想にどうぞ。
(返信は遅れる場合があります)
みなさんの創作における“なやみ”は、考えを深めていくなかでとても参考になります。
ひとことでかまいませんので、吐き出していってください。
お待ちしています。